喫茶店『チロル』の逃亡者
「それでは、『BLUE WINGS』デビューライブ、成功を祝して……」
「「「かんぱ〜い!!」」」
文香の号令から、デビューライブの打ち上げが始まった。
場所は、いつもどおりの喫茶店『チロル』。都内まで徒歩五分と言えば聞こえはいいが、最寄り駅からは徒歩二十分だし、そもそもここは都内じゃないしで、どう考えても陸の孤島と言ってもいいレベルだ。それでもここで打ち上げをしたいと言い出したのが千尋と胡桃だったもんだから、もはや誰もその場所を否定できる人がいなかった。
まぁそれでもやはり遠いことには変わりないので、スタッフの数人の方は参加を断念していたけれど。
「それにしても千尋さん、なんでこんな場所で打ち上げしようと思ったんですか?」
「だって〜、ここならゆっくりくつろげるし、そもそも明日も学校休みだし〜……」
「学校休みって、何時までここにいるつもりですか!?」
ちなみに現在時刻は夕方の十八時。ライブ終了後、事務所の車や電車などに分散して、ここ喫茶店『チロル』に集まったのはおよそ事務所関係者十五人ほど。若干一名、全くの部外者である美歌もこっそり混ざっていたりするけど、機材の片付けを手伝ったのは事実だし、その辺りはお構いなしだ。
「それに、ここなら夜まで優一くんを誘惑できるもんね!」
「ちょっ…………!!」
冗談なのか本気なのか、年上姉さん肌の千尋は僕をからかってくる。まぁ、さすがに本気ってことは間違ってもないだろうけど……うん、多分だけど。
「こらちひろ〜!! ヌケガケとか許さないぞぉ〜!!」
「ちょ、ちょっとふるみ!! その手をほっほほはなひなさい!!」
すっと千尋の背後から胡桃が現れ、千尋の両頬をぎゅっと掴んできた。
「優くんはあたしのおもちゃだも〜ん。ちひろには渡さないんだからね〜」
「てか、僕は誰のおもちゃだって!??」
相変わらず胡桃は無茶苦茶なことを言う。誘惑の次はおもちゃか。一体僕はなんでいつもこうなるんだろうか。チロルハイムの管理人というだけで一苦労だと言うのに。
ふと視線を二人から逸らすと、僕は101号室の住民と201号室の住民から冷たい視線を浴びていることに気がついた。二人は明らかに蛇のような目で、僕を睨みつけている。その理由はどうしたって当然わかりたくないものだけど。
と、とりあえずこの場から離れないと。僕は逃げるように202号室の住民を探す。
「今日はお疲れ様。美歌……さん……?」
「…………」
ようやく『チロル』の端の方で、文香が頼んだお寿司をひとり黙々とつまんで食べていた美歌の姿を見つけた。が、それと同時にすぐに声をかける相手を間違えたことに気がついた。
「あの〜……お寿司、美味しいですか?」
「美味しい……お寿司みたい……」
「いやこれ、正真正銘のお寿司だから! お寿司以外の何物でもないからね!!」
ようするに一人称『あたし』の美歌に言わすと、見ていて危なかっしい性格の持ち主、一人称『私』の方の美歌だ。ついさっきまで『あたし』だったくせに、いつの間にか入れ替わっていたのか。
一人称『私』の美歌は確かにやや危険臭のする女子だった。天然系美少女というだけなら聞こえがいいが、どこか発想が人間離れしていて、放っておくと急にどこか遠くに行ってしまいそうな、そんな危険性すら漂わせている。
「管理人さん、お寿司嫌いなんですか?」
「いや別に、嫌いじゃないけど……」
「それなら管理人さんももっと食べてください。まだこんなにありますよ?」
「待て待て。その大きな太巻きは絶対に一口じゃ入らないから!!」
美歌は直径十五センチほどの太巻きを人差し指と親指でひょいとつかむと、僕の口に強引に放り込もうとしてきた。僕は慌ててそれを回避しようとするが、美歌は少し首を左に傾けて『なぜ逃げるの?』みたいな顔を僕に向けてくる。それは恐ろしく可愛らしい顔ではあるのだけど、いやいや、別の意味の恐ろしさも十分に兼ね備えていた。
一人称『私』の美歌に近づいたことを、改めて後悔した。いやまぁ僕の方から近づいたのは事実だけど……どうせまた、一人称『あたし』の方に『自分からナンパしたんだから自業自得よ!』とか後で言われるのだろう。
どうやらこうしているときも、一人称『あたし』の美歌も意識だけはあるらしく、こんな僕の慌て振りなどをずっと眺めているらしいのだ。そんな話をする『あたし』の話を聞いていると、少しだけ複雑な気分になったのも事実だけど。
「ほんとお兄ちゃんはいつでもナンパばっかです! 少しは恥を知ってください!!」
「困ったお兄ちゃんよね〜。女子ならいっつも見境なくて」
ついに糸佳と真奈海に捕まった。正確には逃げ場を完全に絶たれたともいう。
「別に僕は特に何もしてないだろ!!」
「お兄ちゃんが美歌さんをナンパしてたの、イトカしっかりこの目で見てました!」
「あのなぁ〜……」
とは言え、それに関してはあながち否定できないのかもしれない。まぁクラスメイトの女子に声をかけただけで、ナンパと言われるのかと聞かれると、それは疑問符しか湧いてこないが。
「ま、女子には人気者のユーイチだもんね! 少しは大目に……」
「……って真奈海? そう言いながら思いっきり足踏むの止めてくれないか!?」
真奈海は僕に急接近して、思いっきり僕の足を踏んできた。痛い。一体何の恨みというのだろう? ……思い当たる節が多すぎて、どれとも特定できないのが歯がゆい。
ところが、僕が反論するとすぐに真奈海は足をどけてくれた。妙に素直だと思っていると、それと同時に小さなメモを僕のジーンズのポケットを入れてきたことに気がついた。誰にも、すぐ近くにいる糸佳にさえも気づかれないように。
「ま、ナンパの件は糸佳ちゃんに任せるわよ〜」
「はい、任されましたです! お兄ちゃん、覚悟してください!!」
「だから何のことだって言ってるんだよ〜!??」
真奈海はすぐにその場から離れると、口うるさい糸佳のお説教が始まった。こうなるとさすがに投降……もとい、素直に聞いてるふりをしたほうが良さそうだ。
その間、僕はこっそり真奈海のメモをポケットから取り出した。
そこには、こう書いてあったんだ。
『今日の二十時 地下のスタジオで』
どうやら、真奈海が指し示した待ち合わせのメモのようだ。それだけ確認すると、僕は糸佳にバレないように、もう一度それをポケットにしまう。
「お兄ちゃん、聞いてるんですか!?」
「ああ。聞いてる聞いてる……」
僕は糸佳の説教を話半分に聞き流しながら、そのメモのことをずっと考えていた。
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