糸佳と真奈海と管理人さん

 その日の夜、あたしたちは夕食を食べ終わると、後片付けを管理人さんに任せ、あたしと糸佳ちゃんはチロルハイムの地下スタジオへと向かった。ちなみに美希は『一緒に住んでる人が寂しがるから』という理由で、喫茶店『チロル』の閉店時間である十八時頃に帰っていた。そんな大切な人がいるんならもう二度とここで居候とかするな!とは言っておいたけど、美希はあたしにあっかんべして、『チロル』を立ち去ったんだ。

 真奈海さんは夕食後、明日はドラマの収録があるからということで、自分の部屋に籠もって台本を確認しているらしい。真奈海さんにとって台詞を覚えるのはほぼ一瞬の作業で、むしろどう演じるか、それをイメージすることに時間を割いていると言っていた。それであんな素敵な演技ができるということを考えると、真奈海さんのその言葉には非常に説得力があった。そんな真奈海さんの演技が今年の夏から消えてしまうなんて、なんだか嘘のようで仕方がない。


「ねぇ。真奈海さんって、もう本当に女優やらないのかな?」

「さぁ〜……どうなんでしょう?」


 地下スタジオに二つある部屋のうちの片方の部屋、糸佳ちゃんの音響機材がたくさん置かれているコントロール・ルーム。糸佳ちゃんはそこに置かれた椅子に座り、右手の人差し指を顎にやりながら、なんとも言えない顔を浮かべていた。やや複雑そうな顔。いや、それをわざと覆い隠しているような、そんな顔にも見える。普段の無邪気な糸佳ちゃんであることに変わりはないけど、ただどことなく、あまり見たことのない糸佳ちゃんの顔にも見えた。


「でもイトカは真奈海ちゃんの演技、大好きですよ!」

「やっぱりそうだよね」


 そんな複雑な表情を隠しきるかのように、糸佳ちゃんは笑顔でそう答えてきた。


「はいです! 真奈海ちゃんは事務所を代表する大女優さんですから!」

「あたしもそう思う。でもだからかな。真奈海さんが女優を休業するって、今でもまだ信じられなくて……」

「そうですか? イトカにはなんとなく真奈海ちゃんの気持ちもわかりますけど」

「え、そうなの?」


 すると糸佳ちゃんはいかにも得意げな顔をして、こんなことを言うんだ。


「はい。真奈海ちゃんは結局のところ、普通の女子高生ってことなんですよ!」


 まるで、そんなこともわからないんですか〜?とでも言いたげで、糸佳ちゃんの顔には妙な自信が浮かび上がっていた。なんだかその顔は少し意外で、普段あたしが知っている糸佳ちゃんではないようにも思えるほど。

 でも糸佳ちゃんの言いたいことは、何となくだけど理解できる。


「真奈海さんがただの女子高生か……。そこは確かに糸佳ちゃんの言う通りかもね」

「ですです! だけどお兄ちゃんにはそこが全然理解できないんですよ!」

「え、管理人さんが?」

「はいです!! お兄ちゃんは無神経すぎます!」


 糸佳ちゃんは笑いながら、はっきりとそう言い切った。

 たしかにあの管理人さんならそういうこともありそうだ。でもあたしには、どうしてここで糸佳ちゃんが管理人さんのことを口に出したのか、そっちの方が頭に引っかかっていた。

 確かにあたし含めて、糸佳ちゃんも真奈海さんもそして管理人さんも、立場が全然違うとはいえ、皆同じ学年の高校生だ。管理人さんは管理人さんとして、糸佳ちゃんは事務所社長の一人娘として、真奈海さんは事務所の看板スターとして、そしてあたしは……うん、ただの一般住民ということにしておこう、そんな四人が同じ場所チロルハイムで、同じ時間を共有している。そうやって考えると、少し妙な気持ちにもなってくる。


 糸佳ちゃんと管理人さんは、父親も母親も違う、兄と妹。それって本当に兄と妹なのか、疑いたくなるレベルだ。なぜなら二人とも同じ学年で、同じクラスメイトだったりするし、誕生日だってわずかに三日違うだけ。そのほんの僅かな差が理由となって、管理人さんは糸佳ちゃんから『お兄ちゃん』と呼ばれているのだそう。

 糸佳ちゃんの母親と管理人さんの父親が再婚する前は、『優一くん』と呼ばれていたと管理人さんから聞いたことがある。それが突如『お兄ちゃん』と呼ばれるようになった時、管理人さんは少し戸惑ったとは言っていたけど、それは本当に『少し』というものだったのか。


 そもそもなんで糸佳ちゃんは管理人さんのことを『お兄ちゃん』と呼ぶのか?

 わざわざ呼び方を変える必要なんて、本当にあったのかな……?


「だからお兄ちゃんをぎゃふんと言わせてやるんですよ!!」

「ぎゃふん!??」


 ……と、あたしがぎゃふんと言っても意味がない。あまりに話が唐突だったのでつい乗ってしまったけど、あくまで糸佳ちゃんがぎゃふんと言わせたい相手は、管理人さんのことだ。


「そうです! 無神経なお兄ちゃんにお仕置きをしてあげるんです!」

「お仕置きねぇ〜……」

「だから美歌さんも協力してください!!」

「え? ……あ、全然構わないよ」


 うん。それにはあたしも便乗する。糸佳ちゃんとは違う理由かもだけどね。ガサツだの胸が小さいだの……って本当にそう言われたかはあまり記憶にないけど、日頃あたしの悪口ばかり言いやがって、確かにお仕置きが必要なのは間違えなさそうだ。


 ……あれ? ところであたし、今日はなんで糸佳ちゃんに呼ばれたんだっけ?

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