第6話「犬神憑き4」
闇夜の霧の中を清宮明は疾駆した。
後ろから「追え!逃がすな!」
という村人たちの声が聞こえてくる。
ある程度距離を離したところで、明は足を止めた。
―誰が逃げるか。全員、鏖にしてやる。
明はわざと大きな音を立てて、ゆっくりと移動した。
木下京子は、音がした方に歩みを進めた。
清宮明を殺せる。
そう思うと胸が躍った。
京子は明に惚れていた。
しかし、何度迫ろうとも一度も振り向かれる事は無かった。
野卑で芋くさい村の男達とは違う、端整な顔と、どこか気品が有る佇まいは京子だけではなく、村中の女を欲情させた。
その中でも特に、京子は明に執着していた。
明が独身で居たのならば、こんなに憎む事も無かったであろう。
だが明は一度、結婚してしまった。
遊びで抱けば良かったのだ。
この村に居る以上、犬神筋の家の明とはどちらにせよ結婚は出来ない。
それを若き日の京子は口にした事さえある。
「ねえ、いいよ?遊びで好きに抱いて?」
明が示したのは拒絶。
何か声を掛けるでもなく、ただ歩み去ったのだ。
京子は何度も何度も、同じことを繰り返した。
その度に拒絶され、あまりに拘った為に、
結局現在も独り身のままになってしまった。
明は、多少の白髪はあるものの青年期の美しさそのままであった。
京子は、女の盛りを超えて急激に老けた自覚が有る。
―何故いつまでもあの時のままなの。
明を見かける度に、女のプライドを踏みにじられた昔と、
自身が老いて醜くなっていくにも関わらず、昔のままの若さを保つ明への嫉妬が、
憎しみを募らせた。
今、京子の手には父親が所有していた猟銃が有る。
引き金さえ引けば、簡単に命を奪うことが出来る。
―どうしてやろうかしら。跪かせて命乞いをさせようか。
そして、あそこをたっぷりと舐めさせてそれから殺そうか。とにかく屈辱を味あわせてやらないと。
ほんの束の間、逡巡していると、いつの間にか明がすぐ眼の前に居た。
明は無造作に京子の首の辺りを、右手で横に振った。
京子の顔が真後ろに倒れた。
文字通り首の皮一枚のみを残して、喉の当たりの肉と骨がごっそりと無くなっていた。
遅れて血が噴水の様に湧き、京子の体が倒れた。
池田健一は明を追いながら、20年前の事を思いだしていた。
辛気臭い村から抜け出したくて、大金を掴む事を夢に見、株に手を出した。
最初の頃は良かったが、段々とマイナスが嵩み借金をする様になった。
元々貧しい村である。
金を借りられる所は無かった。
だが、旧家である清宮の家であるならばと思い、恥を忍んで明に借金を申し出た。
しかしそんな健一の思惑とは裏腹に、即座の元に断られてしまった。
結局健一は破産し、嫁にも逃げられ、村で最も貧しい家になってしまった。
「あの時」明が金さえ貸してくれさえすれば。
健一はそれが逆恨みであると自覚している。
それでも尚、心のしこりは膨らむばかりで、明を恨む気持ちを消す事は出来なかった。
善吉が明の息子の朋也を凌辱した際に、健一もそれに加わった。
朋也は明に面差しが似ているが、明の亡くなった妻にも似ていて、体は華奢で女の様であった。
恨みを晴らすつもりで凌辱したが、果たして本当にそうだったのか、
今思うと自分でも分からなくなっていた。
だが、健一はごちゃごちゃ考えるのを辞めた。
最早どうでもいいと。
山中に風が出てきた。
霧が時々吹き飛ばされて、満月に照らされた樹々が見える。
健一の視界の隅にちらりと何かが見えた。
明だと思った。
「お~い明ぁ~。隠れても無駄だぞ~出てこぉい。お前の息子のケツの締りは良かったぞ~くくく。お父さん、助けて。お父さん助けてってな~。可哀そうになぁ。お前が俺に、あの時金を貸してれば、そんな目に遭わなかったかもしれんのになぁ~」
健一の声が山中に響き渡る。
強い風が吹き、一瞬晴れた霧の先15メートル程の所に明の姿が現れた。
健一は猟銃の狙いを付けた。
この距離なら外さない自信が有った。
引き金を引いた瞬間、ゆらりと明の姿が滲んで見えた。
ダンっという音が響いて、銃を撃った反動が健一に返ってくる。
返ってきた反動に、何故か健一は猛烈な腹の痛みを感じてしゃがみこんだ。
健一が自分の腹を見ると、5本の赤い横線が3センチ間隔位で引かれていた。
着ていたシャツを恐る恐るめくると、ドロリとそこから血と、内臓がはみ出てきていた。
「あああいいいいいいい」
健一は絶叫を上げて、必死に自分の内臓がこぼれない様にした。
「健一。あの時、俺の妻は妊娠していた。お前が汚した朋也を身籠っていたんだ。それはお前も知っていただろう。お前に金を貸すほどの余裕が有る訳がない。この村で、お前達と同じように暮らすだけの俺に」
「ひぎいい悪、ごぉお悪かいいいいいいい、たす、あき、」
明は膝を付いて、健一の耳元で囁いた。
「健一痛いか?それは、その痛みは朋也が世話になった分だ。遠慮せずに受け取れ」
健一は明の言葉を聞いてから、永遠に意識を失った。
明は健一の死を見届け、歩き出そうとした瞬間、ダンっという音とともに右肩に衝撃を受けた。
「はははは。やった!ざ、ざまをみろ」
明は銃声の起きた先を見た。
3つ年上の村の者で中田良太という。
猟銃を構えて二発目を撃とうとした。
ザンッ。
明は軽く地面を蹴った。
続けて鈍い、スイカが割れた様な音がした。
猟銃を構えた良太が、太い杉の樹の幹に頭をめり込ませていた。
顔は誰だか判別がつかなくなっている。
明の飛び蹴りのせいであった。
撃たれたはずの肩を気にする風でもなく、明は再び歩き出した。
明が移動する度に村人達は確実に数を減らし、死人が増えていく。
霧吹き谷村の男達は全員猟銃が扱える。
鹿や猪などから田畑を守る為に、定期的に狩りをするからだ。
風で草が鳴っているのか、獣が移動して鳴っているのか、聞き分ける事が出来るし、獣が草を踏み分けて行った跡も分かる。
それが今は全て仇になっている。
わざと明が草を鳴らし、草を踏み分けているのを自分が追い込んでいると勘違いをして嬉々として明に誘い出されてしまう。
人を、否、忌避すべき犬神筋の厄介者「清宮明」を殺すという事に皆が酔っていた。圧倒的な人数の差も大事な事を忘れさせる要因になっていた。
「清宮明」もまた、同じ村の出身で狩人で有るという事を。
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