第529話 ”千魔の妃竜”

 “アジ・ダハーカ”、その名を聞けば当世を生きる強者たちでさえ、戦慄せざるを得ない千の魔術を操る竜の魔女神である。彼女の強大な力と存在は古く古代ペルシャ神話、そしてゾロアスター神話の聖典『アヴェスター』に謳われる。その姿は三頭三口、神をも怯えさせる六つの目を持つ有翼の竜蛇。頭はそれぞれが苦痛、苦悩、死を司る。その翼は広げれば天を隠し、世界を闇に染めるほど巨大なものとされる。


 世界に善悪二元論を生んだゾロアスター神話における絶対悪、“諸悪の根源アンリ・マンユ”に生み出された最凶の悪神。神話においては絶対善、“万善の智叡アフラ・マズダ”の子息にして最強の配下たる火の英雄神アタールと激しく覇を競い合った。そんな竜の魔女神にも終わりが語られる。アタールとの決戦を引き分けに持ち込んだアジ・ダハーカであったが、ある時を境に魔力と闘争心に陰りを見せる。そして、清浄の女神アナーヒターの加護を受けし大英雄スラエータオナによって討伐された。闘いににおいては、アジ・ダハーカは不死身であった。身体に剣を突き刺し、薙ぎ払って切り口から眷属たる蜥蜴や毒蛙、禍々しき虫などの邪悪な生き物が這い出すため、スラエータオナはアジ・ダハーカを殺すことができなかった。故に、最終手段としてダマーヴァンド山の地下深くに封印したとも、彼女自ら望んで眠ったともされている。


 また、神話には語られないがアジ・ダハーカにはもう一つの名が存在した。その名は“絶対悪の寵姫ジャヒー”。彼女は“諸悪の根源”の娘にして、母であり、最愛の后であった。幾度もの、無限とも言える“万善の智叡”との闘いにおいてアジ・ダハーカの献身によって“諸悪の根源”は敗北を喫する度に立ち上がったという。しかし、神代の終わり、“諸悪の根源”は“万善の智叡”に最後の闘いを挑み、敗れ去った。彼はこの世界から姿を消した。アジ・ダハーカの力が衰えはじめたのはその時からであったと知る者は彼女自身だけ。


 つまり、“千魔の妃竜”とはこそ世界における最強の魔術神の一柱にして、慈愛深き神。一度たりとも、この世界を離れたことのない畏怖すべき古き神である。


 ティルフィングは眼前で自分を見下ろすアジ・ダハーカの名乗った女の顔を見上げた。すぐに理解する。アジ・ダハーカは神であり、竜だ。頭には漆黒の角が生え、赤と黒の衣から出た嫋やかな手は鱗に覆われ、下半身は二本の脚ではなく、まさに蛇だ。きっと真の姿ではないのだろう。


 多くの命をそれだけで射殺せそうな碧玉の瞳が、紅玉の瞳が、そして紫水晶の瞳がティルフィングの姿を映している。


 「うむ!綺麗な竜ではないか!我が名はティルフィング!双魔の契約遺物だ!よろしく頼むぞ!」

 「…………」

 「「ハ??」」


 恐るべき竜神を前に、ティルフィングはいつもの調子と全く変わりなく、自分の倍はあろう背丈の相手に胸を張って自己紹介をした。予想だにしなかったのか、マグスとダエーワは目を丸くしている。アジ・ダハーカの視線からも圧が消えた。


