第三章「いざ、入蜀」

第538話 呉国簒奪

 時を遡ること三週間。


──中華大帝国、呉国王都、建業


 建業はまたの名を建康、南京と称し、中華の歴史上、三国時代孫呉の初代皇帝、孫権が都と定め、その後の六朝時代、千年の時を経た明王朝の時代に都とされ、重要な都市であった。現在は再び三国に分かれて統治される中華の一角、呉国の王都として栄えている。


 長江と鍾山に挟まれた建業城は要害の地にあり、彼の諸葛孔明を以て「帝王に相応しき地」と言わしめた。さらに孫権の築いた強固な城壁に守られる。その総延長は約三十三キロメートル。現呉王は孫昇。その名から分かる通り、初代皇帝孫権の後裔であり、齢二十三の若年ながら、威風堂々とした長身と鷹揚な度量でなかなかの名君として臣下、民から慕われていた。


 その日、孫昇はいつものように謁見の間の玉座に腰掛け、臣下の報告を聞きながら政務に励んでいた。二週間に一度、民からの陳情に直接触れる機会。孫昇のやる気もいつもより高い。


 「此度はどのような要望が来ておるか?」


 陳情書の入った箱を持って少しふらつきながら歩み寄る白髭の立派な左丞相じょうしょうに前のめりで訊ねた。先代の時代から支えてくれている股肱の臣で、道術にも長けた頼れる存在である。主君に問われた左丞相は元々深い眉間の皺をさらに深くして答えた。


 「はっ。此度は……貧民街の問題についてのものが多いように思われまする」

 「左丞相。重いでしょう。私が。最近はそのような陳情が多いですね?近衛兵や守備兵、警邏隊の者たちも貧民街の治安が悪化していると報告しています。中には徒党を組んで悪巧みをしていると見える者共もいるとか……」


 左丞相から箱を受け取り、話を継いだ小太りで少々背の低い人物は右丞相である。孫昇の学友で若いながらも仕事ができ、信頼のおける人物だ。右丞相は主君の前に置かれた台に丁寧に箱を置いた。


 「貧民街か……確かにその問題については聞き及んでいるが……うん?うっ!?」

 「我が君!」

 「王様!衛兵っ!!」


 孫昇が箱の中の陳情書に手を伸ばそうとした瞬間だった。突如として、謁見の間に閃光が巻き起こった。すぐさま左右の丞相が主君の盾となるべく前に立ちはだかった。左丞相は素早く術符を取り出して即座に結界を張る。部屋の端に控えていた近衛兵たちも右丞相の叫び声に、盾で閃光から視覚を守りながら臨戦態勢に入った。


 「何が起きたのだ!?」

 「貴方がこの国の王か」


 孫昇の声に応えたのは聞き馴染みのない声だった。やがて、視覚が回復すると孫昇の目に声の主が映った。その者は襤褸切れを纏った筋骨隆々たる青年だった。年の頃は自分と同じくらいだろうか。しかし、その者は異様だった。金色にその身を輝かせ、二メートルはある階の上の玉座に座る孫昇を宙に浮かんで見下ろしていた。衛兵たちは皆遺物使いだ。抜剣して剣気を練り上げて構えているが、正体不明且つ得体の知れない力を持つであろう謎の青年相手に即座に手を出せる者はいなかった。


 「何者かっ!」


 孫昇は自分の盾になってくれている右丞相の肩に手を置いて少し下がらせると、立ち上がって堂々と青年に名を訊ねた。その問いに無表情だった青年は僅か口角を上げた。


 「我が名は洪仁汎こうじんはん。世界の新たなる王にして、神の国を実現する者である!呉王孫昇!その一歩としてこの国を我が国とする。疾く去れ!さすれば危害は加えぬ!」

 「っ!貴様何を!」

 「ほうこーく!ほうこーくっ!我が君に緊急の報告を奉るっ!」


 孫昇が洪仁汎と名乗った青年の戯言を問いただそうとした時だった。守備隊の副隊長が血相を変えて謁見の間に駆け込んできた。平時であれば決して許されないことである。


 「貧民街を中心に民たちが宮城に行進しております!守備隊や警邏隊の制止も聞かず、既に正門から一部が侵入しておりますっ!」


 (っ!?まさかっ!?そんな馬鹿な!!?)


