第3話「噂」
二人の警察官が口裂け女に遭遇した翌日。
県立公園は騒然となった。
現役の新人警察官が両手首を切り落とされ、背骨を逆に二つに折られて惨殺されるという、稀にみる残虐な殺人事件が発生した為だった。
しかも、直属の上司の目の前での事であった。
マスコミは、こぞって事件についての説明を警察に求めた。
だが、詳細は捜査中との事で被害者の吉野巡査の氏名等が公表されたのみであった。
事件の翌日の午後。
村田巡査部長は所轄の取り調べ室にいた。
逮捕されている訳ではない。
だが、ほぼ容疑者としての扱いに近かった。
机の正面には、村田巡査部長の顔見知りの所轄の刑事が椅子に座っている。
村田巡査部長と同年代のその刑事、市川警部補は呆れた様な口調で言った。
「村田巡査部長。あんたの見たっていう……その、なんだ」
「口裂け女」
村田巡査部長が力なく答える。
「そう。それ。口裂け女。ほんとにそんな物が居るとして、なんであんたは、無事だったんだい?ガイシャの吉野巡査は、ガタイも良くて高校時代は剣道の全国大会にも出ていて、警察学校時代も同期の中で一番の猛者だったそうじゃないか。その吉野巡査が敵わない相手に、失礼だが、あんたが無傷で逃げおおせるとは到底思えんのだがね」
村田巡査部長はかぶりを振った。
「私にも分かりません。明らかにあの化け物は、私にも危害を加えようとしていたと思います。ですが、その……何度も説明しました通り……情けない話ですが、私は失神してしまい」
「一時間ほどで目が覚めて、気が付いたらその化け物はいなくなっていたと。」
言い淀む村田巡査部長の言葉を、市川警部補が後を引継いで言った。
村田巡査部長は力なく頷いた。
村田巡査部長は、疲れ切っていた。
夜勤のパトロールに加えて尋常ではない事態に遭遇し、部下を死なせてしまった。
そして今、半分容疑者の様な扱いを受け、何度も同じ話をさせられている。
早く帰って泥のように眠りたかった。
「村田巡査部長。今日はこれまでにしましょう。お疲れ様でした。また、明日お話を聞かせてください」
市川警部補がそう告げた頃には、既に夕方になっていた。
一方、県立公園では依然として現場検証が行われていたが、手掛かりになるような物は発見出来ずにいた。
所轄の刑事達の見立ては第一発見者である、村田巡査部長と被害者の吉野巡査との間で何らかのトラブルになり、村田巡査部長が吉野巡査を殺害したのではないかとの考えがあった。
当たり前のことだが、とてもではないが口裂け女の話を信じる訳には行かなかった。
ただ犯行の動機だけでなく、どうやって背中から反対側に人間の体を二つ折になど出来たのか?刑事達には想像すら出来なかった。
事件から数日の間、村田巡査部長は所轄の警察署で同じ話を何度も繰り返しさせられていた。
村田巡査部長の疲れは、日増しにその度合いを深めていったが、
代わりに、吉野巡査殺害の嫌疑は薄れつつあるようだった。
それは、状況証拠が村田巡査部長の話を裏付けているからだった。
まず、二人が拳銃を撃ったのは二人の制服から硝煙反応が出た事で、
裏付けが取れた。
だが拳銃の弾は見つからず、村田巡査部長の話の通りなら犯人である、
「口裂け女」の体内から抜けずに、本人ごと消えた事になる。
