二日目:三月十一日

 翌朝、季節外れの大嵐の過ぎ去った庭の隅には、枯れ葉がうず高く積みあがっていた。空は雲の欠片までも風で吹き飛ばされたように晴れ渡り、冷たい空気がのしかかる様に辺りを包み込んでいた。朝食後に浩司は、両親や祖母と共に斎場に向かうことになっていた。真琴は、受験対策の補講で夕方まで学校だった。


 家を出るとき、真琴が庭の真ん中にしゃがみ込んでいた。浩司が、遅刻するぞ、と声をかけると、真琴は地面を指さし言った。


「お祖父ちゃん。」


 浩司は一瞬ゾッとして真琴の指差したところを見た。そこには、昨夜の嵐で飛ばされてきたらしい、カラスがうずくまっていた。カラスは生きているのか疑わしいほど静かであったが、黒真珠のように丸い瞳は、一瞬も揺らぐことなくじっと真琴を睨みつけていた。


「斜陽でしょ。」


「え?」


「お葬式でその人が生き物がになって出てくるって、昨日言ってた。太宰治の、斜陽でしょ。」


 言われてみればそうだ、と、浩司は真琴に指摘されて初めて自分の消えかけの記憶の正体を思い出した。蛇が父の葬儀に現れる話。昨日はつい勢いで口走ってしまったが、あながち間違いではなかった。


「太宰から引用って、なんかオタクっぽいよ。」


 浩司は顔がカァッと熱くなるのを感じた。昨夜、自分が一人静かに布団の中で温めていた悩みを、暗に言い当てられたような気がしたからだ。その動揺を悟られまいと、浩司は自分が負け惜しみまで知的な人間であるかのように、足元の小石を蹴って、朝靄のさらに遠くを見るような眼をした。自分が幼稚な背伸びをしていたと分かった翌日でも、妹に対する聞き分けの無いプライドは、浩司を秘密主義者にさせていた。


「お前……小説とか読むんだ。」


「浩司の部屋に一杯残ってるの、勉強の合間にたまに読んでる。」


「勝手に入んなよ……それよりもお前、志望、医学部だろ。そんな暇あるのか。」


 真琴は返事をしなかった。浩司は、そう言えば子供の頃は、自分よりも真琴の方が読書家だったような、そんな気がしてきた。


「受験、大丈夫か。」


 大丈夫か、とはまた悪い聞き方をした、と浩司は思った。成績のこと、不安のこと、体調のこと、受け取り方は様々にある。だが、浩司は自分が今、何を真琴に聞きたいのか、よく分っていなかった。今更、しかも負け犬の自分が、本当に医学部でいいのか、とも聞けまいし。とにかく、話題を変えないといけないと思った。


「……お祖父ちゃんさ。最期、看取ってもらえなかったかもしれないってーー」


「うん。知ってる。」


「……やっぱ知ってたか。」


「お母さんから聞いた。」


 真琴は淡々と答えた。どの道、祖父の死に目に会わないという決断を自ら下した自分たちにとって、祖母が間に合ったか、間に合わなかったか、というのはどうこう言える問題ではない。もし祖母が間に合っていたとして、それを喜べば自分たちは無責任として、もし祖母が間に合わなかったとして、それを責めれば自分たちは同罪人として、不孝者の烙印を受けるのだ。


「……お祖父ちゃん、どんな気持ちだったんだろうね。」


 今日の浩司は、真琴の心を軽くするような言葉を持ちえなかった。だから、なけなしの想像力で、祖父の視点から自分達――祖母や、両親や、妹や、自分――を見て、率直に感じたことを言った。


「……怒ってたんじゃないかな。」


「やっぱね。私もそう思う。」


 真琴は指先でカラスの嘴をつついて、反応を探っていた。浩司は、噛まれるぞ、と言おうかと思ったが、別にそれは自分にとっても真琴にとっても大きな問題ではないように思え、敢えて何も言わなかった。そこまでされてもカラスは全くの無反応で、ただ見開いた大きな黒目で二人の事をじっと見つめていた。


