あの娘はベンツ泥棒

立談百景

あの娘はベンツ泥棒

 あの娘の名前はキャネット・ローズ。モーターレイクっていう、車しかない小さな町の外れには名のない森があって、そこに住んでいる可愛い女の子だ。

 森のヤツらはその娘のことを「赤バラのキャニー」と呼んでいた。

 キャニーは素直な女の子さ。色白で少し華奢だが、とても愛らしい。滑らかな赤毛にゃパーマがかかっていて、いつも着ている花のレースのワンピースがよく似合ってた。俺もしょっちゅう飛んで、彼女に会いに行くよ。

 キャニーのことを知っているのは、俺たち森の住人だけだった。名のない森は夜になると、恨み言を低く呻くように空気が震える音がして、町のやつらはそれを不気味がって森に入りゃしないんだ。俺たちが住むには、この森は非常に都合のいい場所だったね。

 キャニーは「赤いバラになるのが、私の夢なの」と、しょっちゅう言っていた。ほとんど口癖だったんだな。キャニーは人間なのにさ、「きっと赤いバラになれるぜ」なんて、ウシガエルのウェルズがキザったらしく言っちまったもんだから、純粋な彼女はすっかりそれを信じ込んじまったんだ。まあ確かに赤いバラは美しいから、キャニーもかく在りたいと思ったんだろう。

 でもキャニーにはある悪い癖があった。

 それは白いメルセデス・ベンツを、町からなんべんも盗んできちまうことなんだな。

 キャニーがこんなことをするきっかけになったのは、やっぱりウェルズのせいで、やっこさんキャニーを口説き落とす時に「赤いバラには、白いメルセデスがよく似合うぜ」なんて、しょうもないことを口走ったらしいんだ。キャニーはさらにその言葉を鵜呑みにして、町から白いメルセデスを盗んできちまうようになったんだな。

 ちなみに、ウェルズは森のヤツらにこっぴどく叱られて、キャニーのことを諦めたよ。もっともキャニーが誰かになびくなんてことは、ほとんどないだろうけどさ。キャニーはまだ子供なんだ。

 キャニーが盗んでくるもんだから、俺たちが住むこの森の奥には、白いメルセデスが何台も停まっている。ちょうど今時分モーターレイクの町では白いメルセデスを持つのが流行っていて、キャニーにとっちゃ具合がよかったんだな。

 俺が「人のものを盗るのはいかんぜ」と教えてやっても、キャニーは聞きやしないよ。あの娘、自分の夢には強情なんだな。屈託のない笑顔で「あたしに似合ってるかしら?」なんてメルセデスを自慢してくるんだから、まいったね。しかし白いメルセデスがよく似合うという意味では、確かに彼女は赤いバラだったよ。まだ二足歩行だったけどね、赤いバラのように美しい少女だってことさ。

 キャニーは森の中で、最も速く走ることができた。メルセデスを乗りこなすのが上手かったんだな。次に速いのはハリスホークの俺で、彼女とはよく森の奥にあるコースで競争をしてるよ。キャニーと俺はほとんど同じくらいの速さだけど、いつも三本モミのヘアピンと、そこからの立ち上がりで差がついちまう。こっちは空を飛んでるってのに、負けちまうんだ。悔しいけど、キャニーのドリフトは惚れ惚れするくらい美しかったよ。

 メルセデスは何台かあったが、近頃のキャニーのお気に入りはロードスターのメルセデスだった。かなりいい値段のするもんだって町のやつらが話しているのを聞いたけど、鳥の俺にはよく分からんね。ただ確かにそのメルセデスは、悩ましいスタイルではあったな。

 その日も二人でレースをして、俺がゆっくりゴールに向かってくるのを、キャニーは勝ち誇った顔で迎えてくれた。

「今日も私の勝ちね、ジェフ。」

 屋根の開けたメルセデスのドアに腰掛けて、スヌーピーのキーホルダーがついた車の鍵を指先でクルクルと回しながら、キャニーが言った。多少悔しくはあったが、残念だけどキャニーに負けることにゃ慣れちまってたんだな。