また検死の結果から、背中を二つ折りにされたのは死後ではないとの報告がもたらされた。両手首の切断についても同様の結果が出た。
身長170センチ体重65キロの村田巡査部長に、生きたままの人間を背中から、二つに折り曲げるという芸当が出来るとは思えない。
吉野巡査の切り落とされた手首には、しっかりと特殊警棒が握られており、
これもまた、死後に握らされたものではないということが判明していた。
この事実もまた、村田巡査部長の疑惑を弱める事になった。
生きている間に犯人と格闘をした証拠で、村田巡査部長の話とも符合する。
また、村田巡査部長がその格闘の相手でもないと誰もが感じていた。
警察官は、全員、柔道か剣道の有段者である。
警察学校に入る前から持っている者は特に問題ないが、
そうではない者は、警察学校にいる間に段位を取得する事になる。
村田巡査部長は、警察学校に入ってからの取得者だった。
しかも、選択したのは柔道。
俗に剣道三倍段などと言われる。
これは、素手で剣道の有段者に立ち向かうには、相手の段位の三倍の段位を持っていなければならないとするものだ。
村田巡査部長は、柔道初段。
吉野巡査は、剣道二段。
署内で、剣道で吉野巡査に敵う者はいなかった。
例え村田巡査部長が日本刀を持っていたとしても、警棒を持った吉野巡査には敵わないだろう。
同じ署内に居る全員がそう思った。
だが村田巡査部長が容疑者から外れ、話しの内容が真実となれば、
「口裂け女」が犯人という事になる。
これもまた、俄かには信じ難い話しであったが、警棒を持った状態で吉野巡査が為す術もなく殺されたとなると村田巡査部長が言う、身長2メートルを超える人物というのは、真実味を帯びてくるように思われた。
村田巡査部長が言うには女との事だったが、女装した男の可能性もある。
市川警部補はこの点に付いて何度も、村田巡査部長に確認をした。
だが、村田巡査部長ははっきりと断言した。
「あれは、女です」と。
根拠はない。
だが、女性特有の何か情念の様な物を感じたのだと。
もしそれが本当なら、むしろ容疑者探しは簡単になるように思われた。
日本で、2メートルを超えるような人間は男女共にそうはいない。
もしかしたら、日本語が喋れる外国人かもしれない。
どちらにしても時間の問題だろう。
署内では既に、容疑者を捕まえたかのような安堵感さえ漂っていた。
警察は、容疑者の人物像を発表することにした。
身長、2メートル前後。
筋肉質で、女性か女装した男性。
髪は黒髪で、ロング。
逃走時、顔に白いマスクを着用。服装は長袖でひざ下丈の赤いワンピース。出刃包丁を持っているのと、脚、腹、胸に、負傷している可能性あり。
以上。
匿名掲示板
―おい、あの公園の警官殺し。口裂け女みたいじゃん。
―やっぱり居るんだよ。
―あれ?居るのって人面犬じゃなかった?
―それな。
―いや、口裂け女もいるんだって。
―過去ログみてみ。
―マジか。
―今、あの公園そんなの出るんだ。
―そういや30年前位に首吊り自殺で死んだ女居たけど。
―へーそんな事あったんだ、公園のどの辺?
―デカい滑り台がある広場のとこ。桜の木にブラ下がってたらしいよ。
―昔はその女の霊が出るって噂があったんだけどね
―どんな?