「……お祖父ちゃんは、カラスって感じじゃないだろ。」


「やっぱね。私もそう思った。」


 真琴はハンカチで左右からカラスをそっと抱えると、塀の上に座らせた。それから庭になっているプチトマトを二、三個もぎり、カラスの前に置いて、帰ってきてもいたら今度はちゃんと見てあげるね、と言って出ていった。浩司がカラスの事を両親に伝えると、母は興味深そうに窓から塀を見たが、父はあまり興味がなさそうに朝食のコーヒーを飲んでいた。だが真琴が世話をしかけていると伝えると、父は少し嬉しそうに、じゃあ看てやるか、と言った。父は昔から真琴に甘いところがあったな、と浩司は思った。




 葬儀場は、自宅から岩槻駅の方に、車で二十分ほど走らせたところにあった。浩司と、両親と、それから家を出るときに祖母に声をかけ、四人が父の車で乗り合わせて向かうと、到着したのは午前十時頃であった。大きく『田宮家』と書かれた白い看板が自動ドアの横に立てかけられており、自動ドアをくぐると真っ白な大量の菊の花で埋め尽くされた祭壇の中に、金色の額縁に囲まれた大きな祖父の遺影が鎮座していた。


 祖父の遺影は、奇しくも昨晩祖母の家で見た、社員に囲まれた祖父の若かりし頃の写真のアップであった。それなりに昔の写真の拡大のはずだが、職人が編集でも施したのか画質の粗等はあまり気にならない。遺影の下に、祖父の身体よりも一、二回りほど大きい、(恐らくは)桐の棺が据えられていた。棺は、本当に木でできているのか一目見ただけでは疑いたくなるほどに白く、木目も見えないような磨かれ方をされていた。その棺にも、ところどころ金色の飾りが施されていた。浩司は当然葬式慣れしている人間ではないが、こうした趣向を一目見ただけで相応の贅を凝らした式であることを察した。


「やっぱいい写真やね。お祖父ちゃんこの写真お気に入りだったし、良かったね。撮ってあげよ。」


 母は大きな声でそう言って笑うと、ケータイのカメラで遺影をパシャパシャと撮影しはじめた。父もそんな母と一緒に笑っており、母の一見節度の無い行為を止めようとはしない。そうした雰囲気に当てられ、浩司はすぐにスマホのシャッター音が気にならなくなった。祖母は、そんな母に、うんうん、と言って同じく笑っていたが、しばらくするとふらっと葬儀場の奥へと消えていった。


 しばらくして葬儀場の奥から、祖母と共に今日の葬儀の担当者らしい男性が出てきた。男性は端的にお悔やみを述べると、喪主の父とこれからの打ち合わせで担当者と色々と話しはじめ、そこに母と祖母の女性二人が、ズラズラとついて回る形となった。母も祖母も、自分こそがしっかりしなければならない、と思っているらしい。浩司は、今この瞬間に母と祖母の衝突がはじまって、罪のない葬儀場の担当者を巻き込んだりしないことを祈るばかりであった。  


 浩司が四人から一歩程離れたところで段取りの説明だけを聞いていると、入り口の自動ドアが開いた。入ってきたのは茂叔父と、叔父に車椅子を押されている、恐らくは茂叔父の母、祖父の弟の奥さんの、敦子お婆さんであった。叔父はきちんとした喪服で、昨日とは違い髭も綺麗に剃って、髪も寝かしつけていた。敦子おばあさんは、喪服の着物の上に茶色い厚手のストールを羽織り、その上に桜色の毛糸のマフラーを巻いていた。敦子お婆さんはあまりにも小柄で顔も小さいため、頭がマフラーに埋もれているような様子であった。