「森は風が少ないんだ。それに枝も多い。でもアリゾナ砂漠でやったら、きっと俺が勝つぜ。」

 俺が負け惜しみのように言うと「それじゃあいつか、アリゾナで競争ができるといいわね」なんて、キャニーは負け知らずの笑顔でそんなことを言うんだ。かなわないね、この娘にゃ。

 キャニーは暇があれば、ずっとメルセデスと走っていたよ。その日のレースが終わってからも、キャニーは一人でヘアピンを攻めていた。

 その音は日が暮れても続いていて、そのまま夜になった時、俺は大顎沼のほとりで久しぶりにウシガエルのウェルズに会った。遠くでは変わらず低い地鳴りと高いブレーキの音が鳴っていて、俺たちはその音を聞きながら沼のほとりに佇んでいた。

 大顎沼の周りには星に負けじと年中輝くホタルたちがいる。あんまりそれが明るすぎるから、この沼の近くでは夜空の星が輝くのをよく見られないんだな。でも真っ黒い大顎沼はそのホタルの光が映り込んでいて、本当に夜が溶け込んでいるみたいだった。大顎沼は真っ黒な底なし沼で、話では地球の裏の、もっと先まで続いているらしい。

 俺たちはその光景を眺めながらいくつかの雑談して、そのうちキャニーの話になった。

「ウェルズ、なんだってあんた、キャニーに白いメルセデスが似合うなんて言ったんだ。もう森の奥には、四台もミセス・ベンツが住んでるんだぜ。町の彼氏さんたちも、そろそろ黙っちゃいないんじゃないか。」

 俺は責め立てるつもりもなくそう言ったが、やはりウェルズも悪びれずに答える。

「なあに、誰もキャニーがやったなんて気付かんよ。モーターレイクの男どもはここに赤バラが住んでいることさえ知らないんだ。あいつら、女の股を開くかわりに、ボンネットを開いてファックする方が具合がいいんだな、きっと。」

 ウェルズからは反省のかけらも見当たらなかったね。でも俺はそれ以上、何かを追及するつもりもなかったよ。実際キャニーがメルセデスに乗り始めて、俺にとってもいい競争相手ができたわけだから、悪いことばかりじゃなかったんだな。メルセデスのエンジンの音も、俺には存外に心地よかったよ。だからその日はメルセデスの走る音が聞こえなくなってから、俺たちは巣に帰った。

 だがしかし、この時ウェルズと話したように、やがてモーターレイクの男たちは白いメルセデスばかりがなくなることに気付き始めたらしかった。アルファロメオもフェラーリもなくなっちゃいなかったのに、白いメルセデスばかり盗まれていて、こいつはおかしいと、近頃町ではそんな噂で持ちきりだった。

 しかしキャニーはといえば相変わらずで、そんな町の噂なんて露ほども知らずに、今日も五台目のメルセデスを盗んできて、俺と競争をしていたところだった。

「なあキャニー、そろそろメルセデスを町の彼氏さんたちのところへ返してやったらどうだ?」

 その日の競争が終わってから、俺はキャニーにそう提案してみた。キャニーが聞き入れてくれるとは思わなかったが、念のためにね。

 案の定キャニーは、首を横に振った。

「ダメよ、絶対にダメ。」

「俺だって別に、町のやつらに同情してるから返してやれって、そう言ってるんじゃないんだ。あんな町も、町のやつらも俺にとっちゃどうでもいい。だけどキャニー、あんた町でかなりの噂になってるみたいだぜ?」

「それでもダメなのよ。」

「困ったな。よし、それじゃあ一台だけ、そのお気に入りのロードスターだけ残して、全部返してやったらどうだ。」

 俺はキャニーが噂になって、町のやつらに捕まってしまわないか、それが心配だったんだ。けれどキャニーは頑なに首を横に振り続けた。

「なあキャニー、どうしたってそんなにメルセデスを手元に置いておきたいんだ。あんたが赤いバラだろうと、全部のメルセデスを独り占めしていいなんてことじゃないんだぜ。」

