第546話 覇王の末裔

 「……矢が……消えた?」


 巨岩の上で残心を取っていた少女は眉をしかめた。接近してくる敵を確実に仕留めるために、回避を許さぬために放った十矢が敵を射貫く直前で消失したのだ。何をしたのか、表情に出さずにはいられなかった。


 少女の背丈は八尺二寸の長身。青い衣を身に纏い、手甲に胸当て、脚甲という軽装だった。目を引くのはその瞳と手にした弓だ。両の眼の瞳孔が二つずつあり、接近する敵を睨みつけている。手にした弓は一本角の黒蛟を象ったもので、目にするだけで全身の毛穴に針を差し込まれたと錯覚するほどの攻撃的な剣気を纏っている。


 「これならば……どうだっ!!」


 もう一度、弓を引き搾り剣気の矢を放つ。放たれた矢は青光となり、さらに一射目の倍の二十に分かれ、縦横無尽に敵に吸い込まれていったが、同じように全ての矢が消え去った。


 『敵は赤龍の末裔の縁者だ……正面から正々堂々と抹殺する。よいな?』


 蛟弓が唸るような低い声を出しながらその身を震わせた。怨みの感情が少女の身体を焼き焦がすように伝わってくる。少女にはその感覚がむしろ気持ちよかった。敵は得体の知れない術を使うようだが、それが闘争心を燃やしてくれる。


 「ええ……覇王の仇の一部ですもの。当然です。赤龍の縁者を悉く滅ぼす。そして……誰も苦しまない神の国をあの御方の手で実現していただかなくては……」


 少女は強く、強く蛟弓を握りしめた。遥か遠くからその異様な四つの瞳で捉えていた敵が眼下へと辿り着いた。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 「我が姓は関!名は桃玉!字を朱雲!誓約を結びしは青龍偃月刀!貴殿を討ち取る者なり!名乗られよっ!」


 狙撃手と相対した朱雲は高々と名乗りを上げた。その堂々たる声は巨岩に反射し、丘陵中に響き渡る。双魔は邪魔にならないよう、既に赤兎馬から降りている。自分の身を守るくらいの力はまだある。


 「お前は関羽雲長の末裔だな!やはり赤龍の化身賤しき劉邦の末裔の縁者か!されど、堂々たる名乗り!よって、妾も戦士の礼に則ろう。我が名は北王、項雛姫!覇王項籍羽が末裔なり!誓約を結びしは覇王弓!天王、洪仁汎様に仕えし五王姫が一人として、神の国の実現を妨げる貴様を討つっ!」


 青い衣を纏い、項雛姫と名乗った少女はすぐさま覇王弓を構えた。朱雲も赤兎馬の手綱から手を離し、両手で青龍偃月刀を構える。その様子を双魔は距離を置いて観察していた。


 (天王洪仁汎に五王姫……神の国……聞き覚えのない単語が多い……が、洪仁汎ってのが叛乱軍の首領ってところか。五王姫はそいつに仕える五人の幹部……全員、神話級遺物と契約した遺物使い…………厄介だな)


 双魔は今聞いただけで大体の状況を予想した。しかも、かなり正確にだ。


 (それにしても……覇王項羽の末裔にその遺物覇王弓……油断ならない相手……か)


 項羽は秦始皇帝の没後、秦帝国を滅亡させ天下を握えい西楚の覇王を名乗った大英雄だ。その個人の武力は中華四千年の歴史において最強と謳われる。覇王弓はその項羽の弓である。齢十五の項羽が討ち滅ぼした烏江の黒蛟龍の身体から作られたその弓の絶大なる威力は数多の敵を射殺し、果ては宿敵、赤龍の化身にして前漢王朝初代皇帝、劉邦を瀕死の重傷に追い込んだ。故に王侯や龍の力を持つものには無類の殺傷力を有する。朱雲にとっては相性が悪いと言ってもいい。


 さらに、朱雲は劉邦の血を引く現蜀王劉具の臣下。雛姫と覇王弓の言わば復讐対象の一人だ。遺物使い同士の相性といい、遺物の相性といい、朱雲には分が悪すぎる。しかし、朱雲は一切怖気づいていない。真っ直ぐに相手を見据え、やがて、赤兎馬の腹を蹴った。


 「はっ!!」


 ブヒヒィィィーン!!


 腹を蹴られた赤兎馬は高らかに嘶き、青緑色の剣気を靡かせて瞬時に地面を蹴り、そのまま北王項雛姫目掛けて跳躍した。


 一方、雛姫は剣気で形成された必殺の青い矢を三本同時に番えた。そして、神速を以て朱雲へと三度射出する。


 「“覇王弓赤龍鏖殺”ッ!!」


 絶叫と共に放たれた解技、九本の青矢は朱雲の眉間、心臓、両腕、両脚、そして赤兎馬を捉え寸分狂いなく飛翔した。とても避けきれる速さでも範囲でもない。朱雲は絶体絶命に陥る。


 「はああああああああっ!!!!」


 ギィン!ギィン!ギィン! 