「叔父さん、おはようございます。」


「おう、こうちゃんおはよう。……お袋覚えてるか、李一さんとこの浩司くんだよ。純一くんの息子の。」


「……敦子お婆ちゃん。お久しぶりです。浩司です。」


 敦子お婆さんはマフラーの中で首をモゾモゾと動かした。


「ああ、こうちゃん。おおきゅうなったねえ。」


「……今日は、来てくれてありがとうございます。」


「うん。今日はねえ、りいっちゃんが来るからね。」


 浩司が茂叔父を見ると、叔父はやれやれといった感じで肩をすくめた。どううやら、敦子お婆さんは祖父に会うために来たことは分かっているが、祖父が死んだという事はよく分っていないらしかった。


「すまんねえ、お袋最近、こんな感じだから。」


 叔父はそう言ったが、敦子お婆さんはニコニコとしながらマフラーに包まれていた。浩司はこういうボケ方ならそう悪いものでもないのではないか、という気がしていた。


「茂くん!」


 最初に茂叔父達に気付いたのは、母であった。母は茂叔父に気付くと手を挙げ、持ち前の大声で呼んだので、父や祖母、担当者の男性、それから葬儀場の準備にかかっていた何人かのスタッフまで、全員の視線が叔父に集中することになった。


「はあ、ははは……。どうも静江さん。昨日はありがとうございました。」


「いいえぇ。美味しいでしょう、うちの蜜柑。」


「ええ。事務所で浩司くんともいただきましたよ。」


「何か変な事吹き込んでないやろね。」


「変な事ってなんですか、やだなぁもう。なあ。」


 そういって茂叔父は浩司の背中を叩いた。浩司は正直、この状況で話題の中心にされるのは御免であったので、咄嗟に、


「事業展開の話をしたよ。」と言った。


 その言葉を聞いて、祖母の目の色が僅かにだが変わった。


「ふーん。そんなお金、あったのねえ。」


「ちょ、違いますよ。言葉の綾っていうか、片手間で電化製品とか直してて。」


「呑気ねえ、便利屋の真似なんてして。それよりも、新しい家具の注文は来たの?うち、何の会社だっけ。」


「ええ、李一お爺さんの代からの、一流の家具メーカーです。分かってますよ、当然じゃないですか……。」


「ふーん。じゃあなんで注文が来ないの。考えたことはあるん?」


 祖母の口調は、浩司が見てきたおどおどと遠慮がちな喋り方からは想像もできないほど、淡々と饒舌だった。それは相手に口を挟ませる隙も与えない、威圧的な喋り方だった。決して声は荒げていないが、それが余計に、相手に気を抜く暇も与えない、ある種の迫力を持っていた。浩司は、昨晩母の言っていた昔話を思い出した。嫁入り直後の母を泣かせたのはこの迫力か、と思った。現に、母はそんな祖母の様子を見て露骨に不機嫌に眉をひそめていた。


「お祖母ちゃん!こんなとこで会社の話なんてせんでもいいでしょう!」


「だって、李一さんの会社よ……。」


「その会社から解放されてやっとゆっくり休めんのに、ここでそんな話してたらお祖父ちゃん、ゆっくり眠れんでしょう!会社の話なら、お祖父ちゃんの目に入らんとこ行ってやりい!」


 母の声は、いつも以上に大きかった。まるで声そのものがひとつの質量をもっているかのように、その場にいた全員が少し身を小さくしていた。


「茂さんも!」


「ちょ、静江さん勘弁してくださいよ……じゅんいっちゃーん……。」


 叔父に請われたこともあり父は、調停役として何かしら話を纏めようとしたが、無駄であった。どんな話にも割り込ませない祖母と、どんな話も遮る母、二人の永遠に決着のつかないような言葉のぶつかり合いには、父が割り込める隙も無かった。父は二度三度、まあまあ、とか、つまりね、とか言った後に、無理矢理話を纏めるような事を言おうとしたが、結局どちらにも取り合われず、意味のある言葉を紡ぐ前に父の意気は消沈してしまった。


 バコン、と何かが凹むような音がした。


 祖母も母も、父も叔父も浩司も音のした方を見ると、敦子お婆さんの車椅子の下に、大きな水たまりが広がっていた。音の正体は、敦子お婆さんが茂叔父のカバンから抜き取ったペットボトルを、取り落とした音らしかった。敦子お婆さんは、それを見て腹を抱えて笑っていた。