 俺はキャニーを諭すように言ったが、キャニーは返事代わりにこんなことを言い始めた。

「ねえジェフ、赤いバラの物語を聞いたことは?」

「いいや、ないね。」

 俺が首を傾げると、キャニーはパンと手を一つ叩いた。

「それでは、どうかご拝聴。」




【ある赤いバラの物語】


 赤いバラにトゲがあるのは、その美しさを守るためです。

 けれどある赤いバラは自分が美しいことを知らず、

 自分はトゲだらけの、醜い花だと思っていました。

 いつか空の星のように輝きたいと思っていました。


 ある日赤いバラは、一輪の白いバラを見つけました。

 それは汚れのない、とても美しい花でした。

 まるで空の星が落ちてきたように、白く輝いていました。

 赤いバラはいつしか白いバラに憧れを抱きました。

 けれど白いバラはたった一輪で、弱々しく見える花でした。


 白いバラがあまりに弱々しく見えたので、

 赤いバラはこの花を守らなくてはいけないと思いました。

 その美しい花びらを、黒いカラスが狙っていました。

 赤いバラはもっと咲き乱れて、もっとトゲを生やして、

 誰も白いバラに寄せ付けないようにしました。

 白いバラは赤いバラに囲まれて、より美しく見えました。

 赤いバラは、自分が弱いものを守っているのだと、

 少し誇らしく思っていました。


 なおも赤いバラは咲き続け、

 やがて、白いバラは赤いバラに埋もれて、

 もうどこにあるのか分からなくなりました。

 赤いバラも、どうして自分が咲き乱れているのか、

 もはや分かりませんでした。


 しかし赤いバラが咲き乱れるのを見て、

 みなは「赤いバラは美しい」と口々に言いました。

 最初はお世辞を言われているのだろうと思った赤いバラでしたが、

 次第にその気になり、やがて自分の美しさに自覚を持ち始めました。


 赤いバラはもっと咲き、もっと見られたいと思いました。

 そのまま赤いバラはたくさんの花を咲かせました。

 もはやその時、赤いバラよりも美しい花はありませんでした。

 しかし咲き続けた赤いバラは、確かに美しい花をつけましたが、

 同時に、たくさんのトゲでみなを傷つけました。

 そのうち赤いバラは、みなから少しずつ少しずつ嫌われていきました。


 もう誰からも見向きされなくなった赤いバラは、

 それでも咲き続けようとしましたが、

 やがて自分の花々が少しずつ枯れて、減っていることに気付きました。

 赤いバラはその土地の栄養をほとんど食べ尽くしていたのです。

 少しずつ少しずつ枯れていきながら、

 赤いバラはやはり自分は醜い花だったのだと思いました。


 赤いバラは残った花をほとんど散らして、

 肥やしとしてその土地に撒きました。

 赤いバラはもう僅かに、一輪しか残っていませんでした。

 もはや枯れよう。枯れて肥やしになろう。

 赤いバラがそう思っていた時、ふと、何かに気付きました。

 それは白いバラでした。


 白いバラはただの一輪、

 しかし堂々と、枯れずに咲き誇っていたのです。

 誰にも見られることなく、赤いバラに埋もれながらも、

 しかしずっと一輪、咲いていたのです。


 なんて気高い花だろうと赤いバラは思いました。

 自分もこのように美しくありたいと、切に願いました。

 あのように誰からも見られずとも輝く、

 星のようなものでありたいと思いました。

 赤いバラはその時、初めて美しさの本当の意味に気付いたのです。

 赤いバラはその日から懸命に咲き続けました。

 雨も嵐も耐え抜きました。


 しかしある時、赤いバラは慌てました。

 白いバラが黒いカラスに啄まれているのを見たのです。

 赤いバラはそれを見て、自分のトゲでカラスを追い払いました。

 しかし白いバラの花びらは、もはや一枚しか残っていませんでした。

 何日かすると、白いバラは少しずつしおれ始めました。


 赤いバラはそれを見て、

 枯れよう、枯れて白いバラの肥やしになろうと決めました。


 やがて赤いバラは最後の一輪までも花びらを散らし、

 枯れて、白いバラの足下に横たわりました。


