第11話「慧春尼の目論見」

道摩は有る街の雑踏の中に居た。

適当なビルとビルの間の細い路地に入り、小さく口の中で何かを呟く。

すると、手の中から小さいなコガネムシが飛び立つ。

しばらくすると、コガネムシが戻ってきた。

道摩が開いた掌に止まるとたちまち紙になった。

―特務課の連中か?

誰かに尾行されている。

確かめる為に周囲の人間を、コガネムシの式神で探査させたのだ。

結果は黒。

尾行している人間が居る。

―まくか。

尾行をまくのは簡単である。

だが、また新たな尾行が付くだけだ。

道摩は、一度大きな通りに出た。

そのまま適当にぶらぶら歩き、また細い路地に入ると、ビルの物陰にすぐに隠れた。

少しして誰かが、路地を曲がって入ってくる。

速足で、道摩が隠れた所を通り過ぎた。

「待ちなよ」

道摩が声を掛けると速足で通り過ぎようとした男が思わず足を止めた。

「特務課かい?」

男は無視して、再び歩き出そうとした。

「動けないよ」

道摩が言うと、男の足が止まった。

懸命に動こうとしているが、全く動けない。

「ほらね。俺に何の用だい?」

男は答えない。

「黙っていられなくなるよ」

道摩がそう言うと、

「知らん。尾行しろと命令されただけだ」

男は喋り出した。

どの様な術なのか、道摩の言う通りになってしまう。

「そうかい。あんた……確かあの研究所に来てたな?ちょうどよかったぜ。気になってることがいくつか有るんでな」


道摩は車を走らせて、郊外にある病院に向かった。

広瀬教授が入院する精神科のある病院であった。

道摩の術せいで、広瀬教授は外部からは廃人の様に見える。

道摩が病院に着くと、すぐにまたコガネムシの式神を飛ばした。

特務課の監視が広瀬教授にも付いている様であった。

それを確認すると、道摩は手でいくつかの印を結び何かを呟いた。

車から降りると堂々と正面の入口から入り、受付で広瀬教授の部屋を確認した。

その間、誰からも咎められる事はなかった。

道摩は隠遁の術を使っていた。

物理的に消えたりはしないが、見られたくない相手からは見えなくなる術である。

道摩は、広瀬教授の部屋に入った。

広瀬教授はベッドの上に上半身を起こして、どこかを見ていた。

広瀬教授は、意識の中でずっと鬼達にその身を喰われ続けている。

道摩は、その意識に入っていく。

道摩の目の前で、広瀬教授がサイズも形も様々な鬼の群れに襲われている。

道摩の掛けた術のせいで、広瀬教授は喰われながらも、息絶える事も、狂ってしまう事も出来ずに、永遠に鬼達にその身を喰われ続けるのである。

広瀬教授は道摩が居る事に気が付いていない。

道摩が手で印を結び何かを呟いた。

すると、あれ程いた鬼達の群れが消えていた。

広瀬教授は鬼達が消えた瞬間、

だが、あれ程広瀬教授を苦しめた鬼達は消えたものの、変わらず何も見えず、

真の闇に取り残されている様であった。

「広瀬教授」

道摩が声を掛けた。

闇の中にぼうと人影の様な物が浮かび上がり、やがてそれは道摩になった。

「あなたは」

「聞きたい事があってね。返答次第によっては助けてやらんこともない。あんた、例の量子コンピューターだが、完成させたんだい?俺の知識が間違ってなければ、あんたの論文で見たものでは、巨大な装置で冷却システムが必要になるってな話しだったはずだが。あんたの研究所にはそんな物は一切見当たらなかった」