―出会ったら死ぬ?みたいな。
―ざっくりすぎて草
―確かにw
―スマソ。なんか、黒い服着た女がどうとか。古い話しだからうろ覚え。
所轄の警察の思惑とは別に、依然として口裂け女は捕まらなかった。
近くにある防犯カメラの映像も総動員したが、手掛かりも全くない状態で、
いたずらに時間だけが過ぎていった。
事件から十日ほど過ぎた夜。
三人組の中学生が、自転車で県立公園に来ていた。
既に警察の張っていた規制線は無くなっていた。
怖いもの見たさ。
三人に有るのはそれだけであった。
「夏休みには刺激とホラー」
それが三人の合言葉だった。
イザとなれば逃げられる。
そんな根拠のない自信が三人にはあった。
三人が目指したのは、大きな滑り台が有る広場だった。
人面犬の目撃例が有る場所と、口裂け女に警察官が殺害された場所の、
ちょうど中間辺りに有る広場に、横幅約20メートル、高さ約7メートルのコンクリート製の巨大な滑り台が有る。
たくさんの子供たちが、一斉に滑ることが出来るようになっている。
その滑り台を正面に見て広場の向かって右手に大きな桜の木が有る。
三人組の少年達が目指したのは、その桜の木だった。
手前にあるエリアで人面犬に遭遇しても、脅かされるだけで害は無い。
奥まで行かなければ、口裂け女が出たエリアまでは到達しない。
新たに出た、古い情報。
首吊り自殺した女の霊を見るのが三人組の目的だった。
少年達の名前は「裕太」「大輔」「慶」三人とも野球部で、
護身用にそれぞれ金属バットを背負ってきていた。
「あれ?あの売店のとこじゃね?」
裕太が自転車をこぎながら、片手で前方を指す。
「人面犬出るとこだっけ?」
横一列で走っているうちの真ん中、大輔が応じる。
「なんも見えないけど」
左端の慶が目を凝らしながら言った。
「やっぱデマなんじゃん?」
裕太がそう話すと、三人を何となく覆っていた緊張感がほぐれた。
「そうかも。もうすぐ桜の木のとこだけど、何もないかもな」
慶が答えている間に売店の前を三人は自転車で通り過ぎた。
何も出なかった。
三人は内心ほっとした。
言い出しっぺは裕太だった。
裕太の家でホラー映画の鑑賞会中に、本物を見に行こうという話になった。
一旦解散し、各々の護身用のバットを取りに帰り公園の北口で待ち合わせたのだった。
首吊り自殺した幽霊をターゲットに選んだのは、彼らなりに理由が有る。
口裂け女などには遭いたくはない。
殺されるのはごめんだからである。
人面犬は今回のターゲットの出現場所の通り道ではあるが、害がない。
出たら出たで、捕まえてやろうという話になった。
首吊り自殺した女の幽霊については、
「出会ったら死ぬ」という話を信じていなかった。
本当に死ぬなら、その噂を伝えた人間は誰なのかという事になる。
三人の結論は、「出会ったら死ぬ」はでっち上げだという事になった。
ただし、どうやら自殺者が出たのは本当に有った事だと言うのも、
掲示板サイト以外のネットの情報から得られた。
死なずに、それでいて幽霊は見られるかもしれない。
それでターゲットは首吊り自殺した女の幽霊に決まった。
三人が少し自転車を走らせると、目的の広場に着いた。
三人は広場の入口にそれぞれ自転車を停めた。
広場の中には街灯がない。
三人は懐中電灯を背中のリュックから取り出し、スイッチを入れた。
目指す桜の木は広場の中ほどの右手の林の奥にある。
「おい準備はいいか?」
裕太が二人に聞いた。
二人は無言で頷いた。
緊張感が戻ってきたようだった。
三人は広場に入る。
中ほどまで入り、右手の林になっている部分に懐中電灯を照らす。
何も見えない。
木が影を作り緩やかな斜面に雑草が生い茂っている為、見通しが効かなかった。
問題の桜の木は、どうやら中に分け入って行く必要があるようだった。
広場に入る前に比べて、明らかに三人の動きは鈍くなっていた。
見通しの効かない林は、想像以上に怖かった。
「ちょっとなんか雰囲気あるな」
大輔が、自分の怖さを紛らわせるかの様に言った。
「そうだね。どうする?止めとく?」
慶が二人に聞いた。
「ここまで来て、それはないっしょ」
裕太が、慶の方を見ずに言った。
―もう一声。
裕太はそう思った。
本当は自分も帰りたい。
大輔か、或いは、慶のどちらかが弱気な発言をもう一言発してくれれば、
二人の事を憂慮した事にして、引き揚げることが出来る。
