第545話 馬中の赤兎

 一頭の馬が森の上を、木々の先端を蹴って飛ぶように疾走していた。その速さは時速二百五十キロメートルはくだらない。尋常な馬ではなかった。体高は世界一の大きさを誇るシャイヤー種の平均を優に超える二メートル。血のように赤い体躯、そして、何よりも青緑色の美しい光帯を森に描きながら、一直線に見定めた獲物目掛けて駆けているようだ。その背には……


 「これがっ……“赤兎馬せきとば“かっ!」

 「はいっ!双魔殿、口を開くと舌を噛んでしまいますよっ!」


 双魔と朱雲が騎乗していた。双魔は右手にティルフィングを握り、空いた左手で振り落とされないように朱雲にしがみついている。朱雲も右手で青龍偃月刀を、左手に手綱を握り“赤兎馬”を操っている。


 “赤兎馬”は「馬中の赤兎」と謳われた、中華きっての名馬だ。三国志の最強格、呂布奉先りょうふほうせんと関羽雲長をその背に乗せ、数多の戦場を駆けた。一日に千里、すなわち四千キロメートルを走破する速さと持久力はまさに伝説、神馬と称賛されても憚られることはない。が、今二人を乗せている赤き馬は赤兎馬本体ではない。「“青龍波導”番外“赤兎”」、それがこの解技の名だ。赤兎馬は最後の主であった関帝の伝説の一部として青龍偃月刀の権能の一部として吸収された。つまり、この神速の馬は剣気で形成されている。その上である程度の意思と知能を有する。仮初の姿ではあるが、まごうことなき赤兎馬だ。


 目標の狙撃手の位置は東南東に約九十キロメートル。赤兎馬の脚ならば二十分ほどで到達する。しかし、相手も接近してくる朱雲と双魔を放置するつもりは毛頭ない。


 『朱雲!来るぞ!』

 『ソーマっ!!』


 青龍偃月刀とティルフィングの警告が飛ぶ。次の瞬間、前方上空の左右に拡散するように十条の青光が見えた。飛行機のエンジンを射貫いたあの狙撃だ。先程までは一射ずつだったのが、今度はまとめて放ってきた。予想される原因は二人の距離と相手の距離が縮んでいるということ。こちらは遠距離攻撃手段に乏しい。つまり、相手にとってはピンチであるが、同時に双魔と朱雲を仕留めるチャンスにもなっているのだ。


 「っ!双魔殿!一旦止まって回避に徹します!!」

 「いやっ!そのまま進め!」

 「双魔殿!?たっ、確かに赤兎の速さならばあれらを回避しきることは不可能ではありませんがっ!」

 「向こうに隙を与える必要はない!そのまま突っ込んでくれ!俺がどうにかする!」


 双魔は自分の指示に動揺を見せた朱雲に抱きつく左腕に力を込めた。二人の身体の距離が更に密になる。互いの胸の鼓動が分かるほどに。


 「っ!わかりました!双魔殿を信じます!」


 朱雲は双魔の判断を信じることを即決し、緩めようとしていた手綱を力強く握り直した。視界に映る十条の放物線は二人を完全に捉え、接近してくる。こちらも動いているため、追尾能力があるとみて間違いない。故に回避は無駄だ。双魔はそう判断したのだ。


 「すぅ……はぁーーーーーーー……」


 双魔は瞼を閉じると短く息を吸い、長く息を吐いた。同時に自らの魔力を放出していく。燐灰の光が青緑色の剣気を纏う赤兎馬の身体を包み込む。幻想的なその光景は清流に浮かんだ泡沫のようだ。これで準備は整った。あとは集中に徹する。


 「双魔殿!来ますっ!」


 青光が目前に迫る。受ければその身全てを崩されそうな鋭さと、熱が籠められた十射。本能的に朱雲は目を閉じそうになる。このままでは直撃だ。しかし、そうはならなかった。


 「……え?……消え…………た?」

 朱雲は驚きのあまり閉じそうになっていた瞼を見開いた。少し口も開いてしまう。無理もない。言葉通り、消えたのだ。自分たちに向かってきていた十条の青光が全て消え去ったのだ。その現象はまるで、


 「…………“虚空の穴ファザイホリィザルゥ”」

 「双魔殿……ですか?」


 朱雲は呆然としながら振り向いて、双魔の顔を見た。丁度瞼を開いた双魔と目が合う。


 「ん、まあな……それより、向こうは今こっちを仕留めたと思って油断、それか異変を感じ取って混乱してるはずだ。この隙に距離を詰めるぞ!」

 「はいっ!赤兎!」


 ブヒヒィィィーン!


 朱雲に腹を蹴られた赤兎馬がさらに加速する。双魔の勘だと、この隙をついて狙撃手が視認できる距離まで近づくことができるはずだ。そう考えると同時に、双魔は少しホッとしていた。


 (…………我ながらぶっつけ本番で修行の成果を活かせるとはな……)


 思い出すのは師、アジ・ダハーカの言葉と課せられた修行の内容だった。


 『妾の可愛い双魔、これより先より強き敵が前に立ちはだかることもあろう。故に、常時相手の攻撃を無効化する手段を身に着けるが良い。今までのようにコツは指南する故、己の考えでその手段を形作れ……妾の可愛い双魔ならできようぞ。必ずな』


 優しく、何処か心配そうに微笑んだアジ・ダハーカに課された修行は、常時自分の魔力を空間魔術に変換できる状態に保ちながら体感にして一両日中過ごすというものだった。


 その修行によって双魔が生み出したのが、“虚空の穴・鎧”、その名の通り“虚空の穴”を自分の周囲に纏う魔術だ。まだ精神的集中を要する未熟なものだが、今後の研鑽次第ではアジ・ダハーカの提案通り、敵の攻撃を常に無効化する手段とすることができるだろう。


 「……ふぅ」

 「双魔殿!流石です!……お疲れですか?」


 疲労が吐息に乗ってしまったのか、朱雲が気遣ってくれる。それが嬉しい。勿論、視線は前に敵の存在は忘れていないようだ。


 「ん、任せた……速攻……俺も助力はする。成都に辿り着くのが最優先だ」

 「はい!お任せください!」


 朱雲の元気な返事が心地よく聞こえる。やがて、赤兎馬は森を抜け巨岩の多く聳え立つ丘陵地帯に突入した。その一角に目的の人物が鷹の如き目でこちらを見降ろしている。双魔の胸に不安はなかった。


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