広瀬教授は黙り込んだ。

話すべきか逡巡している様であった。

「おい、この期に及んで何を迷う?また鬼達に喰われたいのか?」

広瀬教授の顔に絶望が浮かんだ。

そんな事は絶対に嫌だった。

「……あれは、私の論文を超える理論と物質で出来た物なのです」

「どういうことだい?」

「あれは二年程前のことです。私の研究は行き詰まりを見せていました。冷却装置や巨大なコンピューターは、実用性や、汎用性を考えた時に現実的ではないからです。他にも量子ビットを増やした途端に、計算結果が不安定になり、既存のコンピューターの方が優れた結果を残してしまうなど、難題が山積みでした。そんな時に、書類が送られてきました。差出人は不明です。そこには、私の理論を踏み台にした、画期的な理論展開がなされたレポートがあったのです。しかも、同封された袋には、その新しい理論で作る、量子コンピューターの心臓部になる部品まで入っていました。私はその論文のレポートと、自分の理論を組み合わせて、全く新しいアプローチの量子コンピューターを完成させることが出来たのです。嗚呼……それなのに……最初からあんな実験をしたが為に」

「その実験なんだが、何故、虚構実在論の検証なんかから始めたんだ?」

「……それはレポートです。レポートに最初に行う実験としての最適な実験例として、虚構実在論が提示されていたのです」

「そうか。わかったよ。だが助手をやっていた学生さんを殺したのはあんたの意志だな」

広瀬教授は俯いた。

「鬼だけはどけてやる」

道摩はそう言って闇に消えた。

後には広瀬教授がただ一人、闇の中で佇んでいるだけであった。


病院を出た道摩は再び車に乗り込んだ。

向かう先は、高野山。

慧春尼に会う為である。

道摩を突き動かしているものは「好奇心」である。

広瀬教授の元にレポートを送り付けたのは十中八九、慧春尼だろう。

道摩はそう考えている。

それならば、すっきりとしなかったいくつかの疑問が解ける。

その一つは、般若心経である。

道摩は今回の事件で慧春尼に初めて会った。

だが、彼女の事は噂では聞いていた。

一番の得意な真言が不動明王火焔呪であることも。

一切のこの世の不浄を焼き尽くす、退魔における最強の真言。

てっきり道摩は、今回の事件でも彼女が火焔呪を使うと思っていた。

だが、慧春尼は、「最初」から般若心経を唱えた。

火焔呪を唱えて効果がないと踏んでからの対応ではなくだ。

確かに正確には、今回の事件の都市伝説の怪異達は魔物や妖物の類ではない。

量子コンピューターが産み出した、非存在の実在化だからである。

恐らくだが、不動明王火焔呪では慧春尼の法力を持ってしても、

魔物や妖物では無い今回の怪異達には効力を発揮しなかったのだろう。

そこで慧春尼が用意したのが、曼荼羅図で有る。

これは仏教の中では大日如来を中心に据えた、全宇宙の理を表すシンボルとして位置付けされている。

そして、般若心経。

こちらも曼荼羅図と同じ位置付けだ。

量子力学の世界では、弱い人間論と強い人間論という物がある。

大雑把に言えば、物理学が理解出来るのも、この宇宙が存在するのも、人間が存在するからだという理由だ。

太陽との位置や距離が、ほんの少し違うだけで、現在の地球は存在出来なくなる。

極寒の星になるか、灼熱の星になり、今の人間や動物が生きられる環境にならない。

だが、この様なは人間が定義付けた物だ。

何故、人間だけが宇宙の仕組みや物理の原理を知ろうとし、

またその一部を理解出来るのか。

生物として生きるだけならば、である。

この様な答えに用いられるのが、人間論である。

強い人間論では、宇宙を定義しているのは人間なので、

宇宙そのものを人間が作り出している捉える事も可能だと説く。

般若心経もほぼ同じ事を説くものである。

また、観察者により世界が決定するという解釈が出来る部分もほぼ同じである。

つまり、慧春尼は最初から、都市伝説の怪異達が量子力学の虚構実在論の産物からのもので有る事を見抜き、曼荼羅図と、般若心経に己の法力を乗せて、量子コンピューターを使わずに、同じ理論で消滅を図ったのである。