言い出しっぺの自分から引き下がるような発言は、どうしても避けねばならない。
―頼むぞ二人共。どっちでもいい。さあ、早く、弱音を吐け。
「確かにそうだな。」
慶が強がってみせた。
―クソ。バカ野郎。
心の中で、裕太は思い切り慶を罵った。
「せっかく来たしな」
―お前もかよ。
大輔まで同調し始めたので、最早、後には引けなくなってしまった。
仕方なく三人は茂みを分け入り、奥に入ることにした。
茂みを分け入って少しすると、斜面が更に緩やかになり平らな少し開けた所に出た。
その場所は、不思議なことに雑草もほとんど無かった。
「なあ、二人共。あれかな?」
大輔が言った。
三人が懐中電灯を向けると、その開けたところの奥に、ひと際大きな木が有った。
どうやらそれが、目指す桜の木のようだった。
だが懐中電灯にぼやんり浮かぶその桜は、不気味では有ったが、
特段変わったものでは無いように思われた。
懐中電灯を下ろし、三人は顔を見合わせて笑った。
「なんだよ。やっぱり何もないじゃん」
慶が得意気に言った。
「ま、そんなもんだよ」
大輔が相槌を打つ。
「つーか出てくるなら出て来いってんだよ」
裕太がそう言った瞬間だった。
ザンッ。
何かが木の枝から落ちるような音がした。
もう一度三人は、顔を見合わせた。
全員から笑顔が消えていた。
ぎしィっぎしっィ。
音は、桜の木の辺りから聞こえた様だった。
確かめたくはない。
だが、何が起きたのか見極めないのは逆に危険な気がした。
三人は、合図するでもなく一斉に懐中電灯を桜の木に向けた。
すると、何かが見えた。
目を凝らして見る。
人だった。
三人は一瞬ショックで動けなくなった。
大きく張り出した桜の木の枝から、ロープで首を吊られた女がブラ下がっている。
それはとても生々しく、幽霊などではなく生身の人間に見えた。
今、木の枝から飛び降りたばかりのように。
三人は助けようと思った。
誰からともなく、桜の木に数歩近づいた時だった。
ぎっ。
小さな音がした。
三人とも足を止めた。
―今、動いた。
慶はそう思った。
微かだが、女の体が動いた気がしたのだ。
恐らく他の二人もそう思ったのだろう。
だから足を止めた。
生きている。
だから動いた。助けるつもりになったのだから、怖がることはない。
三人は無理にそう思うことにした。
再び近寄ろうとしたその時。
ぎしいーっ。
揺れた。
間違いなく女の体が右に揺れたのだ。
風はない。
三人は、再び足を止めた。
ぎしいーぎしいーっ。
今度は左に揺れて、振り子の様に戻って右に揺れた。
ぎしーっぎしー。
今度は前後に揺れた。
首を吊られた状態のまま、女の体が揺れていた。
ぎしいーっぎしいーっぎいーぎしいー。
女が揺れるたびに枝が鳴る。
見る間に女の体の揺れは大きくなり、前後左右に円錐を描くように揺れた。
「逃げろ!」
三人が同時に叫んだ。
踵を返し、我先に三人はダッシュした。
裕太と、大輔が先行する形でわずかに慶が出遅れた。
先に茂みに二人が到着し、分け入っていく。
慶がその二人を追って、茂みに入ろうとした瞬間だった。
慶は前のめりに転んだ。
何かに足を引っ張っられたようだった。
自分の足元を見ると、ロープが両足首に巻き付いていた。
巻き付いたロープを外そうと、慶が手を伸ばした瞬間。
引っ張られた。
猛烈な勢いで。
慶は必死であがいたが、あっという間に桜の木の下まで来てしまった。
首を吊られた女の足元に。
慶は顔を見上げた。
女の顔を見た。
だが顔のあるべき部分は真っ暗な闇だった。
慶は絶叫した。
裕太と大輔は、必死になって逃げた。
二人は茂みを抜け、広場の入口に止めた自転車に飛び乗り全速力で走った。
お互い無言で公園を走り抜け、公園を抜けると別れの挨拶もせず、
それぞれの自宅へと自転車を飛ばした。
慶の事を考える余裕はなかった。
翌日の朝。
慶の母親から裕太の自宅に電話があった。
慶と連絡が取れず、昨晩から帰ってこないという。
裕太は背筋がヒヤリとした。
慶は、後から逃げだす事が出来たと思っていた。
いや、正確にはそう思いたかった。
一瞬、迷った。
知らないと言ってしまおうかと思った。
だが、自分が言わなくとも大輔が話してしまう可能性があった。
後から裕太が一緒だった話が出れば、自分の立場がより悪くなるだけだ。
裕太は観念して、昨夜の顛末を慶の母親に話すことにした。
裕太から話しを聞いた慶の母親は絶句した。
果たして本当だろうか?