 何日か経って白いバラが再び花をつけたとき、

 もうそこに赤いバラは咲いていませんでした。

 白いバラの足許には枯れたバラが一輪、横たわっていました。

 その日の夜は、とても星がきれいでした。




「はい、おしまい。どんぴこからりん、すっからりん。」

 キャニーは話し終えると、また一つパンと手を打った。

「そこでおしまいか?」

「ええ、素敵なお話でしょう。」

 俺には結局、キャニーがどうして赤いバラになりたいのかも、どうしてメルセデスを盗み続けるのかも、よく分からなかったよ。

 ただ分かったのは、キャニーは多分白いメルセデスのことを、その話の白いバラになぞらえてるんだろうってことだけだった。

「ジェフ、私はね、赤いバラになって、気高く生きようと思うのよ。もう白いバラがカラスに啄まれないよう、一緒にいなくちゃいけないの。」

 キャニーの目は、ただおとぎ話を盲目に信じてるって風じゃなかったね。しかしそのおとぎ話が嘘だとも思っていないみたいだった。

 人は嘘や虚構を見抜けるようになって、次第に心が擦れていく。そうして人は大人になって生きていく。それに対して純粋で無垢っていうのは、何も疑わない愚かさに等しい。とても弱くて、何ものにも染まりやすい。でも大人になるってのは、その純粋さや無垢な心を捨てるってことなんだな。何かに染まるってのは、そういうことなんだ。

 でもキャニーは、その一線を超えようとしているように見えたよ。純粋と無垢を持ったまま、赤いバラのまま、白いバラのように生きていこうって、そんな風に決意してるように見えた。

 それこそがユリイカ、俺は高潔な純粋さだと思うね。きっとキャニーのその気持ちが無意識で、それこそが無垢であり、赤いバラなんだろう。

「キャニー、悪かったよ。難しい話はやめにしよう。どうだい。もう一本、走るかい?」

「本日の最終レースというわけね。いいわ、受けて立ちましょう。」

 それから俺は日が暮れるまでキャニーと走っていたよ。この娘の純粋に付き合うのも悪くないって、改めてそう思ったんだ。

 それから何日か経って、俺は久しぶりにモーターレイクの上を飛んでいた。ハリスホークはもともと森暮らしの鳥じゃないんでね、ちょっとした気晴らしで町に行ったんだ。

 でも前にこの町にきた時と、なんだか様子が違ったんだな。何が違うのか、最初は分からなかったよ。でも一通り町を飛び回ってやっと気付いたんだ。それはある民家のガレージの上に羽根を休めた時だったよ。

 どうやらその民家の主らしい丸々と肥えたスキンヘッドの男が、ガレージから白いメルセデスを出してきたんだ。メルセデスの窓やミラーにはビニールやテープなんかが貼ってあってさ、そこだけ上手く隠している風だった。今から何をしようってのか、俺は興味本位でその光景を見ていたんだ。

 そうしたら驚いたことに、そのスキンヘッドのやつ、少しためらうようにしてから、エアスプレーでその白いメルセデスを塗り始めたんだ。それもペインティングで着飾ろうってんじゃないんだな、ただ真っ黒に塗ってるんだ。

 そこで俺はようやく、町の何がおかしいのか気付いたよ。どうにもモーターレイクのやつらは白い車を全部、そう、メルセデスに限らずに全ての白い車を、真っ黒に塗ったくっちまったみたいなんだ。まったく、驚いたね。そして少し呆れたよ。自分の白い車を盗まれるのがたまらないもんだから、やつらたとえ気に入らなくても、車を黒く塗っちまったんだよ。

 俺はすかさず森に飛んで戻った。そしてまずウェルズの奴にこのことを話そうと思って大顎沼に向かったんだ。すると都合のいいことに、そこにはキャニーとロードスターのメルセデスも一緒にいたよ。

 俺は開口一番、町の様子を伝えた。

「キャニー、大変だぜ。モーターレイクから白い車がなくなっちまった。」

 でもキャニーは驚かなかった。もうこの時には、この事態に気付いていたんだな。少しだけ悲しそうに眉をひそめるだけで、泣き言もなかった。ただ何も言わず、ロードスターの白いメルセデスを愛情深く撫でていた。あんなに白いメルセデスをカラスに啄まれたくないって言ってたのにさ、俺は見てられなかったよ。