 副隊長の決死の報告に聡明な孫昇は悟った。目の前にいる仁汎の仕業に間違いないと。しかし、同時に信じられなかった。貧民街の問題は上がっていたが、民が反旗を翻すなど。そのような予兆は一切なかったのだ。孫昇は動揺した。一瞬思考が停止してしまった。それを仁汎は勧告を無視したと判断した。


 「去るつもりはないと見た。それでは消えてもらおう」


 洪汎仁は孫昇に右手を向けた。身に纏う金色の光が強烈に煌めいた。その場にいる仁汎以外の全員が、全身から汗を噴き出した。それは決して、決して人には抗えない力であると悟ってしまったのだ。


 「退け退け退けっ!!我が君!ご無事ですかっ!?」


 絶望的な空気の中、謁見の間に全身を白銀の甲冑で覆った屈強な男が飛び込んできた。年の頃は五十代、伸ばしきった黒髭に所々白髭を混ぜた熊のような偉丈夫であった。その横には薄紅色の衣を纏い、紫髪を結い上げた細身の美女を連れている。


 「叔父上かっ!紫電も!」


 彼の名は孫硬そんこう。孫昇の叔父にして呉国の武官筆頭の大将軍。横にいる美女の名は紫電。初代皇帝孫権が作らせたという六振りの宝剣の一つであり、孫硬の契約遺物である。


 「紫電ッ!」


 孫硬の鋭い声に紫電は剣へと姿を変えた。紫色の剣身が美しい剣だ。紫電を手にした孫硬は紫色の雷電を身に纏い、一瞬にして宙に浮く仁汎に斬りかかった。


 その一閃はまさに呉国最強の一撃。孫昇が、左右の丞相が、近衛兵たちが、危難を切り抜けた。そう思った。しかし、それは束の間のことであった。


 「ぐっ……貴様っ……」


 孫硬の紫電による斬撃は仁汎が身に纏う黄金の輝きに阻まれ、薄皮に一筋として傷をつけることなく、完璧に防がれていた。奇襲を掛けられたはずの仁汎は眉一つ動かさない。この光景に、近衛兵たちは全員戦意を絶たれてしまった。しかし、大将軍はそうではなかった。孫硬は自分の役目を、尊敬する主君、愛すべき甥を助けるために叫んだ。


 「丞相方!昇を連れて逃げよっ!魏王か蜀王に救援を求められよっ!!」

 「叔父上っ!!」

 「王様っ!左丞相殿っ!」


 孫硬の気持ちを誰より早く汲んだのは右丞相であった。叔父に手を伸ばそうとする主君の、自分より大きな身体を抱え込んだ。それと同時に左丞相動いた。張っていた結界の核となっていた十枚の術符が、仁汎が現れた時以上の白い閃光を巻き起こしたのだ。


 謁見の間を満たした白閃が収まった時、残っていたのは仁汎と孫硬、紫電のみであった。


 「優れた王だ。よい臣下もいる。しかし、それでも神の国は実現できない」

 「貴様何を言っているっ!」


 仁汎の呟きの意味を理解できない孫硬は激情のままに叫んだ。目の前の敵を斬り捨てようと紫電を押し込もうとするが、無情にもその刃が黄金の輝きを裂くことは叶わなかった。


 「来たか」

 「なに……がっ!!?」


 仁汎の二度目の呟きを耳にした孫硬が、その疑問を最後まで口にすることはなかった。何の前触れもなく、身体の右側面から凄まじく重い衝撃が走ったのだ。まるで、山で殴られたかのような一撃。暗くなっていく視界に僅かに女のような影が映った。空中にいた孫硬はその勢いのまま墜落した。


 ボコンッ!グシャ!…………ガキンッ!


 叩きつけられた孫硬を中心にクレーター状に床がめり込んだ。少し間を置いて、孫硬の手から離れた紫電が床に突き刺さった。呉国の大将軍、彼が動くことは二度となかった。


 「……我が父も、我が兄も血は好まないのだがな」


 仁汎は孫硬を打ち落とした影を一瞥しながら、玉座の前に降り立った。そして、ゆっくりと腰を落とす。右手を軽く上げると玉座の上に旗が掲げられた。黄地の中央に十字架、その十字架には竜が巻き付いている。


 「これより、この穢れた世界を清き神の国とする。国名は上帝天国!……五王姫たちよ。第一目標としてこの中華を平定する。我が手足として大いなる働きを期待する」


 こうして、呉国は上帝天国国主、洪仁汎の手に落ちた。玉座より荘厳なる号令をかけた彼の下には五人の女がかしずき、強大なる五つの神話級遺物が争乱に胸を躍らせていた。

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