話しの途中から取り乱し、裕太は泣き出していた。
後半は、何を言っているのかほとんど分からない位だった。
慶の母親は、とりあえず警察に連絡をした。
そして、裕太と大輔を伴い県立公園に警察と一緒に慶を探しに行くことになった。
大袈裟にならない様に、所轄の刑事達が配慮し、
パトカーではなくワンボックスカーで、それぞれを迎えにきた。
裕太と大輔は怯えていた。
慶の母親の顔をまともに見る事が出来ない。
慶の事は心配だが、二度と公園には入りたくはない。
だが、すぐに公園に到着してしまった。
車を降りると、すぐにスーツ姿の刑事に道を促された。
二人は知らなかったが口裂け女の事件を担当する、市川警部補だった。
夏の強烈な朝の陽ざしが眩しく、セミの鳴き声が不快だった。
市川警部補は内心不機嫌だった。
当直でこれから家に帰る所を駆り出されたのだ。
この公園には口裂け女の事件に進展がない事で、上司からのプレッシャーを掛けられていて、苛立っていた。
―ガキが夜遊びなんかしてるからだ。
裕太と大輔を怒鳴りつけてやりたい。
そんな衝動を我慢しながら歩いていた。
朝とはいえ、暑い。
すでに汗でシャツがぐっしょりになっていた。
時計に目をやると、八時を過ぎたところだった。
そんな事を考えている内に、問題の広場に到着していた。
「こ、ここです」
裕太がおずおずと言った。
広場の入口には、慶の自転車がそのまま置かれていた。
「あれは……」
「うちの息子の自転車だと思います」
市川警部補の言葉を遮るように慶の母親が言った。
慶の母親が自転車に近づく。
別の警察官が、自転車に有る防犯登録の数字を機械で照会している。
「ミナガワケイ。息子さんのお名前で間違いないですか」
「はい。間違いありません」
慶の母親が頷いた。
―厄介だな。
市川警部補はそう思った。
自転車がある。鍵もかかっている。自転車に異常はない。
裕太と大輔の話に信憑性が出てきた。
家出をするなら、自転車をこんなところに置いていく理由がない。
事件性がある可能性が広がった。
「で?どこだっけ?」
市川警部補は裕太と大輔に聞いた。
二人は、草が生い茂る林の方を指さした。
―あの中かよ。こりゃ、スーツが汚れるな。また女房殿に叱られるわ。
市川警部補は内心で独り言ちながら向かおうとして、足を止めた。
裕太と大輔が動こうとしないのだった。
行けばまた、あの女が居る。
二人共そう思った。
「おい?どうした?君たち二人が先導してくれないと」
市川警部補はなるべく非難しているように聞こえないように言った。
だが、二人は下を向いて動かない。
「慶君は君たちの友達ではないのかね?もし、彼が苦しんでいて、早く助けを必要としていたとしたらどうする?」
市川警部補は、今度はわざと少し皮肉に聞こえるように言った。
二人ははっとした顔をして、ゆっくりと茂みに向かって歩き出した。
中学生の子供には、酷な気もしたが事実だった。
事件の可能性が出てきた以上、時間のロスは致命的になりかねない。
二人に続いて市川警部補、警察官二人、慶の母親が続いて入る。
少しして、例の場所へ全員が出た。
セミの鳴き声がひと際大きくなった気がする。
奥にかなり大きな木が見える。
夏なので花はないが、恐らく桜の木だと思われた。
だが、何もなかった。
裕太と大輔は戸惑った。
見間違いではない。でなければ三人とも逃げ出したりはしない。
