第225話 戦慄の魔影

 「……………………」

 「…………」


 その場に現れた謎の女影は暫し沈黙を保ちヴォーダンを真っ直ぐに見据えていた。


 ヴォーダンもまた障壁を張るグングニルを横に移動させ言葉を発さずに影を見据える。


 晴久、ヴィヴィアンヌ、ジルニトラはそれを固唾を飲んで見守り、呂尚は虫に囲まれて喚き散らすマーリンを冷めた目で見ながら、女影の出方を窺っていた。


 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。


 緊張からヴィヴィアンヌの額に浮き出た汗が頬を伝い胸元に滴り落ちた時、女影が初めて声を発した。


 『…………妾が、この場に影を送ったのは何故か、そちらは分かっておろうの?……ヴォーダン=ケントリス、それにジルニトラよ』


 口ぶりは穏やかで、若い女の鈴のような声だが威厳と威圧感、そして全てを圧し潰せるような魔力を帯びた響きだ。


 その強力さに晴久の結界を僅かに揺らめかせ、ヴィヴィアンヌの障壁は目に見えるほど歪んでしまっていた。


 「うむ……儂とジルニトラにとっては不本意じゃったが約定に背きかけた……すまんな」

 『我からも謝罪する。貴殿との約定に抵触するつもりは一切なかったが、この状態に陥った責任は免れぬ……心より詫びる…………故に、どうか心を収めていただきたい』

 『…………クックッ…………クハハハハハハハハ!詫びだと?貴様らの詫びなど聞きたいわけではない。妾は約定に触れればどうなるか言ったはずだが?』


 女影の声は険を帯び、重圧がより強くなる。


 (ふむ…………不味いのう……いくら神代から存在する竜とは言え女性…………一度気が立っては聞く耳を持たん…………ここに彼を呼ぶわけにもいかん、さて、どうするか…………)


 ヴォーダンが内心冷や汗をかきながら懸命に策を巡らせている間に影の本体と同じ竜であるジルニトラが間を繋ごうと懸命に言葉を紡ぐ。


 『少し落ち着かれよ、我らは決して貴殿の弟子に危害を加えようと企てたわけではないのだ』

 『…………信用するに値しない、そこの夢魔との混血が確かに妾の愛弟子を害するようなことを口に出したではないか……』

 『マーリンはそのような事を口にするだけで、何かをする気はないのだ……どうか、落ち着かれよ』

 『聞く耳持たん!我が愛弟子を害する可能性が微塵にもあるならばっ…………!』


 女影の声が燃え盛る炎のように激しさを増しかけたその時だった。


 『ひょっひょっひょ!』


 意外な者がこの修羅場に似つかわしくない笑い声を上げた。


 余りに場違いな声に、情けなく障壁の中で縮こまっているマーリン以外の全員の視線が笑い声の元に集まった。


 声の主は、ヴォーダンとジルニトラの話を聞く前から何となく事情を察しているような雰囲気を出していた呂尚だった。


 『貴様…………何を笑っている』

 『ひょっひょ!これはご無礼を。お初にお目にかかる。儂は元始天尊の弟子にして現世の均衡を仰せつかっている姜子牙と申す者。貴女様は波斯の”千魔の妃竜”殿とお見受けする』

 「っ!?」


 呂尚の口から出た”千魔の妃竜”と言う名にヴィヴィアンヌは目を瞠った。聞き覚えのあるその名はこの時代に決して出てくるようなものではなかったからだ。


 一方、呂尚の言葉を聞いた女影は僅かに威圧感を緩め感心したような反応を見せた。


 『ほう……中華の仙人よ、妾の名を知っておるのか?殊勝なことだ』

 『ひょっひょっひょ!貴殿に比べれば浅学と雖も、尊名は存じております。そこで、この姜子牙に免じて、少々愚説を聞いていただきたいのですが……よろしいですかな?』

 『…………よい、許す。申してみよ』


 臆さずに自分に語り掛けてきた呂尚に興味が湧いたのか”千魔の妃竜”と呼ばれた女影は鷹揚に頷く仕草を見せた。


 『有難く、それではお聞き下され。そも、先ほど貴殿の話になった時点でヴォーダンとジルニトラの両名は貴殿との約定を寸分違わず守り通した上で、この場の者たちが納得するよう、貴殿のお弟子の情報は一切口にしませんでした。故にお耳に痛いことを敢えて言えば、妃竜殿の早とちりにて、ヴォーダンとジルニトラを責めるは筋違いかと』

 『………………』


 呂尚が堂々と滔々とうとうと語る言を”千魔の妃竜”は気を害した様子もなく静かに耳を傾けている。


 『また、貴殿のお弟子を思う心に余計な負担を掛けるはそこな間抜けな半夢魔の妄言によるものと察します』


 呂尚がチラリとマーリンの映った画面を見やると、そこには半球状の障壁の八割方を蟲たちに囲まれて半泣きで首を左右に振り、髪を振り乱して絶叫するマーリンの痴態が映し出されていた。


 『されど、その者は生まれてこの方、妄言と屁理屈しか吐き出さぬ上、見境なく女性に手を出す色狂いにて。そのくせ、根は小心者のお人よし、さらに異界に閉じ込められその力も大して発揮できませぬ。お弟子に真の悪意を抱くことはなく、逆に力添えすることになりましょうや。儂のような矮小な者の言葉をどうか聞き入れていただきたい。お頼み申す』


 節々に棘の混じったマーリンの弁護を終えると呂尚は両手を合わせ深々と頭を下げた。


 「誤解を生じさせた責が儂にあるのも間違いない。儂からもどうか此度は不問に処すことを頼む、この通りじゃ」


 それまで口出しせずに呂尚に任せていたヴォーダンもすかさず謝罪する。


 『……………………』


 その様子を赤く光る眼は何も言わずに見ている。


 ヴィヴィアンヌにはその時間が永劫にも感じられた。これまでの人生で己が絶対に敵わないと感じる実力を持つ数少ない者たちの中でもさらにその上をいく者から止めどなく発せられる圧力にその身は今にもひしゃげてしまいそうだった。


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