 ウェルズのやつは「赤いバラはそんな顔をしちゃいかんぜ」と、変わらずキザに言っていた。

 けれどキャニーの悲しみはまだ続いた。

 ある晩、キャニーのお気に入りだったロードスターの白いメルセデスが、ついに動かなくなっちまったんだ。キーを回しても、うんともすんとも言わなくなった。キャニーは町から白い車がなくなった時よりも、より一層悲しそうにうつむいていたよ。

 その晩、キャニーはそのエンジンのかからないメルセデスの中で眠っていた。大顎沼のほとりで、俺とウェルズはキャニーの悲しみに付き合っていた。その晩は沼のホタルたちも輝くのをやめていたよ。だから沼には星がたくさん映っていた。そこはいつも以上にきれいな夜だったね。

「なあ、ジェフ。」

 メルセデスの窓縁にいた俺は、ウェルズが呼びかけるのを聞いて、沼の間際に降りた。

「どうしたウェルズ。」

「ジェフ、俺は情けないんだ。」

「情けないって、何が?」

「自分が情けないんだよ。こんな時、好きな女にどう声をかけていいのか、ちっとも分からないんだ。」

 ウェルズの声はいつもよりわずかに低かったよ。なるほど、こいつはこいつで、何やら別の悲しみを抱えてしまったらしい。

「そんなもの、俺にだって分からんぜ。」

「俺はキャニーの悲しみを分かち合ってやれない。深い悲しみにウシガエルは似合わんのだ、残念ながらね。鳥のあんたが、キャニーの悲しみを空の向こうに飛んで持っていってくれりゃいいと、切に思うよ。」

 ウェルズの言い草は、相変わらずキザったらしかった。けれど気持ちは分からないでもなかったね。キャニーに理解はされないだろうと思う。男の悲しみは男にしか分からないんだ。

「キャニーはカエルだからとか、鳥だからとかで、友人を選ばない。俺が鳥だからって、キャニーの悲しみを取り除いてやれるわけじゃあない。だから俺たちはみんなでキャニーの悲しみに付き合ってやりゃあいいのさ。」

「悲しみに付き合うだけか。それじゃあ、俺たちは他に、キャニーに何をしてやれる?」

「何もできないと思うね。もしもしてやれることがあるとすれば、こうやって彼女のそばにいて、ああじゃない、こうじゃないと心配を分かち合うくらいさ。」

 俺の言葉に、ウェルズは鼻で笑った。嘲る感じじゃなく、むしろ感心したという感じだったね。

「あんたも結構キザだね、ウエストウィングさん。」

「友人にキザな男がいてね、女のタラしかたは、全部そいつに習ったよ。」

「カエルのタラしかたは?」

「そんなもん、初めから心得ていたね。」

 俺が肩をすくませる、ウェルズはさも愉快そうに鳴いた。ウェルズの声はまだいつもより低いみたいだったが、少しは気を晴らしてくれたみたいだったよ。

 それから夜が明けて、沼はいつもの真っ黒い姿に戻った。キャニーが目を覚ましてメルセデスから降りてくる気配で、俺たちも目を覚ました。

 キャニーは俺たちに一瞥、微笑みをくれると、突然動かなくなったメルセデスの背後に回り込んだ。そして何かを思い出すように、キャニーはつぶやき声で話し始めた。

「私、夢を見たわ。この白いメルセデスが出てきて、私にお願いするのよ。『私は本当の星になりたいから、私が動かなくなった今、どうか大顎沼の底へ沈めて下さい』って。とても弱々しい声で、そう言うの。何度も何度も、そう言うのよ。」

 まるで独り言のようにも聞こえたね。

 キャニーは一つ深呼吸をすると、白いメルセデスを後ろから、沼に向かって思いっきり押し始めた。歯を食いしばって、額には血管が浮き出るんじゃないかってくらい力一杯だったよ。声も出なかったみたいだ。

 鳥の俺とカエルのウェルズじゃ、それを手助けする力にはなれない。残念だけど、ただ見ているしかなかったね。

 最初はうんともすんとも言わなかった白いメルセデスだったが、やがて少しずつ動き始めて、いずれその勢いに乗って、キャニーがあまり力を入れずとも、少しずつ前に進み始めた。そして少し喋る余裕が出てきて、キャニーがまた話し始める。