「あの桜の木で間違いないかい?」
市川警部補が裕太と大輔の二人に尋ねる。
二人は頷いた。
「何もないように見えるがねえ。まっ少し調べてみるか」
市川警部補が二人の警察官を伴い、桜の木に近づいたその時だった。
ザンっ。
という音と共に、市川警部補達の前に突然何かが降ってきた。
「うわあ」
市川警部補達は尻もちをついた。
そしてすぐに、
「嫌ァ!」
市川警部補達のすぐ後ろから、慶の母親の叫び声が聞こえた。
慶が、長いロープで首を吊った状態で落ちてきたのだった。
―死んでいる。
市川警部補はすぐにそう思った。
今、落ちてきた衝撃で頚骨が折れて死んだのでは無い。
窒息ならもっと時間がかかる。
それなら、もっと痙攣なりの反応が有るはずだった。
だが、ピクリともしないのだ。
母親が駆け寄り慶の死体に縋りついた。
「ああああああああーけいー」
「お母さん離れて」
警察官二人が、慶の母親を必死に慶の死体から引き離そうとしていた。
なんとか母親を引き離し、慶の死体をロープの首の輪から外し降ろす。
慶の顔を見た一同は顔をしかめた。
今まで見たことのないような恐怖の表情を浮かべていたからだ。
市川警部補が死体を確かめ、立ち上がるとすぐに母親が慶の死体に覆いかぶさるようにして泣いた。
市川警部補は、慶の事を吊っていたロープを改めて見た。
まだ桜の木に下がっているが、とても古いロープに見えた。
上を見ると、ロープの先は桜の木の一番高い枝の辺りに括ってあるようだった。
高さにして20メートル近くは有りそうだった。
慶の死について警察は判断を決めかねていた。
自殺と断定するには、遺書らしき物もなく、また動機も見当たらなかった。
背中には護身用のバットを背負ったままで、友人二人の証言とも一致する。
これから自殺するなら、当然、護身用のバットなど必要がない。
検死の結果が更に謎を深めた。
慶の頸骨は、あれだけの高さから落下したにもかかわらず無傷だった。
しかも、ロープによる窒息もなかったのだ。
死因は結局不明。
友人の少年二人が、何らかの方法で殺して吊るすにしても、
20メートルもの高さの木の枝に、ロープを如何にして括り付けたのか。
自殺に見せかけるのならば、最低でもロープで首を絞めるなりの偽装はするであろう。
だが、そういった痕跡は全くない。
現場周辺には桜の木に向かって、何かが引きずられた様な跡があった。
慶の服に、土がかなりの量で付着しており、
恐らく慶が何者かに引きずられたのではないかと推測された。
少年二人が見たという、首吊り自殺した女の遺体は発見されなかった。
また、二人の女の遺体に対する証言も女であること以外は、的を得なかった。
共通していたのは黒っぽい服を着ていたことだけで、
その他は年齢がいくつに見えたか?
髪型などはどうなのか?
身長や、体型は?
これらの事が二人共証言が違っているのだった。
本当に見たのならば、暗闇の中で懐中電灯を向けただけという状況であれば、
気が動転していることも含めて、そんなところだろうと警察も考えた。
また、最初から慶の死体を女の死体と見間違えたのではないかという見方さえあった。
だがそれならば、市川警部補達が現場に到着した時に死体が落下してきた説明がつかない。
合理的な説明はつかず、結局警察の捜査は行き詰った。
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