当然だが慧春尼の準備から見て「最初から」知っていなければ出来ないことである。

だがそうなると慧春尼はどこから量子コンピューターの部品と、

その道の専門家を凌ぐ知識に基づいたレポートを、

広瀬教授に送ることが出来たのか。

概念が仏教と似ているだけでは、到底クリア出来る問題ではない。

もう一つの道摩の疑問は、慧春尼が何故自分を呼んだのかである。

慧春尼が所属するのは、正確には「裏高野」である。

退魔専門で、表の世界には一切出てこない。

慧春尼は、その裏高野の座主ざす

最高権力者である。

裏高野の座主は、代々最強の退魔師が務めることになっている。

道摩は、他の裏高野の退魔師ならばひけはとらない自負がある。

だが、慧春尼には次元の違う物を感じた。

あの若さでどれだけの修行を積んだのか。

才能で片付けるにはあまりにも大きな力だった。

道摩には計りかねた。

事実、一人で事も無げに怪異達を退けている。

道摩を呼ばなければいけない理由が見当たらないのである。

広瀬教授に対する「処置」は、特務課からの正式な依頼があった。

逮捕状が出てからのことである。

理由は法的に裁く事が出来ないからである。

今までも、法的に裁く事の出来ない人物に「処置」を施してきた。

だが、事件そのものに対する高野山経由の依頼はその前であった。


どう考えても道摩には答えが出ない。

―ご本人様に聞いた方が早いか。

そうして道摩は高野山に向かったのである。

車を数時間飛ばし道摩は高野山の麓に着いた。

一般の参拝者と同じ駐車場に車を停めた。

邪魔が入るかと思ったが、境内にすんなりと入れた。

―待っているのか?

