喫茶店『チロル』の今日初めてのお客様
「お兄ちゃん! これはどういうことですか!??」
五月中旬。とてもよく晴れた平日午後の間もなく十六時。もうすぐ初夏を迎えるせいだろうか、気温は昼からみるみると上がっていった。その暑さに耐えかねた喫茶店『チロル』店長代理の糸佳は、今年初めて店に冷房を入れたくらいだ。
ところが冷房が全く効いていないのか、糸佳は謎の怒りを僕にぶつけてくる。
「だから特に何もなかったって、何度言ったらわかるんだ?」
「なにもないのにこんな結果だなんて、イトカ信じられません!!」
「僕だって信じられないさ。でも諦めろ。これが現実だ!」
さて、何の話をしているかと言うと……
実は美歌の追試結果の点数について議論していたんだ。
「お兄ちゃんが美歌さんをたぶらかせて、何かを引き換えに……」
「ない! てか何をどう引き換えたら、美歌のこの点数に繋がるんだ!?」
そう。美歌は実力テストで全教科で赤点を取った挙句、もれなく全教科で追試となり、そのため僕は職員室にまで呼び出され、美歌に勉強を教える羽目になった。……いや、正確には何も教えていない。教える以前に美歌の赤点そのものがふとした手違いだったらしく、教えようにも教えるものが何一つなかったのだ。
案の定とも言うべきか、美歌は実力テストの追試で前代未聞の点数を連発する。
「国語が九十八点。それだけでもすごいのに、数学なんてノーミスの百点ですよ!」
「あ〜。すごいな〜、美歌は……」
「この異常さ、お兄ちゃんが何か悪さをしたとしかイトカには思えないんですよ?」
「あのなぁ〜……逆にどう悪さをしたらそうなるのか、むしろ教えてほしいのだが」
事実、美歌は『追試はうまく行く』という宣言通り、全ての科目で平均点以上をクリア。それだけにとどまらず、国語と数学に至ってはその得点だけ見ると、学年トップと言っていいレベルだ。ただしこれが追試でなければの話だけど。
担任の衣笠先生はその得点を見た途端、口をただぽかんと開けていた。数秒後、ようやく正気に戻ったかと思うと、もれなくその次にカンニングを疑ってしまう。そのため美歌は、職員室で絶賛お説教中らしい。追試で高得点を取ってお説教とか……なんとも哀れではあるが。
尚、美歌が言ってた言葉を信じるならば、一人称『あたし』が国語を解き、一人称『私』が数学を解いたのだろう。そうでなければこんなミラクルはありえない。
「お兄ちゃん! どんなカンニングペーパーを美歌さんに手渡したんですか?」
「数学で百点が取れるカンニングペーパーなどあったら、むしろ僕が使いたいわ!」
「とにかく、お兄ちゃんに騙されてないか美歌さんが心配です! 美歌さんもうすぐ帰ってくると思いますし、帰ってきたら聞いてみないとです……」
「あのなぁ〜……」
てかそんなに僕を疑うんなら、最初から糸佳が美歌に教えてればよかっただろうに。糸佳だったら一人称『あたし』の美歌に、数学を教えることができたはずだ。そもそもなんで僕が疑われるのか、そこからして理解不能だ。
そんな風に頭を抱えていると、背後の『チロル』入口のベルがカランと鳴った。
「あ、おかえ……いらっしゃいませ〜」
糸佳の甲高い挨拶がそのお客さんを出迎えた。正直なところ、こんな時間にお客とは珍しい。店長代理の糸佳ですら、誰かが帰ってきたと思ったのか、思わず『おかえり』と言いかけたくらいだ。
が、僕が振り返ってそのお客と目が合った瞬間、糸佳の勘違いの理由が別にあったことに気がついた。糸佳は『誰かが帰ってきた』ではなく、『美歌が帰ってきた』と断定していたようだ。
喫茶店『チロル』にやってきたのは、この辺りでは見慣れないお洒落な茶色のブレザーを着た女子高生。たしかこの制服は、隣町の私立高校の制服だった気がする。髪はショートヘアで、身長は女子にしてはやや高め。真奈海ほど高くはないけど、糸佳よりは高い。そう、ちょうど美歌と同じくらい。
その顔こそ、まだ幼さを感じる。が、それ以外の部分は、美歌と瓜二つ。
そう。紛れもなく、美歌そっくりの女子高生だ。
「ここ、いいかしら?」
「……あ、はい。どうぞ……?」
やや低めの声が聴こえてきたと思うと、女子高生は僕のすぐ真横のカウンター席に座った。その様子に僕自身も確かに驚いているが、それ以上にびっくりしているのは糸佳のようだ。
「おすすめのコーヒーって、何?」
「『チロル』特製ブレンドコーヒーですね」
「じゃあ、それで……」
糸佳は手元にあった手挽きミルで豆を挽き、それをペーパーフィルターに落とす。手際よくコーヒーサーバーにドリップすると、あっという間に甘い香りが辺りに漂ってきた。花柄のコーヒーカップに熱々のコーヒーを注ぐと、糸佳はそれを女子高生の前に差し出した。
女子高生は少しずつ、差し出されたコーヒーを口へと運んでいく。
「美味しい……」
ついさっきまでどこか落ち着きがなく、緊張した面持ちを見せていた女子高生は、小さく笑みを零した。それは純白の笑みで、一人称『あたし』の美歌を彷彿させる。……いや、どちらかというとその属性は一人称『私』の方だと思うのだけど、何故か僕はそう思ったんだ。
ただ――間違えなくこの人は、衣笠先生の言っていた、美歌の双子の妹だ。
でもそうだとすると……美歌に会いに来たのだろうか……?
女子高生は、ゆっくりゆっくり、そのコーヒーカップに口を付けていた。
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