 「ん」

 「うむ?ソーマ……くすぐったいぞ?」


 特に前触れもなく、双魔に頭を撫でられたティルフィングはくすぐったそうに身体を揺らした。そんな、二人の仲睦まじい様子を見て、ついにアジ・ダハーカが沈黙を破る。


 「……フッ…………ウフフ……ウフフフフフフッ!!」

 「む?突然笑ってどうしたのだ?何かおかしなことでもあったか?」


 突然、笑い声を上げたアジ・ダハーカをティルフィングは怪訝そうにもう一度見上げた。


 「ウフフフフ!主、面白いではないか。妾を見て嘘偽りなき思いにて綺麗な竜などと宣うとは……ウフフフフフフフフッ!面白いぞ!」

 「面白イ面白イ!コンナ奴ヒサシブリ!」

 「モシカシテ私タチモ綺麗?」

 「うむ、お主たちも綺麗だと思うぞ?」

 「聞イタ?」

 「聞イタ!聞イタ!俺、コイツ気ニ入ッタ!」


 如何やら師はティルフィングのことを気に召したようだった。双魔は心配していなかったわけではないが、流石に内心ホッとした。


 「よい、ティルフィングと申したな?妾は主を認めよう……力の限り双魔を助けよ」

 「うむ!任せておけ!」


 アジ・ダハーカはティルフィングに手を差し出した。ティルフィングはアジ・ダハーカの大きな手の人差し指を両手で握って軽く振った。信愛を表す握手だ。


 「妾の可愛い双魔。よい遺物と契約したな」

 「はい。師匠のお陰です」

 「ウフフッ……謙遜するでない。其方の運命が導いたことじゃ……女神とは意思疎通はできるのか?覚醒後に身体の不具合はないか?」

 「……やっぱり、師匠は俺が“神器アーク”の所持者であったことも……ロキとの因縁も知ってたんですね?」


 双魔の問いに機嫌の良かったアジ・ダハーカの顔が少しだけ曇った。


 「……赦せ。シグリとの約定であった。それに、其方には自ら道を切り開いて欲しかった。事前に知った運命に囚われて欲しくなかった」


 その表情と悲痛にも聞こえる声に、双魔は師の思いを全て汲みとることができた。双魔のことを思ってのことだった。母との約束もそういう事なのだろう。双魔は微笑んだ。


 「大丈夫です。それを聞いて、俺は感謝はすれど恨むなんてことはしません。意思疎通はたまに話しかけてくるくらいです。ついこの間までは身体も弱かった。でも、ティルフィングと契約してからは健康そのものです……ありがとうございます」

 「……そうか……うむ、ティルフィング、主にも礼を言わねばなるまいな?」

 「む?我は何もしていないぞ?なぜ礼を言われねばならないのだ?」

 「ウフフッ……主はほんに面白いのう……コホンッ……さて……妾の愛しい双魔?」

 「ん?何ですか?」


 ティルフィングの天然のお陰で笑みを取り戻したアジ・ダハーカは一つ咳払いをすると双魔をじっと見つめてきた。何となく熱の籠った視線だ。


 「うむ……その……妾に……何か言うことはないかのう?」

 「言うこと……ですか?」

 「う、うむ……言うことじゃ…………うむ」


 アジ・ダハーカはそう言うとふいっと視線を逸らした。代わりにマグスとダエーワがくねくねと身体くねらせて何か言いたげだ。アジ・ダハーカと二頭の態度に双魔は一瞬考えた。


 (……なんだ…………ああ……)


 そして、すぐに思いついた。このやり取りには覚えがある。昔、双魔がこのアジ・ダハーカの神殿で暮らしていた時、二人で旅に出ていた時に経験している。だから、双魔はあの時と同じように師の顔を見つめた。


 「師匠」

 「なっ、何じゃ?」

 「今日もお綺麗ですよ。衣も新しいものでしょう?よくお似合いです」

 「っ!うっ、うむ!うむ!そうであろうそうであろう!」


 双魔の誉め言葉を聞いたアジ・ダハーカは視線を戻すと頬に両手を当て、顔を赤らめた。妖艶な唇の間からチロチロと舌を出し入れして嬉しそうにしている。


 ビターン!ビターン!パラパラッ!


 テンションが上がったのか、尻尾で床を叩くと、少しだけ土煙が舞った。


 「流石双魔ダナ!」

 「ソウソウ!分カッテルー!」


 マグスとダエーワも嬉しそうだ。こうして、双魔は久方ぶりの師への再会とティルフィングの紹介を無事終え、そのまましばらく談笑をして過ごすのであった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 「失礼いたします」

 「うむ、ザッハーク……何用か?」


 頃合いを見てザッハークが石造りの扉の奥に入るとそこには主のみで、先に向かったはずの双魔とティルフィングの姿はなかった。


 「双魔殿と契約遺物殿はどちらに?」

 「うむ、少しな。気にしなくてよい。それよりも用件があるのならば申せ」

 「はっ……実は…………」


 ザッハークは己が独断で招いた三人について主に奏上した。話を進めるごとに機嫌の良かった主の表情は変化していく。


 「……ということでございます。如何様の罰もお受けいたします」


 ザッハークは奏上を終えると恭しく己が身を冷たい石床に投げ出した。


 「……よい。妾は機嫌が良い。不問に付す……その者たちを連れて参れ……妾の愛しい双魔に相応しいか、この手で試してくれようぞ?」


 アジ・ダハーカの顔には笑みが浮かんでいた。恐ろしき線の魔術を従える竜の魔女神の壮絶なる笑みを、浮かべていた。


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