第583話 冬の夜の秘密

 休日の午後、鏡華は自室の畳の上に緊張した面持ちで座っていた。室内の空気は現世のものではない。冥府の結界を発動し、真紅の漢服を纏い、雪のような白い肌にも鮮血のような隈取が浮かぶ。閻魔の姫君としての姿がそこにあった。


 「………」


 傍に控えていた浄玻璃鏡が、鏡華の前の文机にそっと、何かを置いた。それは一つの湯呑茶碗。されど、その中を満たすは優雅な香りの茶に非ず。真っ赤に煮え滾り、ドロドロと粘力のあるように見える液体だ。


 「……主……一気……に……」


 鏡華の傍に控えた浄玻璃鏡が促す。それに答えて鏡華は湯吞を手に取った。灼熱の湯吞を手に取り、思わずコクンッと喉が鳴った。


 湯吞茶碗を満たしているのは、融解し液体状となった赤銅である。その温度は千百度を超える。まさに灼熱。人の身体で触れることも想像するだけで恐ろしい、その熱の塊を鏡華は息を整えると茶碗に口をつけて一気に呷った。


 ドロドロとした赤銅が口の中に広がり、喉を経て、胃の中に落ちていく。熱に焼かれて身体の内側から臓腑の全てを滅多刺しにされるような激痛が鏡華を襲う。あまりの痛みに身悶えしそうになるのを何とか耐え、一滴残らず茶碗の中の銅を嚥下した。


 「ッ……ふー……フー……ふぅぅぅーーーーーーーーーーッ…………」


 痛みに耐えながら、何とか息を吐き続ける。部屋の中を満たす冥府の冷たい空気を吸い込んで、万一にも口や喉に残った銅が固体になってしまっては大事だ。ただただ痛みに耐え、結界が溶けないように精神を統一する。


 鏡華がこのような苦行に身を晒すのにはそれ相応の理由がある。これは、地獄の王閻魔の孫として生まれたが故の宿命である。閻魔王は死して冥府にやって来た亡者の行く先を決める裁判長であるが、その絶対的な権能も無条件に有しているわけではない。閻魔王は、を贖うために日に三度、燃え滾った赤銅を飲み干さなくてはならない。それ故に閻魔王の顔は赤に染まっているとも言われる。


 鏡華は、いずれ閻魔王の跡を継ぐ者として、日に三度とまではいかないが、週に一度、摂氏千度を超える赤銅を飲み干しているのだ。


 痛みに耐え続けること二時間弱、鏡華はやっと苦痛から解放され、結界を解いた。その瞬間、全身から汗が吹き出し、着ていた白い襦袢がしっとりと重くなった。


 「……お見……事…………」


 浄玻璃鏡が用意していた水桶に手拭いを浸して搾るのを横目に、鏡華ははらりと襦袢を脱いで雪の肌を晒す。その身体を浄玻璃鏡は甲斐甲斐しく拭いていく。


 「ふぅ……気持ちええ…………何度飲んでも慣れひんねぇ……」

 「それ……は……致し……方ない……」

 「せやね……おじい様も毎回辛そうやし……」


 鏡華は以前、父方の祖父である閻魔王が赤銅を飲むのを見たことがある。冥府の主神としての威厳ある姿も、祖父としての慈悲深い姿でもなく、一人の元人間として熱に悶え苦しんでいた。その隣で、母方の祖父であり、閻魔王の補佐である小野篁が、「一気!一気!」と煽っていたのはご愛敬だろう。


 浄玻璃鏡に汗を拭いてもらって、用意しておいた着物に袖を通し、帯を結んだその時だった。


 『鏡華、ちょっといいか?』


 ドアの向こうから、愛しいあの人の声が聞こえてきた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 「鏡華、ちょっといいか?」

 『うん……すこし待ってな』


 廊下から声を掛けると、すぐに返事があった。その声は明らかに疲れていた。


 (……やっぱり、相当しんどいんだな)


 双魔は鏡華が週に一度、苦行をしていることを知っていたし、それがどんなものかの知識もあった。隣の自室で冥府の結界の気配を感じたので、それが今行われたことも分かっている。


 鏡華はこの家に来てから一度も弱音など吐かずに自分の業と向き合っている。そんな鏡華に尊敬の念と労わってあげたいという気持ちがずっとあった。宗房の言葉がそんな気持ちを押してくれたのかもしれない。それで、双魔は意を決して鏡華に声を掛けたのだ。


