第7部エピローグ 断章

第580話 乱の終焉

 呉都、否、それは失われた国の名。上帝天国天都・建業城。


 正当な主を失い、簒奪者と彼の者に従う者たちも悉くも遠く軍旅へと赴き、がらんどうとなった王城。


 微かな剣気漂う、その玉座の間に突如、一人の男が現れた。金色の光と襤褸切れを纏った筋骨隆々の青年、自ら救世主を名乗る上帝天国天王、洪汎仁だった。輝く芸術品のような顔にはは余裕綽々の笑みが浮かんでいる。しかし、そこには僅かな驚きと不満が混じっていた。


 「主の愛し子、新たなる救世主たるこの洪汎仁にこのような仕打ちをするとは……あの異教の術者、油断ならんな。しかし……」


 洪汎仁は己の武骨な逞しい掌を目を遣る。そして、力一杯に握り締めた。金色の輝きが増す。身体の奥底から、天より与えられし聖なる力が無限に湧き出てくる。場所は振出しに戻ったが、あくまでも場所だけだ。刹那、崩れ落ちかけたあばら屋で死にかけていた惨めな自分を思い出して頭を振る。本当の振出しはあの時だ。記憶をかき消して、救世主はその両の瞳を強靭な決意で光らせた。


 「そもそも、異教の得体の知れぬ穢れた遺物を受け入れたのが良くなかったのだ。主は全能だが、私はそうではない。過ちはある。しかし、二度目の失敗は……ない!」


 洪汎仁は天より授けられた力のみで、この世の腐敗たる異教を駆逐し、中華全土を神の国の礎、上帝天国を建国することができる。「来るもの拒まず」の寛容を実行したつもりだったが、それが良くなかった。よって、次は手加減なしだ。


 シュッ。


 洪汎仁が右腕を上げると身体を包む金色の光がうねり、一瞬にして天井が蒸発した。隔てるものがなくなり、差し込んだ陽光が洪汎仁を照らし、神々しさがより高まる。


 「まずは、蜀からだ」


 左腕も上げ、両腕を天に掲げる。主より授かった清浄なる力で障害となる全てを消し去る。穢れなき無辜の民たち以外は全て必要ようない。狂気的、独善的、なにより圧倒的な力が放たれようとしたその瞬間だった。


 ジャキンッ!


 不意に、空への吹き抜けとなり、音の響くはずのない玉座の間に、鋏のような裁断音が響いた。


 「……貴様、神器所持者に敗れて消えたはずではなかったのか?」


 洪汎仁は両腕を下げて、眼前に何の前触れもなく現れた者、否、物を睨んだ。その目に映っているのは、不遜な笑みを浮かべ、白い戦装束と龍鱗紋様の鎧を身に纏った美丈夫。成都にてちったはずの金蛟剪だった。


 「クハハハハ!洪汎仁、救世主を騙る天の使いに踊らされた道化よ。我は貴様のような争いのない息苦しい下らぬ世界を作ろうとする輩が心底気に食わぬのでな。邪魔をしに来たまでよ」

 「……五王姫を利用して、協力を申し出たのは初めからこうする算段だった、ということか?」

 「我にとっては闘うことが愉悦だ。であらば、闘いを楽しんだ後に、争いをなくそうなどと惚けたことを実現しようとする貴様をこの手で処断するのが一番よかろう。まあ、巻き込んだ混元金斗たちには少し悪いが、な」

 「…………くだらないのは金蛟剪、貴様の方だ。最後の言葉くらいは聞いてやろう。白姫を通して、私の力を得た貴様では、私を傷つけることはできない」


 金蛟剪を動かしているのは白姫に授けた洪汎仁の聖なる力だ。その力では、力の根源であり、救世主たる洪汎仁には傷一つつけることは叶わない。天井と同じように消し去ろうと金蛟剪に右手を掲げた。しかし、金蛟剪は腕を組んだまま、不遜な笑みを一切崩すことはなかった。


 「確かに、貴様の力では貴様を害すことはできない、道理だ。が、貴様の力ではない力であれば、害することはできる」

 「何を……ッ!!?ガッ!き、金蛟剪!!貴様、何をした!」

 「簡単な話だ。貴様の妙に大雑把な力など全て使い切ってやったわ。その後に、白姫の燕の涙の如き魔力を我が剣気の糧としたのだ。貴様と天とやらの繋がりは“道縁鎖切断”にて断ち切った。大阿呆の愚かな企みもこれで無に帰すだろうよ。クハハハハハハハハハハッッ!!愉快だ!」

 「ばっ!馬鹿な!?馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なッ!!」

 「信じられないのであれば、不敬にも我に向けたその腕を見るがいい」

 「腕!?ッッッ!!!?わ!私の腕がっ!!!???」


 そこには先ほどまでの彫刻芸術のように美しく逞しい腕はなかった。あったのは、皮と骨ばかり、病に侵されて無惨にも黒く変色した、天の使いに見初められる前の枯れ枝のような腕だった。


 「それではな。貴様のお陰で数千年ぶりの闘いは実に楽しかった。礼を言っておくぞ。またしばらく崑崙山で監獄生活だろうがな」

 「まっ!まっ……まぁぁ……待……て……ぁぁぁ……主から授かった力が……私が……神の国を……救世主に……驕り高ぶった……奴らに……天の……鉄槌を……」


 右腕を皮切りに、痩せ細っていく身体からさらに絞り出した洪汎仁の言葉を嘲笑いながら、金蛟剪は足元に浮かび上がった太極図から突き出した光柱の中に姿を消した。


 差し込んでいた陽光は立ち込める雲によって遮られ、玉座の間には再び志への階段を断たれたみすぼらしい青年が転がっていた。


 「……私が……民を……救わな…………くて……は……」


 力なき呟きに応えるように、ポツリ、ポツリと雨が降り注ぎはじめる。


 そこに二つの影が現れる。一人は粗末な衣を纏った白髭の美しい老人。一人は白の道服を身に纏った若く中性的な美青年。太公望と張良だった。


 「金蛟剪は初めから洪汎仁の寝首を搔く腹積もりだったようですね」

 「ひょっひょっひょ!流石、強かよな。元始天尊様に少しは自由にしてやれるように掛け合ってやってもよいかもしれぬ」

 「……この者も初志は尊いものであったように思えますが」

 「方法を間違えば、どのようにもならぬことをよく知っておるはずだが?」

 「それはそうですね。では、ご指示通りにこの者を崑崙山へ」

 「頭の中を覗いて、此度の黒幕をしっかと確かめねばなるまいて」

 「太公望様、黒幕に見当はついているのでは」

 「お主もな。気になるのは近頃になって、やや派手に動いてきたこと……金蛟剪の望み通り、大きな波乱が待っているやもしれぬな」


 “封神”の術式と似た太極図によって、洪汎仁を仙界へと転送すると中華が誇る二人の軍師は四不象の背に乗って、雲の狭間を突き抜けて去っていった。


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