第9話「大阿闍梨の力」
「大阿闍梨。本当に全部任せていいのかい?」
公園内に入ると、道摩が慧春尼に聞いた。
慧春尼から事前に道摩への話しがあり、一切を「見ている」だけで、
手を出さない様にと言われたのであった。
慧春尼の法力から考えれば、道摩に異論はない。
だが、では何の為に自分が呼ばれたのか?
市川警部補には話してはいないが、道摩を呼んだのは公安ではなく、
慧春尼の所属する高野山であった。
正確に言えば「裏高野」である。
高野山には、一般的に知られる様な真言密教の総本山としての顔と、
退魔専門の「裏」の顔が有る。
ただし、高野山からは公安から呼ばれているとの説明は受けてはいた。
そしてそれも奇妙な話では有った。
道摩は「外法師」と呼ばれ高野山からは忌み嫌れていたからだ。
慧春尼が来るならば、自分は必要ない様に思われる。
実際に慧春尼は手を出す必要が無いと言っている。
慧春尼は、裏高野山最強の退魔師なのだ。
何故、高野山経由で自分が呼ばれたのか全く見当が付かない。
考えながら歩いていると、異臭がした。
異臭の元は「口裂け女」に真っ二つにされた、超能力探偵の田中の死体だった。
キレイに真ん中から二つにされ、内臓と脳が二つの体の断面から出ていた。
慧春尼がチラリと死体に目をやる。
だが、特別な感情を見せたりはしなかった。
「ひでえな」
「来ましたよ道摩さん」
慧春尼に促され道摩が前を向くと、前方10メートル程に大きな女が見えた。
だらりと下げた両手には、遠目にも一目で分かる様なデカい包丁が握られていた。
口には白い大きなマスク。
―「口裂け女」か。
―さて、大阿闍梨様のお手並み拝見と行きますか。
道摩は言われた通りに、傍観者に徹するつもりであった。
慧春尼は、「口裂け女」を見ても艶然と微笑むままであった。
しかし道摩が気が付くと、いつの間にか慧春尼の右手には曼荼羅図が下げて有った。
縦横50センチ程の曼荼羅図である。
「口裂け女」がゆっくりと近付いて来た。
「佛説魔訶波羅蜜多心経。観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五オン皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空……」
慧春尼は曼荼羅図を下げながら、般若心経を唱え始めた。
―般若心経?しかしこれほどの力とは!
道摩は慧春尼の法力の凄まじい高まりを感じて驚いた。
「口裂け女」はこちらに向かって来ようとしていたが、
慧春尼が般若心経を唱え始めるとすぐに動けなくなった。
そして、みるみるうちに「口裂け女」の輪郭がぼやけはじめた。
尚も慧春尼は般若心経を唱え続けると、「口裂け女」は次第に透き通り、
霧散した。
「お見事」
道摩が声を掛けると慧春尼は、何事もなかったかの様に、
「お粗末様でした」
そう答えた。
「流石は、裏高野最強の退魔師。簡単に片付けちまった」
慧春尼は微笑むだけで何も言わずに歩き出した。
二人は続いて少年達が見た黒い服の女が出た現場に向かった。
慧春尼の横を歩きながら、道摩は違和感を感じていた。
退魔を生業とする連中の中では、慧春尼の名は知れ渡っている。
無論、直接的な話しばかりではない。
噂には尾ひれが付く。
だが、共通している物も有る。
一つは慧春尼のその美貌だ。
これは彼女に出会った全ての人間が口にする事柄で、
慧春尼を語る上で必ず出てくる話しでもあった。
そしてもう一つは、彼女の使う術である。
噂によると得意な術は、一切の不浄を焼き尽くして浄化すると言われる、
不動明王の真言、不動明王火焔呪であった。
それが今、道摩が目にした術は般若心経を唱えてのもので有り、不動明王火焔呪は使う素振りさえ見せていない。
―偽物か?
道摩は一瞬そう考えた。
美貌は主観だ。それでも一定数、誰が見ても美人だと感じさせる人間は居る。
今、一緒に歩いている慧春尼はその類だ。
主観に左右されない美貌の持ち主である。
勿論それで本物と断定出来る訳ではないが、プラスしてあの法力である。
二つ条件が揃い、しかもそれが滅多にない条件となれば否定しにくい事も確かだ。
―ではやはり本物?ならば何故得意な不動明王火焔呪を使わない?