高野山は広い。

何処かで直接的に邪魔をするなり、結界を張って迷わせたりなどの、妨害を予想していた。

慧春尼が本気で結界を張れば、道摩といえども簡単に辿り着くことは出来ないだろう。

道摩は拍子抜けした気分だった。


道摩が目指したのは、金剛峯寺である。

高野山は山全体が100を超える寺の集まりである。

その総本山が金剛峯寺であった。

宗務所に道摩が我ながら間抜けだと思いつつ、慧春尼の居場所を聞いた。

すると、すんなり奥書院と呼ばれる間に通された。

そこに慧春尼が待っていた。

慧春尼の横には、ノートパソコンが一台置かれていた。

恐らく広瀬教授が作った、いや慧春尼が作らせた量子コンピューターであろう。

「流石は道摩さん。よくお見えになってくれました」

「やはり待っていたか。だが何故来ると思ったんだい?」

「道摩さんが今回の件で、不思議に思わない事は無いでしょうし、公安の特務課に張り付かせれば、不快に思った道摩さんが理由を聞きに来ると踏んでいました」

「つまり大阿闍梨、あんたが俺をここに来るように仕向けたって事かい?」

「はい。その通りです」

「やけに素直に答えてくれるんだな」

「ええ。隠すようなことはありませんから」

「……そうかい」

道摩は慧春尼の真意を測りかねていた。

自分の好奇心を満たす為に来たとはいえ、こんなにもすんなりと話してくれるとは。

「ずばり聞くが、量子コンピューターを広瀬教授に作らせたのはあんただね?」

慧春尼は例の艶然とした笑みを浮かべて頷いた。

「疑問なんだが、いくらあんたが最強の退魔師で、強い法力の持ち主だとはいえ、何故そんな事が出来たんだ?部品まで送ったそうじゃないか」

「道摩さん。私の名前の由来はご存じですか?」

「名前の由来だと?慧春……あの慧春尼からじゃないのかい?火に自らを投じた。それが何の関係が有るんだ?」


道摩が言う慧春尼とは。

「華陵 慧春」室町時代から箱根に実在する禅寺の尼僧で、美女で有名であった。

だが、真に彼女を有名たらしめたのは、その仏教に対する想いである。

彼女には兄が居た。

名を了菴慧明(りょうあんえみょう)と言う。

日本最大級の曹洞宗の門流、了庵派の開祖である。

現在の神奈川県伊勢原市の出で、出家前は藤原氏性だったとされる。

現在の箱根明神岳の東麓に最乗寺という寺が有る。

そこを建立した人物でもある。

最乗寺は了庵慧明の弟子である、道了が天狗に化身して寺を守護していると言い伝えられ、禅の修行道場としてだけではなく、

天狗信仰の祈祷寺院としても有名になっている。

慧春尼は37歳を過ぎた頃、兄が建立し座主を務める禅寺に入門したいと兄に願った。

しかし、この当時の禅寺には男性しかいない。

むしろ禅の修行僧などは男性以外は有り得かった。

当然、兄の慧明は断った。

一度目は、彼女が女性である事を理由にした。

女子供が禅寺で修行するなど、修行そのものが世間から女子供でも出来る物だと軽んじられてしまう、と。

彼女は言った。

「生半可な気持ちで話している訳ではありません」

慧明は困った。

言い出したらきかない妹で有るのは分かっていた。

また、彼女を受け入れる上で困るのは別に理由が有った。

諦めさせる為にも、その理由を慧明は素直に彼女に告げた。

「そなたの顔は美し過ぎる。若い未熟な僧達には修行の妨げになる。よからぬ事を企む者も出よう。それでは若い僧達が哀れである」

彼女の美貌に惑わせられる若い僧達が「哀れだと」言うのである。

当時の37歳の女性と言えば、大年増である。

子供どころか、孫が居てもおかしくないない。

それでも、実の兄にそう言わせるだけの美貌が慧春には有った。

慧春は黙り込んだ。

その日は寒い冬の日であった。

慧春には火鉢を挟んだ向こうに居る兄の困惑した顔見るのは、

心苦しい気持ちも有った。

慧春は、黙って部屋を出た。

兄の慧明はほっとした。

気持ちが通じ流石の慧春も諦めてくれたかと。

隣の部屋から大きな声が上がった。

その部屋には慧春が居る。

声は彼女を応接しているはずの若い僧の声だった。

何事かと思う慧明の前に、慧春が飛び込んできた。

「兄上、これでもですか!」

彼女の手には火箸が握られていた。

そしてその美貌の中心には十字に付けられた、火傷が有った。

火箸で己の顔を焼き、醜くなれば入門を許すのかと兄に迫ったのである。

慧明は気圧された。

そして「許す」

一言だけ言った。

そんな慧春の最後は、壮絶だった。

この世の女子供の弱さを憂い、兄、慧明の前で火行を行い、自ら薪を積んだ火の中に入り死亡したのだ。

希代の烈女。

今、道摩の目の前に居る「慧春尼」はその「慧春尼」その人であると言うのだ。

道摩には信じられなかった。

「まさか……」

「ええ。信じられないでしょうね。ですが、「私が」その慧春尼なのです」

「どういう意味だ?慧春尼は室町時代の人間で、当たり前だがとっくに死んで……」

「道摩さん。私の法力はご覧になられましたよね?いかがでしたか?」

「ああ見た。その若さで信じられん法力だと思ったよ」

「何百年も修行したらこうなると思いませんか?」

―確かに数百年修行出来るとすれば、あれだけの法力も得られるのかも知れない。

道摩はそう思った。

「つまりあんたは、火に焼かれて死なずにずっと生き長らえて修行してきたってことかい?」

「いえいえ。確かにあの時私は死にました。ですが、転生しているのです。ずっと。ずっと。あの劫火に焼かれた日から。何度となく修行をし経験を持ちこしているのです。次の生、そしてまた、次の生へと」

道摩には俄かには信じられなかった。

「信じられんな。だが仮にそうだとしても、量子コンピューターの話の答えになっていないぜ」

「ちゃんと答えになっていますよ。私が転生を繰り返すのは「今」だけではないのですから」

「なに?未来から来たとでも言うのか?」

「正確には意識だけですが。未来なのか違う宇宙なのか分かりません。時折それが重なるのです。違う宇宙に居る自分の意識と。その世界のうちのいくつかでは、量子コンピューターが完成しているのです。ただ実体を伴った転生では今回が初めてですが。但し、予期せぬ事もありました」