「蝉がね、おっきな蝉がね、おかあちゃんの顔にとまったからね。取ったげな思ったんよ。」


「……あっちゃん、今は三月やで。蝉はいないよ。」


 母が、膝を折って敦子お婆さんの目を見て言った。


「見て、茂。取れたよ。取れた。おっきな蝉。あはは。」


「あーあ、お袋。ペットボトルで遊ぶときはキャップ閉じてから、っていつも言ってるじゃん。……すいません、拭くものお借りできます?」


 数人の職員が、葬儀場の奥から雑巾をとってきて床を拭き始はじめた。母の大声のサイレンよりも高らかに葬儀場に響く、甲高い笑い声に誰もが気を抜かれ、ついさっきまで何が起こっていたのかも忘れていた。




 茂叔父は、進んで床を拭き終えた雑巾を貰い受けると、それを洗いに斎場の奥に入っていった。浩司はも咄嗟に洗い場に付いていき、雑巾を一枚預かった。二人は並んで、狭い流しで雑巾を洗っていた。


「お袋どうしてる。」


「……母が、何か話してるみたいです。」


「びっくりしたか?うちのお袋。」


 茂叔父は、自分はもう慣れっこだ、とでも言うように尋ねた。


「はあ……まあ少し。」


「ボケは誰でも通る道だ。どうせ通るんなら、あれくらい幸せそうにボケたいもんだよ。」


 相変わらずざっくばらんに見えて、叔父の本心は読めない。本気でそう思っているのか、あるいは親族の前でささやかながら醜態をさらした自分の母親を擁護しようとしているのか……もしくは、浩司にはその言葉が自分の祖母に対する痛烈な皮肉のようにも感じた。表の方からまた、甲高い笑い声が響いてきた。


「静江さん、おたくのばあちゃん以外のジジババとはほんと仲いいよな。」


 確かに母は、昔から近所のお爺さんお婆さんと妙に仲が良かったような気がする。それはもちろん、浩司にとって仲が良く『見えていた』だけかもしれないが。少なくとも浩司は、母が祖母以外の老人を悪く言うところを、覚えていない。


「昨日母から聞きました。敦子お婆さんが、嫁入りしたばかりの母に唯一良くしてくれたって。」


「そうだっけ?よく知らないわ。女じゃあるまいし、人の家庭に余計な詮索しないから。」


 浩司は、女じゃあるまいし、という言葉が、祖母や母のみならず、田舎の、狭いコミュニティそのものを指しているように思えた。茂叔父もまた、若い頃は都会で大学に通い、田舎に帰ってきた人間なのだ。そういう意味で浩司と茂叔父は田舎の息苦しさを共に分かち合うことができるように思えた。


「そういえば、昨日の話。考えてくれたか?」


「え、何でしたっけ。」


「うちの会社に就職するって話さ。」


 そこで浩司は、昨晩あれだけ一人で考え込んだ己の自立の何たるかに、具体的な就職に関するビジョンがなにも含まれていないことに気付いた。




 表には、多くの親族が集まり始めていた。急に狭くなったように感じる斎場の様子を見て、浩司は自分の家系がこんなに大所帯であったことを初めて知った。自分の家は、立地上と商売上の都合から特に茂叔父の家との関りが深かったが、祖父には浩司が知るより多くの姉弟がいたのだった。更にはその子・孫までが斎場に押し寄せており、場内はさながら新年会のような賑わいを見せていた。昔話に花を咲かせる中高年、最早聞き取れないようなかすれ声だが本人たちはしっかり話がかみ合っているらしい老人達、子供同士ですぐ意気投合して遊びはじめた子達。様々な家族が分け隔てなく混ざり合った、和やかな雰囲気に当てられて、白や黄色い菊に囲まれた祖父の遺影までもがなんだかお目出度く、縁起のいいもののように思えてきた。