「この広場の奥ですね」
慧春尼に声を掛けられて、道摩はハッとした。
道摩が考えている内にいつの間にか現場に着いていた。
慧春尼は、広場の草むらを見た。見るなり躊躇無く草むらに分け入っていく。
僧衣で動きにくいはずだが、その足取りや動きにはいささかの乱れもない。
草むらをかき分けて、桜の木のある場所に出た。
僅かに遅れて道摩も同じ場所に出た。
道摩は大きな桜の木を目にし「あれか」と道摩が呟いた。
道摩が呟くと同時に、何かが桜の木の上から降ってきた。
―女だ。
道摩は瞬間的にそう思った。
だが奇妙なことに女の輪郭はぼやけていて、
何となく「ロープで首を括った黒っぽい服の女」に見えるといった感じであった。
更に不思議な事に、髪の長さが腰まで有る様にも見えるし、肩までの様にも見える。
体型も瘦せている様にも見えるし、やや太めにも見える。
僅かだが女の体が揺れており、体が揺れる度に髪型や体型などが違って見えるのだ。
そして、見る間にその揺れが大きくなり始めた。
女の見た目が揺れの大きさに合わせ目まぐるしく変化する。
道摩は、じっと女を見て観察しようとした。
その瞬間。
ロープがいつの間にか、慧春尼と道摩の両足首に巻き付いていた。
だが、慧春尼が先ほどと同じく曼荼羅図を下げ、般若心経を唱え始める。
「佛説魔訶波羅蜜多心経。観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五オン皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空」途端にロープは消えた。
だが、何度も足元に、古びたロープが這い寄ってくる。
慧春尼の、般若心経を唱える声が一層大きくなった。
するといつの間にか足元のロープが消え、黒い服の女も霧散していた。
慧春尼はまたも何事もなかったかの様に、元来た道を戻り草むらを分けていった。
―また般若心経……
道摩は、草むらを抜けると慧春尼に何気なく話しかけた。
「大阿闍梨。噂に聞くところによると、得意な術は不動明王火焔呪だそうじゃないか。しかもほとんどの魔物をそれで退治してるとか。何故今日は、得意の火焔呪ではなく、般若心経なんだい?」
「道摩さん。よくご存知ですね。私が不動明王火焔呪を使う事を」
「退魔を生業にしていて、大阿闍梨の事を知らない人間は居ないだろう」
「そうですか?でも、私は高野の人間。知られていないだけで般若心経もよく使いましてよ」
「そうかい。で?何故今日は般若心経なんだい?」
「公園だからです。依り代に火を使うのは危険ですからね。さっきの草むらの様な所では特に燃え移らないとも限りませんし」
「ふーん。火事になる危険があるってことねぇ。まあ確かに曼荼羅図なら火事になる心配はないだろうが、あんた程の退魔師がそんなヘマをする様にはとても思えんがね」
「光栄ですが買いかぶりすぎですよ。私とて人間ですから、貴方の言うヘマをする事だって有りますよ」
そう言って慧春尼はコロコロと少女の様に笑った。
本人は何の意図もしていないだろうが、殆どの男はこの笑顔に蕩けてしまうだろう。
道摩はそう思ったが、不思議と自分は落ち着いていた。
―以前にも慧春尼とこんな事が有った様な……だが慧春尼とは今回初めて会うはず。
「大阿闍梨。もしかして何処かであんたに会った事があるかな?」
「まあ道摩さん。ナンパですか?随分と古い手を使われるんですね。意外です。私の事お忘れになられたんですか?今回初めてお会い出来ましたよ?」
「なに?それはどういう」
「ふふ」
また少女の様に笑って、道摩の問いには答えずに慧春尼は歩き出した。
続いて向かったのは、赤マントの男と人面魚が出た池と池の間の道である。
池には、水が戻っていた。
数日前に来た大型台風が池の水を満たしたのだ。
神父の死体が懺悔を乞うような形で、座っているのが見える。
道に入る前から、慧春尼は般若心経を唱え始めた。
数メートル先の左手の池の水が泡立っている。
道摩が見るとどんどん泡立ちが大きくなり、何かが水中から飛び出し陽光にきらめいた。
―デカい。
道摩は目を瞠った。
全長10メートルは優に有りそうな巨大な金色の鯉が池で大きく跳ねた。
数メートル程真上に跳ねて、ドンっと派手な水しぶきを上げた。
一体、底の浅い管理された人工池のどこにこんなモノが居られるのか?