「怪異が人に危害を及ぼした事か。だからあんたが自ら行って怪異達を消滅させたんだな?だが、その話しが本当だとして部品は?意識だけでは調達できないだろう」

「部品?ああ、あれはお大師様の骨ですよ。天才僧侶、空海様の」

「なんだと?空海の骨だと?そんな物が有るのか?しかも部品になるのか?」

「道摩さんそんな物だなんて。聖遺物ですよ。聖遺物。それも密教界最高の人物です。宇宙の理に近しい人なんですからその力は絶大ですよ」

「滅茶苦茶だなあんた。だが、そもそも何故量子コンピューターを作らせたんだ?」

慧春尼は、身を乗り出し目を輝かせて言った。

異様な色気が出ていた。

「やっと。やっと、聞いて下さいましたね。私は何度も、何度も、転生をし、修行をし法力を高めても、未だ出来ない事があるのです。いえ私だけではありません。この宇宙開闢の時から「それ」が出来たのはたったの一人だけ。そう「それ」が出来たのはお釈迦さまのみ。私は「悟り」を開きたいのです。」

「悟り……だと?確かにお釈迦様以外にその境地に到達した人間はいないが……」

「道摩さん。見て下さい」

言うなり慧春尼は正座を崩し、いわゆる女座りをした。

着ている袈裟が少しはだけ、白く艶めかしい足が覗く。

「なんだ?」

慧春尼は腹の辺りをさすった。

道摩は足に一瞬見惚れたが、異変に気が付いた。

慧春尼の腹が少し大きくなっている気がする。

そのために座り難くなり足を崩した様である。

「私は転生を何度も繰り返し、その度に悟りを開く為の修行をしました。歴代の高野の座主にも師事し、その時々に現れる天才僧侶と目される人物にもです。ですが、彼らは所詮悟りを開けなかった人物なのです。悟りを開いたことが無い人物が、どうして他人に悟りを開くことが教えられましょう。私は考えました。ならば悟りを開いた人物から直接教えを請えば良いのだと」

―何を言っているんだ?この女は。

慧春尼が愛おしそうに自らの腹をさする。

見るとまた少し慧春尼の腹が膨らんでいる。

―一体何が起きているんだ。

「そう。お釈迦様本人から教われば良いのです。そこで私は決めました。女の身であることが煩わしいと思っていましたが、初めて私が女である意味を知ったのです。そう、私がお釈迦様を産むのです。私がお釈迦様の母になり、産まれたお釈迦様から教えを請うのです」

「な、なんだと?」

―無茶苦茶だ。

道摩はそう思ったが、同時に全てを理解した。

量子コンピューターを作り、虚構実在論を実験させたのはこの為だったのだ。

釈迦は実在の人物であるとされるが、近年になるまでその存在自体が疑問視されていた。

証拠が乏しい事に加えて、彼が残した書物の類などが無いせいだ。

悟りが何なのか、直接的な弟子とされる人物たちも知らないのである。

虚構実在論で有れば、仮に釈迦が空想の人物であれ、実在の人物であれ関係なく出現させることが出来る。

慧春尼は依り代として自分の体を使ったのだ。

媒体と言っても良いだろう。

そして、道摩は観察者にされたのだ。

事象を決定付けるには、第三者の観察が必要なのである。

自分が思っているだけでは、それが事実なのかどうかの判別が出来ない。

道摩が事件の目撃者になり、量子コンピューターが虚構実在論で架空の人物ですら、確固たる存在に出来るという事を、第三者である道摩に認めさせる必要が有ったのだ。

慧春尼の足の崩し方が大きくなってきた。

見ると腹がかなりの大きさになっている。

慧春尼の足の付け根まで裾がまくりあがり、その奥までが見えていた。

慧春尼は苦しそうな呻き声を上げ、袈裟の紐を緩めた。

どうやら陣痛が始まった様である。

道摩が慧春尼に腹を見せられたことで、妊娠が確定し、

慧春尼の話を理解したことでその事実が加速したかのようであった。

道摩は身動きもせずに見守った。

―狂ってる!とんでもない女だ!

道摩はそう思ったが、同時に好奇心を抑える事が出来なかった。

釈迦の誕生に立ち会える機会など未来永劫にあるまい。


慧春尼の息遣いが荒くなる。

「あああああああああ!道摩さん!見て!産まれます!釈迦が!私は釈迦の母になる!」

何かが慧春尼の足の間から見えた。

―産まれるのか。

はぬるりと出てきた。

道摩は目を瞠った。

出て来たのは頭が肉食の恐竜で、体が人間の言わば恐竜人間だった。

「いやーーーーーー」

慧春尼は何度も繰り返した転生の中で初めて絶叫した。

「こんな、こんなはずじゃ。こんな……」

恐竜人間は、した体をしていた。

瞳に邪悪な光を宿していた。

―先祖返りか?