「でも私は本当に、この白いメルセデスを沼に沈めていいのかしら。私の夢は、きっと私だけのものであるはずよ。だから夢に出てきた白いメルセデスは、本当は私が沈めてあげたいって、心のどこかで思っているだけなのかも知れないわ。そうだったら私、なんて勝手なことをしているんだろう。」

 キャニーが納得できるなら、俺はそうすればいいと思った。でもそれを言うのは無神経な気がして、やはり口にはしなかったよ。隣にいるウェルズも同じような気持ちだったろうと、俺は勝手に思った。

 白いメルセデスはついに沼の縁に車輪をかけ、そのまま勢いをつけて、泥の飛沫をあげて、沼の中へ一気に滑り込んでいった。キャニーはメルセデスを押し出すと突っ伏すようにこけて、その体勢のまま顔だけを上げて、メルセデスがゆっくりと沈んでいくのを見ていたよ。

 少しずつ沈んでいったメルセデスだったが、やがてその全てが沼に沈んで見えなくなると、キャニーは両膝をついて起き上がった。

「星に、なれるかしら。」

 キャニーがそう言うので、俺は迷わず「なれるさ」と答えた。

 でも本当に星になれるかなんて、そんなことはきっと大切じゃないんだ。キャニーが赤いバラになれるかどうかがハッキリと大切じゃないように、それが誰にとっての救いであるのか、そこが大事なんだと思う。例えば誰かを喪っても、俺たちはその喪失にどうにか折り合いをつけて生きなくちゃいけない。失ったものを取り戻せないから、その代わりとして何かで埋め合わせたり、補ったり、忘れたりしながら生きていくんだ。

 だからメルセデスを喪ったキャニーは、きっとそのメルセデスが星になれば救われると思うことで、自分自身も救われたいと思っているんだろう。

 そしてキャニーはその大きな目から涙を流し、声を上げてわんわんと泣きはじめた。悲しみなのか安堵なのか、憎しみなのか、どんな涙なのか、ひょっとしたらキャニーは分かっていなかったのかも知れない。でもきっと、それらの気持ちが全て涙になったんじゃないかって、俺は思うよ。そう、勝手にそう思ったんだ。

 キャニーは怨みも辛みも、不平も不満も、憤りも悔やみも口に出さず、ただ泣いているだけだった。キャニーはいつまでも泣き続けて、大顎沼のほとりに、もう一つ湖でもできるんじゃないかってくらいだったよ。

 キャニーは日が落ちるまで泣き続けると、そのまま疲れて眠ってしまったようだった。ウェルズが麻で織った広い布を持ってきたので、俺たちはそれを二つに折って、風邪をひかないようにキャニーの体に被せた。

 そして夜が終わって、俺とウェルズが目を覚ました時、そこにキャニーの姿はなかった。森には少し霧が出ていて、なんだか肌寒い感じもあった。

「キャネット?」

 俺は霧の中を探すようにキャニーの名前を呼んだ。キャニーはどこに消えちまったのか、まさかあのメルセデスの後を追ったなんてことはないだろうか。俺は不安になっちまったが、それは杞憂に終わった。

「どうしたの、ジェフ?」

 俺の声に反応して、キャニーが森の中から出てきた。俺はひとまず安心したが、しかしキャニーの格好を見てギョッとした。

 キャニーはいつも着ているレースのワンピースの上に、普段は着ないような羊毛のポンチョと、革でできたキャスケットをかぶっていた。足下には首の短い編み上げブーツをはいて、肩にはツルを組んで作った肩掛け鞄を背負っていた。これから少し旅でもするんだって、そんな格好だったね。

「キャニー、なんて格好をしてるんだ。」

「モーターレイクにはもう白いメルセデスがないでしょう? だから今度は、少し遠い町へ行こうと思うの。」

 キャニーはこともなげにそう言って、頭の上の据わりが悪いのか、キャスケットのツバを持って回したり、上げたり下げたりして、具合が良いところを探していた。

「キャニー、モーターレイクの向こうは遠いぜ? 少し長い旅になるかも知れない。」

 俺はキャニーを心配して、よっぽど止めてやろうとしたよ。モーターレイクの向こうの町は随分遠くて、一人で行くには、キャニーくらいの女の子には孤独すぎると思ったんだ。しかしキャニーが自分の夢には強情だって、そんなことは分かっていたんだな。だからキャニーが俺の言葉に耳を貸さないのも、分かっていたよ。