だが、慧春尼はその大きさにも派手な水しぶきも意に介さずに、
曼荼羅図を掲げ、般若心経を唱えた。
辺りに慧春尼の美しい声が響く。
「佛説魔訶波羅蜜多心経。観自在菩薩。行深般若波羅蜜多」
また、跳ねた。
今度は道摩達に向かって。
道摩はその顔を見た。
口の中に沢山の鋭い歯が生えた、若い男の顔を。
死んだ魚の様な目をした、無表情なその顔を。
巨大な人面魚がその大きな口で、慧春尼と道摩を食い千切ろうかという寸前、
「照見五オン皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空」
一瞬大きくなった慧春尼の声に反応したかの様に、不意に人面魚は消失していた。
池は平穏さを取り戻した。
そのまま慧春尼と道摩の二人は、少し池と池との間の道を進むと、
7~8メートル先に忽然と軍服姿で仮面を付けた男が現れた。
それは、インフルエンサーの恵美をなぶり殺しにし、
神父のクリス井上を殺した赤マントの男だった。
赤マントの男は悠然とマントをひらめかせながら近づいてきた。
仮面の目の辺りに有る切込みから僅かに覗く目からは、冷淡さだけが伺えた。
―旧帝国陸軍の将校か?
道摩はそう思った。
軍刀こそ帯びていないものの、まるで本物の旧帝国陸軍の将校が現代に現われたかの様に思われた。
一方の慧春尼は、特段驚いた風もなく例の艶然とした微笑みを湛えたまま、
既に曼荼羅図を掲げ般若心経を唱え始めていた。
仮面の赤マントの男は歩みを止めずに、尚も近付いて来る。
だが、慧春尼の般若心経が唱える般若心経が進むに連れ、
仮面の赤マントの男に変化が現れ始めた。
みるみるうちに、右腕の辺りが輪郭を失い消失した。
次いで左の脇腹の辺りが無くなり、向こう側が見える様になってしまった。
だが仮面の赤マントの男は、何事も無いかの様に意にも介さず歩み寄ってくる。
しかし、その間にもどんどん体のあちらこちらに穴が開き、体の表面積が小さくなってゆく。
慧春尼と道摩の所へ後2メートル程という所まで来た時には、
既に体の三分の二程が消失し、何故歩けるのかが不思議に思われる、まるでジグソーパズルのピースの欠片の様な姿になっていた。
仮面の赤マントの男はそれでも尚歩き続け、
僅かに残った左腕で、パンチを慧春尼の美しい顔に繰り出してきた。
体の殆どを消失させているにも関わらず、そのパンチのスピードは闘う神父、
クリス井上と闘った時と変わらぬ凄まじいスピードだった。
当たれば慧春尼の美しい顔は砕かれ、無残な姿に変わるだろう。
しかし、慧春尼はかわそうとするどころか微動だにしない。
いや、そもそも常人にかわせる様なパンチではない。
そのパンチが慧春尼に届く寸前、仮面の赤マントの男は跡形もなく霧散した。
道摩は仮面の赤マントの男の男が霧散したのを見届け、
「大阿闍梨。お疲れ様。これで全て済んだかな?」
そう慧春尼に聞いた。
「害が有りそうなモノならそうでしょうね」
「害が無い様なモノが他に居ると?」
「恐らく」
「で、どうするんだい?害が無くても退治しにいくのかい?」
「ふふ。どうしましょう?」
慧春尼と道摩の二人は、元来た道を戻り始めた。
歩いていると売店が見えた。
事件が続いている為店は閉まっている。
ふと、道摩が売店の方に目をやると、売店の横に有る鉄製の丸い大きなごみ箱に白い大きな犬が頭を突っ込んでいる。
―犬?さっきまでは居なかったはず。
道摩が訝しむ様子で見ていると、慧春尼も足を止め犬を見た。
「大阿闍梨。あれが害の無いモノかい?」
「ええ。多分」
「で、なんだいあれは」
慧春尼が答えようとした時だった。
犬の動きがピタリと止まった。
まるで二人の会話が聞こえていたかの様に。
犬はのそのそと前足をゴミ箱から降ろし、二人に背中を向けている。
犬がゆっくりと振り返る。
そこには中年の男の顔が付いていた。
「ほう、これが人面犬か」
道摩が感嘆の声を上げ、しげしげと観察する。
「ン?」
道摩が気が付くと慧春尼が般若心経を唱え始めていた。
すると、みるみるうちに人面犬の輪郭がぼやけ始める。
「ほっといてくれよう」
人面犬がボソッと呟くとそのまま消え失せてしまった。
「容赦がないね。大阿闍梨。害は無いって言ってなかったけ?」
だが、道摩の言葉にも慧春尼は艶然と微笑むだけだった。
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