道摩には間違っても釈迦その人やその生まれ変わりではない様に思えた。

恐竜人間に道摩が目をやると、産まれた瞬間は人間の赤ん坊サイズだったのが、見る間に大きくなっていく。

いつの間にか、大型犬サイズになっている。

慧春尼はショックのせいか放心状態である。

恐竜人間はもそもそと動いていたが、道摩を見つけると敵意に満ちた目を向けた。

ぐるぅうううううううううううううううううう。

喉の奥から肉食獣そのものの、狂暴な唸り声を上げてゆっくり道摩に四つ這いでにじり寄る。

道摩は、近付いてくる恐竜人間に距離を取ろうと、恐竜人間から目を離さずに

膝立ちのままで後ろに下がる。

道摩にはが一体何なのかは分からない。

慧春尼の反応を見れば彼女にも分らないに違いない。

だが、道摩にはこの世には居てはいけないだということだけは直感していた。

―斃すか。

そう道摩が決意した瞬間だった。

恐竜人間が襲い掛かってきた!

手には鋭く尖った黒い鉤爪が生えている。

その鉤爪で道摩の首の辺りを横に薙いだのだ。

道摩は、紙一重のところで横に転がりそれを躱していた。

そのままそこに居たら、首の肉を根こそぎ持っていかれたであろう。

道摩が改めて見ると更に体が大きくなっている。

今や、大型の肉食獣のサイズにまでなっていた。

恐竜人間が道摩に再度飛び掛かると、道摩の体を頭から咥えこんだ。

そのままバリバリと喰い進む。

カチカチ。

恐竜人間が歯を鳴らした。

そこには、無残に喰い千切られた道摩の亡骸が有るはずであった。

しかし、そこに道摩の亡骸は無く、人型の小さな紙切れが落ちているだけであった。

がるううううううううううううう。

獲物を失い恐竜人間は猛り狂った。

恐竜人間は失った獲物を捜そうとして部屋を見渡し、すぐに道摩を見つけた。

道摩は居た。

恐竜人間は、左右を見て部屋中に居る道摩を見た。

ガァッ。

短く吠えて恐竜人間は手当たり次第に、近くに居る無数の道摩に爪を振るい、

牙を立てた。

だがどれもが紙になり、道摩本人の肉を裂く事は出来ない。

すると恐竜人間はピタリと暴れるのを止め、目を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。

四つ這いだったものが

ぐぅううるぅううううううううう。

喉が鳴っている。

鋭い牙が生えた口から大量に涎が滴り、畳に小さな水溜まりを作っていく。

くぅおろぉすぅううううううう。

―喋ろうとしているのか?

殺す。

道摩にはそう喋ろうとしている様に聞こえた。

無理やりが、人の言葉を話そうとしている。

コ・ここコぉろぉすううううううう。

―間違いない。言葉を話そうとしている!

大きくなるのは止まっていたが、その代わりに知性を獲得しようとしている様に道摩には思われた。

―しかし誰にも習わずに言葉を?!

恐竜人間は正面に居る道摩達の一人を見つめ、尚も口を動かした。

「にぃげらぁれるとおもうなよぜぇえったいぃにぃこぉろす」

―何!?

恐竜人間が笑った様に見えた。

更に恐竜人間の口が動いた。

「ノウマクサンマンダバサラダンセンダンマカロシャダヤソハタヤウンタラタカンマン」

―これは!不動明王火焔呪!?マズイ!

見る間に部屋中に居る無数の道摩達が、火を噴いた。

道摩本人は印を結び難を逃れたが、道摩そっくりに作られた式神達は、一瞬で灰にされてしまった。

道摩は戦慄を覚えた。

肉弾戦では勝ち目が無い。

その上法力までも身に付け始めている。

しかも、道摩の法力に匹敵するレベルでだ。

道摩の口に不敵な笑みが浮かぶ。

―さて、どうするか?




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