「大丈夫よ。私、足腰には自信があるの。」

「歩いて行くつもりか? メルセデスに乗って行けばいいだろう。」

「ダメよ! 帰りにメルセデスに乗って帰ってくるんだから、どちらかが置き去りになっちゃうでしょう?」

「途中にゃ寒いところも暑いところもある。グリズリーやガラガラヘビに出会っちまうかも知れないぜ?」

「平気よ。きっと友だちになれるわ。」

「どうしても行くつもりかい?」

「そうよ。」

 なるほど、キャニーはやっぱり強情だったね。

 キャニーはキャスケットの据わりの良いところを見つけたのか、「よし」と言って頭から手を下げて、俺の方を見た。

「それじゃあジェフ、ちょっと行ってくるわね。」

 キャニーは近所のキオスクまでペプシコーラでも買いに行くみたいに言って、手を振りながらその場を立ち去ろうとした。俺は一瞬の逡巡の後「しかたないな」と、一つ鼻息をついた。

「待ちなよキャニー、俺もあんたの旅について行ってもいいかい?」

 俺がキャニーそう尋ねると、キャニーは森を出ようと傾けた体をばっと翻した。その勢いで地面に立っていた俺の前にしゃがみ込んで、目を輝かせながら言った。

「ジェフ、本当についてきてくれるの?」

「ああ、あんたがいないんじゃ、競争相手もいないしな。」

「うれしい、ありがとうジェフ!」

 そう言うと、キャニーは俺の羽根を手に取って、そこにキスをした。あんまり突然だったもんで、俺はびっくりしてキャニーの手を払いのけると、その頭上に飛んで、キャスケット越しに彼女の頭の上に降り立った。

 キャニーが帽子がズレたことに文句を言うので、俺は「時間のかかる旅だから、歩きながら具合の良いところを探せばいい」と提案した。キャニーはその言葉に納得して微笑んでくれたよ。

 しかしそのやり取りをしている間にも、キャニーは辺りを見回して、何かを探しているみたいだった。

「何を探してるんだ?」

「ウェルズよ。彼も一緒にきてくれないかと思って。」

「なるほど、そいつはいい考えだ。」

 俺は一つ鳴き声を上げて、ウェルズを呼んだ。すぐに返事はなかったが、しばらく待ってみるとウェルズは大顎沼の中から出てきた。

「ああ、キャニーは見つかったんだな、よかった。」

 沼から出てきて、ウェルズは開口一番にキャニーの名前を口にした。みんなやっぱりキャニーのことが心配なんだな。これでモーターレイクの向こうへ旅に出るなんて言ったら、倒れて寝込んじまうやつだって出てくるかも知れない。罪なやつだよ、キャネット・ローズって女の子はさ。

 キャニーは俺の時と同じにウェルズの前にしゃがみ込んで、向こうの町へ旅に出ることを告げた。ウェルズは驚いたように口をあんぐりとさせたが、しかし倒れりゃしなかったみたいだね。ウェルズって色男は意外と小心者だから、こいつこそ倒れちまうんじゃないかって心配しちまったよ。

「それでね、ウェルズ。ジェフは私の旅に付き合ってくれるんですって。だからあなたも私についてきてほしいと思って。」

 キャニーが頼むと、ウェルズは開いた口を閉じて、一瞬だけ思案したよう言い淀んで、静かに「俺はやめとくよ」と言った。

「俺は水がなきゃ生きていけないし、それに、この森にあるメルセデスを、誰かが見張ってなきゃいかんだろう。」

 ウェルズの返事に、キャニーは少し寂しそうにうなだれたが、やがて「ありがとう」と言って立ち上がった。

「残念だけどしかたがないわ。それじゃあ、留守をよろしくね。と言っても、この森は人が入ってこないから、メルセデスを見張ってる必要はないと思うわ。」

 キャニーがそう言うとウェルズはどうしてか不敵な笑みを浮かべたので、俺たちは不思議がってその顔を覗き込んだ。

 するとウェルズは腹の底から空気を出すような、低く鈍い唸るような鳴き声を上げ始めた。その鳴き声は森中に響き、するとあちこちから同じように唸り声が聞こえ始め、輪唱のようになって森を揺らした。