 その中で、浩司の両親は代わる代わるやってくる親族たちの弔辞を一身に受け、祖母は同年代(といっても、祖母はその中で一回りも若く見えた)の老人達と談笑し、それぞれホスト役として機能していた。浩司は、またしても手持ち無沙汰となった。頼みの綱であった茂叔父も、敦子お婆さんの近くにいた背の高い、如何にもガテン系な顔つきをした中年男性と昔馴染みらしく、すぐに二人で意気投合していた。敦子お婆さんは、自分の頭上で厳つい中年男二人が中学生に戻ったかのような駄弁りあいを繰り広げる様子に、楽しそうにニコニコしていた。


 浩司はもう一度親族たちの顔ぶれを見渡した。これだけ親族がいてどうも不思議な事ではあるが、祖父世代の孫――つまりは浩司のハトコの代――には、浩司や真琴と同年代の者はいないらしい。皆、浩司より上の30代か、それよりずっと下の小学生以下の子供たちであった。例えば真琴は、この中の誰かと知り合いであるのだろうか。浩司よりは家にいる時間が長いのだから、その可能性は大いにあるように思えた。もしこの場にいるのが自分ではなく真琴だったら、きっと自然に輪の中に入り、年上のハトコや父の従弟達にチヤホヤされるか、下の子供たちの世話を焼いて人気者になっていたことだろう。


 浩司は急に手に残る雑巾の感触が気になって、洗い場に戻ろうかと思った。


「あれ?浩司くんじゃないかい?」


 浩司は咄嗟に笑顔を作って、片手をさも剽軽な世渡り人であるかのように後頭部に当てて、会釈した。


「――どうも、ご無沙汰しております。」


 声をかけてきたのは、小さな丸眼鏡と、それがしっかり載るだけのむくんだ丸顔と、さらにその頭が小さく見えるほど丸々とした体形をした、壮年の男性だった。年は、父より上だが、祖母より下であるくらいだろうか……祖父の下の方の弟か、父の従兄である人のように思えた。


「久しぶりだねぇ。覚えてるかい、小さい頃うちの海岸で一緒に磯釣りして遊んだの。」


 丸紳士は、構わずどんどん話しかけてきた。後からついてきた祖母が、「覚えてる?池田のおっちゃんよ」と言ったが、当然覚えているはずがない。浩司は何かに思い当たったように、ああ、という声だけ発したのだった。


「ばっちゃんから聞いたよ。浩司君、慶応の院行ってるんだってなぁ。」


 丸紳士の言った事が、浩司には一瞬自分の事だと思えなかった。そして自分のことを言っている、と分かったとき、浩司は顔のパーツというパーツが剥がれ落ちそうな気がした。祖母は話を膨らませに膨らませすぎて、取り返しのつかないことをしでかして回っているのではないか。早くこの場を離れたい。のっぺらぼうの顔の裏で、唯一働く脳みそが、必死のエマージェンシーコールを鳴らしていた。


「本当かい?うちの会社に欲しいね。」


「おめーのとこなんていくかよ、きっと大手から引く手数多だぜ。浩司くん、是非ローンはうちで組んでくれよ。」


 それに釣られてか、浩司の周りには30代くらいのパリッとしたスーツの男性やら、50代くらいのギラギラに生光りした皮のセカンドバッグを抱えた男性やらがわらわらと集まってきた。浩司は上の空で、うちの家系はなんだか金回りが良い家が多いなと考え、その遺伝子の中に会って裕福とか成功とかと無縁な自分は、やはり落ちこぼれなのだろうかとかぼんやりと考えた。


 祖母は、信じられないくらい晴れやかな笑顔で、まるで心から孫の栄達を喜んでいるかのようだった。




 程なくして、浩司は母の手によって、針のむしろとしか言いようがない親族からの訴追から解放された。母は母で、方々にお礼やら挨拶やらをするのでこちらの話に耳を傾ける余裕などなかったように思えたが、果たして全くの偶然であったのか、それとも母は大きな声に見合うだけの地獄耳の持ち主であり、首尾よく助け船を出してくれたのか、何れにしろ浩司は母からの頼みごとのためにしばし斎場をお暇することになったのだった。