 と、思われたが、朱雲はそれらすべてを青龍偃月刀の三薙ぎによって撃ち落とした。恐らく動きを封じる手と急所を狙う手を同時に打ってくると予測していたのだろう。それが的中した。


 が、雛姫もそれで動じることはなかった。既に次の矢を番えている。


 「はっ!」


 朱雲は赤兎馬の背中を踏み台にしてさらに跳躍し、遂に雛姫の上へと躍り出た。その瞬間、上下の利は朱雲のものとなった。


 「ッッ!」


 それまで冷静だった雛姫の表情が微かに歪んだ。弓手に、馬手に余分な力が籠る。四つの瞳の奥に怨念が滲む。そのまま、矢を放った。


 「我が怨みに落ちなさいッ!!」

 「ッ!ぐっ!」


 怨念をも乗せて引き絞られた矢は朱雲の右肘を射貫いた。朱雲の表情が苦悶に歪む。しかし、桃色の瞳は輝きを失っていなかった。


 「“青龍波導”弐式!“五関六将斬”っ!!」


 朱雲は利き腕に矢を受けながらも落下エネルギーと自らの剣気を噴出して超加速。雛姫が矢を番える隙を与えずに解技を発動した。が、雛姫も矢を番える隙が無いだけで動けないわけではない。後ろに跳躍して突っ込んでくる朱雲を回避しようとする。


 「避けきればまだっ……なにッ!?」


 バックステップを選択した雛姫の逃げ場を紅の氷壁が飲み込んでいた。一瞬、動きが完全に停止する。動揺した四つの瞳に映ったのは、迫り来る青龍偃月刀の刃だった。


 「やぁぁぁぁーーーーーー!!!!!」

 「卑怯なっ!やはり賤しき劉邦の……ガァーーーーーーーーハッ!!!」


 ガシャーーーン!ズガァァァアン!


 裂帛の声と共に振りぬかれた青龍偃月刀が雛姫の身体を吹き飛ばす。その衝撃に雛姫は紅氷の壁を突き破り、地面に激突した。朱雲は残っていた紅氷の壁を蹴ると空中を回転しながら双魔の傍に降り立つ。そして、右肘に刺さった剣気の矢を抜き捨てると雛姫の方を見た。


 「手応えはありました!」

 「……いや、まだだな」

 「……そのようですね」


 朱雲と双魔の視線の先では、地面にめり込むほどの衝撃を全身に受けたのにもかかわらず、雛姫がよろよろと立ち上がった、その腕には黒い水のような剣気を纏い、瞳を爛々とこちらを睨んでいる。


 『ここからは……この覇王弓が相手をしてやろう。必ず貴様らを殺してやる』


 先ほどまでの雛姫と違う、怨念の籠った唸るような声だった。


 「……あれは覇王弓か?」

 「雛姫の身体を乗っ取ったのですか!?」


 朱雲が目を見張る。その通りだった。気を失った雛姫の身体を覇王弓が動かしている状態だ。つまり、先ほどまでと段違いの強さになっているに違いない。警戒を強める二人だったが、そこに場違いな声が聞こえてきた。


 「ひょっひょっひょ!暴れるのもそろそろいいじゃろうて」


 飄々として愉快気な老人の笑い声だった。その声を聞いた瞬間、獰猛な笑みを浮かべていた覇王弓の顔が歪んだ。


 『貴様は!!?』

 「“封神”」

 『やめっ……グガアアアアアアアアアアアーーーー!!!!!!』


 瞬き一つする間もなく、覇王弓に乗っ取られた雛姫の足元に太極図が浮かび上がったと思うと、それが高速回転し、雛姫の身体を貫通して空へと消えていった。


 雛姫の身体はそのまま地面に倒れ込む。その手に握られていた覇王弓は既に消え、剣気の一切も感じられない。


 「……何が」

 「あ、貴方様は!」


 呆然とする双魔。一方、朱雲は声の主に覚えがあったのか、すぐさま姿勢を整えて拱手をしていた。いつの間にか人間態に戻っていた青龍偃月刀も同じようにしている。


 その前には黒い頭巾を被り、白髭を長く伸ばした老人がにこにこと笑いながら立っていた。横には黒い道服を着た少年と、龍と馬と麒麟を足して割ったような獣が控えている。


 「ひょっひょっひょ!お主が伏見双魔よな?会いたかったぞ?」

 「あ、貴方は?」


 あまりにも気安い感じで声を掛けてくる老人に、双魔は呆気に取られてしまい、それだけしか言えなかった。双魔の問いに老人は楽しそうに笑いながら答える。


 「ひょっひょっひょ!儂の名は呂尚。太公望でも、姜子牙でも、好きに呼んでよいぞ?」

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