記憶の果て

 それがあたしの新しい寮の管理人さんとの出逢いだったことに気づいたのは、その翌日のこと。それまでお世話になっていた人から管理人さんの名前を聞いていて、学校でその名前を確かめたんだ。春の香りが漂う新しいクラスの教室に、大山優一という名前をすぐに見つける。あたしの右斜め後ろの席に座る、男子生徒。

 最初はそれくらいの認識しかなかったから、いつも迷惑かけてばかりだった。原因は全てあたしの不用意な発言の数々。そりゃ管理人さんに『ガサツ』なんて言われても無理はないよね。だからあたしは管理人さんをどこか遠くに感じてしまい、申し訳ないなと思いつつも、あたしは敢えて近づこうとしなかったんだ。


「本当に……あの頃は本当にごめんなさい……」


 あたしは素直な気持ちで謝っていた。それから間もなく数秒の沈黙が訪れる。

 そして管理人さんは、あたしのおでこをその右手で触れてきた。


「やっぱし美歌。今日は熱でもあるんじゃないか? ……あれ? ないや」

「…………」


 もはや反発する気も起きなかった。情けないばかりで、管理人さんにそう思わせてしまってるあたしが猛烈に恥ずかしくなってくる。


 ――そんな春の日から、あたしの生活が大きく変わっていった。


 あたしが小さな女の子の頃から応援していた女優が同じ寮生であることを知らされ、それから間もなく春日瑠海の女優休業宣言事件に巻き込まれてしまう。真奈海はいつも真っ直ぐで何に対しても容赦がなくて、まさしく春日瑠海という女優そのものだった。何もかもがすっ飛んでいたんだ。そんな真奈海に憧れを抱きつつ、だけど時に反発してしまい、いつの間にか真奈海を助けていることもあったらしい。あたしにはそんなつもり全くなかったはずなんだけどね……。


 糸佳ちゃんだってあたしを変えた一人。恋敵でもある真奈海に対抗すべく、いつもあたしを巻き込んでくる。いや実は今だって巻き込もうとしているのかもしれない。真奈海と同じように、作曲家ITOとして大人の世界の中で戦っている。成績も優秀で、いつも赤点ばかり取ってるあたしとは正反対だ。いやあたしが赤点ばかりなのは別の理由のような気もするけど、国語以外の点数は糸佳ちゃんの方がいつもあたしより上なんだ。だけどそんな彼女の正体はと言うと、大山優一という一人の男の子に恋をしてしまった女子高生。今でこそ苗字が一緒になってしまったけど、本当はそんなの認めたくなくて、常に何か新しい策を考えている知略家さんなんだ。


 そして茜さん。女優春日瑠海を追いかけて、夏からチロルハイムに引っ越してきた。糸佳ちゃんと同様に成績優秀で、誰もが認める春日瑠海最大のライバルなのだろう。もっとも本人たちはライバルと思われること自体が嫌なのかもしれない。互いに互いの実力を認めあって、だからこそ反発しあうし、観ている人はそれをそのまま受け止めすぎてしまう。不幸とも言うべきか、茜さんは真奈海のことを大好きでたまらないはずなのに、周囲がそれを許さないのだ。だけど作詞家Akkieの詞を読んでいると、誰よりも春日瑠海の近くにいたいという気持ちが伝わってくる。だってそこに描かれる詞というのは、いつも真奈海の恋愛絡みなんだもん。……うん。確かにそれでは真奈海も反発したくもなるよね。


「本当にあたしは、チロルハイムの住民でいられてよかったと思ってる……」


 そんなチロルハイムだからこそ、あたしはあたしでいることができた。

 これがあたしの本音。何も偽りもない気持ち。


「……美歌。熱はなくても、頭のネジのどこかが取れちゃったんじゃないのか?」

「大丈夫だよ。あたしの頭はいつだって変だったでしょ……?」


 管理人さんの冗談に、ようやく冗談で返すことができた気がする。


「まぁ二重人格というのはたしかに普通ではなかったかな」

「そそ。しかもあのもう一人のあたしのとんでもなさときたら……」

「しょっちゅう学校の二階の窓から飛び降りちゃうくらいだしな」

「ほんと。あたしを何回殺せば気が済むんだ!?って感じだよね」


 それだけじゃない。もう一人のあたしはいつもあたしを困らせてばかりだった。

 美希が開発し糸佳ちゃんが調合した超激辛な薬を、何の躊躇なく呑み込んでしまったり。あれは間違えなく確信犯だった。料理方法だって知らないらしく、どう見ても美味しくなさそうなサンドイッチを作り上げ、あたしにそのえげつない味覚を味あわせてくる。本人はAIなだけにいつもけろっとしているんだけど、中身はあたしと共有しているという事実をどこまで理解しているのだろう。身体的にはあたしの方が被害が酷いと思うんだけどな。

 だけどそんな感受性に乏しいはずの彼女に、あたしは何度か救われていた気がしていた。あたしが目を逸らしたい部分に、彼女はずかずかと入り込んでくるんだ。あたしは容赦なくそれと向かい合うことを強制させられていた。だけどそのおかげで、あたしは真奈海と共に『BLUE WINGS』のメンバーの一員として加われた気がするんだ。


 たぶんあの子がいなかったら、あたしはあの頃とずっと変わっていなかったと思う。

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