 その頼み事というのは、葬儀に参列する親族たちの中の、小さな子供達の相手であった。更に言えば、その子たちを連れて、斎場近くのスーパーまで行って、母から渡されたお金で子供たちの欲しがるお菓子を買ってやる、というものであった。


 参列する親族の中には、浩司や真琴と同年代の者はいなかったが、真琴より年下の子供たちが数人――小学生くらいの女の子と、それより小さい、弟らしき男児が二名――おり、見るからに暇を持て余しているようであった。男の子たちは持ち込んだ電車の玩具を振り回したり、並べられた椅子でアスレチックごっこをしていたりしたが、退屈と、非日常的な周りの雰囲気とで、今にも興奮が爆発し、とんでもない遊び方をしはじめそうであった。それを窘めて大人しくさせようとするお姉さんの努力が、幼いながらに涙ぐましかった。


 浩司は子供たちに声をかけた。不思議なことに、自分の子供でもおかしくないほど年の離れた子達に声をかけるのに、躊躇いや不安は無かった。それは浩司が、初対面の人ほど話しやすいような表面的な人付き合いばかりをしているからだけではない。浩司のような人間でさえ、昔は一角の兄であり、妹の子守をしていたのだ。浩司の中には、その成功体験と、子供との付き合い方のメソッドがはっきりと刻まれていた。果たして、子供たちはそんな浩司に特段の拒否感を示すこともなく付いてきた。子供の相手をするのに、何より大切なのは自信である、と浩司は感じた。


 斎場を出ると、前の道路で『田宮家告別式』と書かれた立て看板をじっと眺める老紳士がいた。浩司が少し離れた玄関口からその老紳士を見ていると、老紳士はこちらに気付き、自然な流れで帽子を取り、浩司に会釈をした。グレーのジャケットを羽織った身なりのよい白髪の老人であった。浩司は、この人もうちの親族の一人だろうか、と思ったが、だとしても顔も名前も分かるはずがないので、努めて愛想のよい会釈をし、丁寧にこちらに招くような手ぶりをして、また子供たちの相手に戻った。


 片道10分程度のスーパーまでの道のりで、子供たちは色々なことを喋った。と言っても、喋っていたのは主に男の子二人で、お姉さんの女の子はその補足役兼、たまに突っ込み役として話していたが。男の子達は、聞くところによると上が5歳、下が3歳で、とにかく自分の事を話したい年頃らしく、自分の学校や保育園の事、今日ここに来るまでの事、お父さんやお母さんがどんな人かという事、大人しくしているお姉さんが家では色んなことで怒られるという事(これには女の子も強く反論し、浩司はこの話題で今日一番この女の子が話しているところを見た)、自分達は絵が得意であり、兄弟二人とも小学校や保育園のクラスで一等賞を取った事を話した。


「おにーさんはなにができるん?」


 下の男の子が言った。


「何だろうね。絵は君らほど得意じゃないよ。」と、浩司は言った。


「おにーさんは何のひとなん?」と、上の男の子が言った。


「お兄さんはね、今日亡くなったお爺さんの、孫だよ。孫ってわかるかい。」


 仕事を答えるのが恥ずかしかったので、浩司はそう話をすり替えた。


「うんとね、せいやはね、おばあちゃんの、まご!」


 上の男の子はそう答えた。浩司は、よく知ってるね、とその子を褒めた。


「死んだのは、お兄さんのお祖父ちゃん?」


 女の子がそう言った。浩司は、そうだよ、と言い、


「みんなのお祖父ちゃんお祖母ちゃんはまだ元気?」


「うん、元気。」


「げんきー!」


「そっか。それはよかったね。」


「お兄さん、悲しい?」


「……多分ね。」


「でもお兄ちゃん泣いてないよ。」


 上の女の子は何かを訴えるように、諭すように、口調を強くして言った。


「お祖父ちゃんが死んだら、悲しくないといけないんだよ。レイナね、もしお祖父ちゃんが死んだら悲しい?って聞かれてね、悲しくないって言ったらね、お祖父ちゃんそれは悲しい、って言ってたんだよ。」


