真奈海と夜の渡月橋

夜の渡月橋から見える小さな景色

 嵯峨嵐山。修学旅行一日目の宿がある場所。

 僕らの班はJR嵯峨嵐山駅で電車を降りると、まずは渡月橋を目指しててくてくと歩いた。その間、通行の妨げと言うか、眺めているだけで楽しそうな雑貨屋や美味しそうな匂いを放つ出店など、数多の誘惑が僕らを邪魔してきて、その微妙な距離感覚を忘れさせてくれた。結構歩いたはずなのに疲れや飽きを感じることなく時間ばかりが過ぎていき、渡月橋のすぐ側にある宿に辿り着いたのは集合時間ぎりぎりのことだった。

 十七時前ともなると渡月橋付近はもう真っ暗で、何度もガイドブックで確認していたその景色を楽しめるという雰囲気ではなかった。もっとも今はまだ十一月中旬。この辺りで本当に紅葉を楽しめるのは、時期的にももう少し後なのだろうけど。


 僕の頭はずっとぼんやりしていた。宿に着いてからもずっと。

 理由は間違えなく、糸佳のことだった。

 『チロルハイムを出ていく』――たとえ糸佳が連れ子同士の妹であったとしても、たった一人しかいない妹には間違えないわけで……いや、実際は妹がどうとかそんな話ではない。ずっと幼かった頃から、すぐ隣の家に住んでいた糸佳が、県境さえもまたいだ遠い場所に住む。それがどうしても実感が沸かなくて、ずっともやもやしていたんだ。


 なぜこんな風に思うのだろう。だって、糸佳だぞ?

 いずれは糸佳と離れ離れに暮らすことになる。そんなのは当たり前のことだ。その時間が、たった一ヶ月後くらいになっただけのこと。それに距離だって遠距離と呼ぶにはあまりにおこがましくて、会おうと思えばいつでも会える距離。これからだって兄と妹として、ずっと文香さんの芸能事務所をともに支えていくことになると思う。そんな、戦友みたいな妹だ。

 だけど、この気持ちは一体なんだというのだろう?


 ――それに、そんな気持ちについては、誰であろうと知られてはいけない気がして。


「ちょっとユーイチ。こんなところで何ぼおっとしてるのよ〜?」

「べ、別に……さっき、風呂から出てきただけだよ」


 僕にそう話しかけてきたのは浴衣姿の真奈海だった。一瞬心臓が止まりそうになる。

 ここは浴場の前。目の前に『男』と書かれた青い暖簾と『女』と書かれた赤い暖簾がかかっていて、その隣には自販機もある。ちょっとした待ち合わせスペースになっていた。僕は宿のルームメイトである崎山をここで待っていたところだ。


「ひょっとして、エッチなことでも考えていたんでしょ〜?」

「なわけね〜だろ。別にお前の風呂上がりなんて今更……」


 ……と一瞬言いかけたが、真奈海の姿をもう一度確認すると思わず言葉が詰まってしまった。その妖麗な浴衣姿とともに、なんとも言えない甘酸っぱい匂いが僕の鼻をつんと襲ってくる。いつものとは異なる石鹸の匂いだろうか。そこに浴衣というずる賢い服装も、僕の気が動転した理由の一つかもしれない。そういえば真奈海のやつ、チロルハイムではおよそTシャツ姿のことが多いしな。


「ほら〜。絶対ユーイチなにかスケベなこと考えてるよね〜?」

「ち、違う……。別にそんなことは……」


 だが否定しようにもやや難しくもあった。僕の顔を見て、真奈海はけらけらと笑いだしてやがる。何がそんなに面白いのだろうと、だけどその真奈海の笑顔に、少しだけ救われた気分にもなった。


「罰として、ユーイチと少しデートしてもらおうかな〜」

「なんだそりゃ。てかお前だって友人とここで待ち合わせるんじゃないのか?」


 というか罰がデートとか、真奈海らしいと言えば真奈海らしい。例によって真奈海とのデートはいろいろ面倒なのであまり気は乗らないのだが。


「どうせわたしがいなくなったとこでみんないつものことって思うだけでしょ?」

「前から思ってたんだけど、真奈海の友人もいろいろ大変そうだな……」

「それよりユーイチは大丈夫なの? 崎山くんだっけ? 待ち合わせしなくて」

「ああ。後でメールか何かしておけば大丈夫だろ」


 そう言うと僕と真奈海は、こっそりと宿を抜け出す算段を考えた。真奈海は歩く際に少しだけその浴衣を気にしていたようだが、夜も二十三時を回っていたこともあり、周りに誰もいないことを確認すると僕の後にてくてくとついてきたんだ。


 なんだかそれはさらに妙な気分で、さっきまで何に悩んでいたのか忘れさせてくれそうだった。風呂上がりの冷たい夜風がどこか心地よく、暗い夜道の中を真奈海の足音がかたかたと響かせてくる。


「やっぱし今日のユーイチ、なんだか変なの〜」


 そんな僕の顔を見て、真奈海はにっこりと笑みを返してくる。

 ――そうだ。僕はきっと真奈海のこの笑顔にまた救われているのかもしれない。

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