女優春日瑠美の甘すぎる誘惑
「真奈海。ドラマの主役をやらないって、なんで今更それを急に……」
「あら? ユーイチ。わたしが主演する映画、全然チェックしてくれてないの?」
女優、春日瑠海。……と言っても、現在女優業は休業中のため、正確には『アイドル』春日瑠海と言ったほうが正しいかもしれない。管理人さんが『今更』と言ったのはそういう理由だ。
先日六月末に、春日瑠海主演の連続ドラマが最終回を向かえた。共演者も脚本も音楽も、そのスタッフの豪華さをみれば成功するのが当然とも呼べるドラマだったかもしれない。ただその中心にいた主演春日瑠美の演技力は特に際立っていて、女優として最後に大きな華を咲かせて大団円を向かえたんだ。――これで、女優春日瑠海の演技は見納めになる。だけどそれはあくまで、テレビの中でのお話。
実は春日瑠海が女優休業直前に、もう一つ収録を行っていた映画が存在していたんだ。あたしはひとりでよく映画館へ行ったりもするので、その宣伝も何度も観ていたから知っていた。原作は小説の純愛モノで、あまり本を読むことのないあたしでも知っているタイトル。たまによく行く本屋で頭の中に刻まれていたそれだった。確か昨年ベストセラーになった小説とかじゃなかったっけ。
その映画は春に収録が終わり、いよいよ来月公開となる。これが本当に最後の女優春日瑠海となってしまうのだろうか。その原作もさることながら、そういう視点からも注目を浴びている映画だ。
「イトカもちろん知ってます! そのドラマの第一話が今日放送されるんですよ!」
「ねぇ糸佳ちゃん? わたしドラマの話なんか、一ミリもしてないんだけどなぁ〜」
春日瑠海の不気味な笑みが、糸佳ちゃんを襲い掛かっている。糸佳ちゃんはそれに気づいているのかいないのか、負けじと無邪気な笑顔で応戦しているが……それってひょっとして、糸佳ちゃん天然なの?
ただやはりさっきから何度も見せている真奈海ちゃんの顔は、普段いつもどおりのそれではなく、女優春日瑠海という感じだ。アイドル春日瑠海とも少し違う……あたしにはそれがどうしても引っかかっていた。
「そうか思い出した。茜が主演するドラマの映画版……」
「だからさっきからドラマは関係ないって、ずっと言ってるよね? ユーイチくん!」
そして次に春日瑠美の不敵な笑みに襲われたのは管理人さん……ま、自業自得か。
管理人さんが思い出したとおりで、来月公開予定の春日瑠海主演映画は、今日から茜ちゃん主役で放映される連続ドラマの映画版なんだ。その話の流れで思い出したんだけど、前に文香さんから聞いた話によると、本来ならその連続ドラマの主役も春日瑠海でという話が当然あったらしい。それが今年の四月のこと。ところがその頃、事務所は例の春日瑠海女優休業宣言事件で大揉めになっていて、すぐに回答することができなかったんだとか。ドラマ制作会社になんとか代役をと文香さんが頼み込んでいたらしいんだ。
そして、その連続ドラマの主演代役に選ばれたのが、蓼科茜ちゃん。連続ドラマのキャストが公表されたのは春日瑠海の女優休業宣言翌日だったものだから、ありとあらゆる噂がテレビやネットで繰り広げられていたっけ。
その噂のほとんどは、春日瑠海と蓼科茜を比較するものばかりだった。正直、あまり見たくも聞きたくもない内容ばかりだったけど……。あたしですらそんな状況なんだから、真奈海ちゃんはきっと――
「でもでも、チロルハイムを代表として、イトカは真奈海ちゃんの方を応援してます! ですよね、美歌さん?」
「あ〜。あはは……」
真奈海ちゃんがチロルハイム代表か。それについてあたしはもはや苦笑いを浮かべるしかない。なぜって、その茜ちゃんももうすぐチロルハイムに引っ越してくるんだから……。
って、文香さん。糸佳ちゃんにさえまだそのことを伝えていないってこと!?
「だから茜なんてどうでもいいって言ってるじゃん! あんなサンシタ……」
「お、おい。……真奈海? 今、何か言ったか?」
「ん〜ん。別にぃ〜」
今何か真奈海さん口走ったよねあたし何も聞き間違えていたりしないよね!??
……ごめん。正直怖いよ、真奈海さん。それがたとえ演技だったとしても――
「茜のことはともかく、真奈海はもう女優休業してるんだから……」
「だから……なに? 言ってごらん。ユーイチくん?」
「いや、だから、その……」
気がつくと真奈海さんは管理人さんの座る背後に立ち、その細長い指でそっと管理人さんの顔を撫で回していた。真奈海さんの胸は管理人さんの首筋に当たっている。Tシャツ越しに真奈海さんの体温を感じながら、管理人さんの顔はますます引きつっていく。糸佳ちゃんはその光景を見るや、目を丸くしたままあわわと凝固してしまった。あたしはというと……あたしにもあんなに胸があったらなぁ〜……とか考えていたりはしてないからね絶対に!
「あ、あの〜……真奈海……さん?」
「ねぇ。デートしよっか?」
「……………………で、デート!??」
「そう。デートするの。わたしと、ユーイチで」
「いやでも、そんなことしたら……。てかこれから夏休みなのに、そんな暇……」
「わたしは暇だよ。ず〜っと暇」
「だって真奈海は、アイドルとして……」
「アイドルだってね、暇なときくらいあるんだよ? そんなことも知らないの?」
「……そ、そうなのか??」
「だからさ、わたしと、ショッピングして、映画を観て……」
「お、おい。……真奈海?」
「あ、海もいいかも。わたしここ数年海水浴とかしたことないんだよね〜」
「だ、だから……どういう……」
甘い誘惑で管理人さんを魅了する真奈海さん。
ううん。ここにいるのは紛れもなく、女優、春日瑠海だ。
あたしと糸佳ちゃんは、ただ黙ったままその光景を見守ることしかできなくて――
「ね。いいよね?」
「……あ、ああ」
そして管理人さんは、日本随一とも言えるその女優の誘惑に耐えきれなくなったんだ。
「やった〜! じゃ〜、決まりね!!」
まるでそれはドラマのワンシーンのような……
そんな夏の始まりを告げる、土曜日の朝のことだった。
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