 『お待たせ……入ってええよ』

 「ん、お邪魔します」


 部屋に入ると、鏡華は畳の上に姿勢よく座っていた。こちらを見上げて微笑んでいるが、その表情には重い疲労感が見てとれる。


 「どしたん?」

 「ん?……ちょっとな……」


 双魔はそう答えながらゆっくりと鏡華の前に胡坐をかいた。そして、じっと見慣れた綺麗な顔を見つめる。


 「な、なに?」


 鏡華は突然やって来て、用件も言わない双魔に少し動揺しているようだった。普段はあまり見ない雰囲気だ。そして、双魔は口を開いた。


 「身体は大丈夫か?」

 「え?あ……うん」


 鏡華はそれだけで、双魔が自分の状態を察してくれていると分かったのだろう。疲労の中に少し喜びのような安心感が浮かんで見えた。


 「そうか……少し、いい空気でも吸わないか?」

 「いい空気?」

 「玻璃、少し鏡華を借りるぞ」

 「……」

 「え?え?え?」


 浄玻璃鏡が頷いたのを見ると、双魔は鏡華をそっと抱き上げて、箱庭への扉を開いた。


 鏡華が混乱している一瞬のうちに、部屋の中から視界が変わった。目の前には見上げると首が痛いほどの巨樹が、足元には座り心地の良さそうな青草が広がっていた。


 「よっと」

 「……双魔?これ……」

 「いいから、そのままそのまま」


 双魔はいつの間にか引いてあった茣蓙ござの上に鏡華の身体を下ろした。そして、その傍に腰を下ろすと、鏡華の額に手を当てて自分の膝の上に誘った。あっという間に膝枕の完成。いつもは鏡華が双魔にしているので、いつもの逆だった。


 「扇八手おうぎやつで


 双魔が呟くと、少し大きめの八手の葉が双魔の手の中に現れる。そして、双魔はその葉っぱで鏡華を扇ぎはじめた。


 「……突然……どうしたん?」


 鏡華は双魔の顔を見上げて微笑みながら訊いた。不思議そうで、嬉しそうで、まだ疲れは残っているけれど、双魔の胸も温かくなる、愛しい顔がそこにあった。


 「ん……なんとなくな、こうしたくなったんだ……嫌だったか?」

 「ふふふ……全然……すこーし、びっくりやけど……嬉しいよ」

 「それならよかった」


 扇がれて前髪をふわふわそよがせながら、鏡華は穏やかな表情を浮かべた。そして、そのまま暗褐色の瞳でジッと見つめてくる。


 「……俺の顔に何かついてるか?」

 「ううん……うちの好きな優しい顔……でも……」

 「ん?」

 「いつもはうちが膝枕してるから……こうやって見上げる双魔の顔は……新鮮やねぇ……」

 「クックッ……確かに。俺もこうやって見下ろす鏡華の顔は新鮮だよ」

 「ふふふ……お互い様やね?」


 サーッと吹き、青草を揺らす心地よい風に包まれて。二人の眼差しは柔らかに混じりあう。軽やかな沈黙が続き、風の音だけが聞こえて、どれだけが経っただろうか。ふと、鏡華が静寂を破った。


 「ねえ、双魔」

 「ん?どうした?」

 「うちの……お願い、聞いて」

 「いいぞ。何がして欲しい?」

 「……ん」


 双魔が鏡華の額を優しく撫でながら答えると、鏡華は瞳を閉じた。それだけで、何がして欲しいか分かった。二人はもうただの幼馴染ではなく、名ばかりの許嫁でもない。


 「……ん」


 鏡華の耳に双魔の照れ臭そうな、ぶっきらぼうな返事が届いた。


 そして、少しの間二人の影が一つになった。それを祝福するように風が吹きすさぶ。


 やがて、唇を離すと双魔の目には、悪戯っぽい笑みを浮かべた鏡華が映った。


 「……なんだよ」

 「ううん……これでお互い様やねぇ……と思うだけ」

 「ん?」


 双魔はそれを聞いて不思議そうに眉尻を下げた。その表情が、可愛いくて、愛しくてたまらない。


 「……内緒」

 「あ、おい……」


 鏡華はゆっくり起き上がると双魔の胡坐の中に腰を下ろした。そして、手持ち無沙汰になった双魔の腕を自分の前に回す。抱き締めるかたちになって、少しの間を空けて、双魔はぎゅっと抱きしめてくれた。


 「……しばらく、このまま……」

 「……」


 鏡華が囁くと、双魔は返事の代わりに華奢な恋人を抱きしめる腕に力を籠めた。臓腑を苛んだ銅の灼熱とは正反対の温もりが鏡華を包み込む。思い出すのはあの冬の晩、眠る可愛い人の唇をそっと盗んだあの感覚。


 穏やかで幸せな二人だけの時間は、巨樹の影が色濃くなるまでずっと、静かに続いたのだった。


 

 

 

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