 俺たちはようやくそこで、この森に人を寄せ付けない、不気味な音の正体に気付いた。あの音は森中のカエルたちが一斉に唸り鳴く音だったんだな。

「こいつは頼もしいね。」

 俺がその光景に一つ感心すると、ウェルズは鳴くのをやめて「だろう?」とウインクをした。キャニーも同じように感心して目を輝かせていたよ。そしてウェルズが鳴くのをやめると、森中のカエルたちも一斉に黙ったもんだから、俺とキャニーはさらに感心しちまった。

 ウェルズは居直って、俺とキャニーの顔を交互に見てから言った。

「それじゃあお二方、しばしのお別れだ。特にハリスホークの旦那、いいかい? よく聞きなよ。あんたはキャニーをしっかり守るんだぜ。その娘に何かあったら、タダじゃおかんからな。」

 ウェルズはいつもの調子で、けれど念入りに俺へ忠告をした。そんなことは承知の上だったが、俺はその言葉を極力重く受け止めることにしたよ。

 キャニーはそれから、森のやつらにしばらく留守にすることをそれぞれ挨拶して回った。それが一通り終わってから、俺たちはようやく森を出た。森のやつらは目立つからって森の出入り口までは見送りに出てこなかったが、それなりにキャニーのことを心配しているみたいだった。彼女、やっぱりみんなに愛されてるんだな。

 森の出入り口まで見送りにきたのはウェルズだけで、俺たちが出ると、旅の幸運を祈るようにして森が低く呻いた。

 森から出て南へ下り、モーターレイクを横切って平地に出る。ずっと向こうに小高い峠が見えていて、まずはあそこを越えなくちゃならない。そこを越えても、町はまだずっと向こうにあるんだ。

 キャニーはまたキャスケットの据わりが良いところを探しながら、どこか嬉しそうに切り出した。

「ねえジェフ、あなたいつか、アリゾナでやれば私のメルセデスに勝てるって言ったわよね?」

「ああ、言ったよ。」

「それじゃあ、せっかくだからアリゾナまで行って、競争しましょうよ。次の町で白いメルセデスをみつけたら、二人でそのままアリゾナへ行くのよ。素敵ね!」

「おいキャニー、そうは言うが、アリゾナは向こう町の、そのまたずっとずっと向こうだぜ?」

「いいじゃない。せっかく森から出てきたんだもの、ついでよ。」

 キャニーは冗談を言っているわけじゃなさそうだった。勘弁してほしかったが、あんまりキャニーが楽しそうだったんで、俺は腹を括ったよ。

 後ろを振り返ってみると、もうモーターレイクの町は豆粒みたいに小さくなっていた。森の姿にいたっては、もはや影さえ見えない。かわりに道の先、少し向こうのところに、ガソリンスタンドの看板が見えてきた。

「よし」と、キャニーはやっと帽子の具合が良いところをみつけたらしく、ようやく本調子といった様子だった。

「さあジェフ、それじゃあ前哨戦よ。あのガソリンスタンドまで、競争しましょう。」

 キャニーは目の前を指差しながら、俺に勝負を挑んできた。

 メルセデスに乗っているならともかく、人が走るのに、鳥の俺が負けるわけがなかったよ。それにここは森の中と違って開けてるし、風も掴みやすい。

「キャニー、こりゃあ勝負にならんぜ。こんな広いところで鳥の俺が負けるわけがない。」

「あら、私は脚にも自信があるのよ。それじゃあスタート!」

 キャニーは不意を打つようにして走り出した。俺は手加減してやろうと思いながら後を追うが、しかしキャニーのやつ、これが存外に速いんだな。

 結局始めの立ち上がりで出遅れて差が開き、俺はムキになって、少し本気を出して飛んじまったよ。道半ばでどうにか追い抜いて、結果はもちろん俺の勝ちだったけど、あんまり嬉しくはなかったね。

 いやはや、何とも格好のつかない初勝利だったよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの娘はベンツ泥棒 立談百景 @Tachibanashi_100

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る