「レイナそれでママからおこられたんだよ。」


「せいやうるさいー!」


 子供たちの言葉に、浩司は苦笑するしかなかった。この子達は果たして、どんな大人になるだろう。この子達は、大人たちから『そうあるべき』と言われた感情を、自然に、自発的なものとして感受するようになり、そして育っていくのだろうか。そして近い将来、自分の祖父や祖母が亡くなったとき、この子達はきっと自然に『悲しむ』だろうか。きっとそれが、世間一般でいうところの普遍的な、感受性を育てていくステップなのだろう。感情の在り方、名称、望ましい表しかたは、それが事前的にしろ事後的にしろ周りから型として与えられるが、感情それ自体はきっと内発的なものであるはずなのだ。あるいはその関係性は逆転して、周りからこう感じるべき、と言われたことに対し、心がそれに順応して様々な反作用を試みて、それが結果的に感情として認識されるのかもしれない。だが、大事なのはそうした内発的な心の作用を、自ら感じる事なのだ。例え将来、年をとり家庭や金銭とのしがらみが出来て素直に笑う事や泣くことができなくなったとしても、幼い頃に得たそういう経験が、人間性として確固たる柱になるのであろう。この子達にはそういう育ち方をしてもらいたい、と思った。


「そうだね……悲しまないと、お祖父ちゃん悲しむだろうね……。」


「怒るよ。お兄さん怒られるよ。」


「そうだね。……みんな、怒られるかもしれないね。」


 スーパーに到着し、子供たちにお菓子を選ばせ、それをレジに通し、帰り道をまた引き返しているときも、浩司の心にはずっとその言葉が引っかかっていた。お兄さん怒られるよ――今朝の真琴とのやり取りを思い出し、祖父との病院での思い出も思い出す。周りに、浩司を見る動物がいるのではないかと、期待とも恐れともつかぬ予感をこめて周りを見渡す。周囲にはそれらしい神聖な雰囲気をまとった動物はいなかった。斎場の前まで戻ってきても、周囲はおろか電線にとまるカラスや雀ひとつ見かける事はなかった。ただ、行きも見かけた老紳士が、同じところに立ち止まってじっと看板を見つめていた。


 浩司には、自分や、自分たちを叱りたい祖父の魂が、すぐそばにいるような気がしてならなかった。あるいは浩司自身がその事を望んでいた。浩司は、真琴が一週間抱えていた不安の意味をようやく理解できた気がした。




 浩司が子供たちを連れて斎場に戻ると、騒ぎが起きていた。二階の、参列者が昼食をとるために作られた大きな広間の外で、母と祖母が揉めていたのだ。広間の中では親族たちが用意された弁当を食べている時間であった。一応、その人たちの目に入らないようにと配慮しての廊下での口論であっただろうが、母の声の大きさからして中の人達にも言い争いが聞こえているのは必至であった。浩司はその時点で、もうこの場を去りたくなった。


「――そういう問題じゃないのよ、言ってるのは。なんで勝手にこういう事したんかって事なんよ。」


「そんな事言うたって……お客さんにええもん食べてもらいたいって思うのは当然でしょ……。」


「値段、3倍も違うんやで。」


「お金ならうちにあるから……。」


「そういう事じゃないんよ。喪主は純一さんやろ。なんで一言相談することもできんの!」


 浩司は咳払いをして、自分と子供たちが帰ってきたことを知らせた。母と祖母はこちらをちらりと見て、その瞬間だけ取ってつけたように声を潜めた。こんな事でもなければ自分の声量の調節すらできないのであれば、いっそ二人の喧嘩には常に子供の立ち合い人をつけてしまえばいいのではないか、と浩司は思ったが、すぐにその役割を押し付けられ続けてきた真琴の事を思い、考えを改めた。


 けんか?おばちゃんたちけんか?と、残酷にも母達の耳に入るようにも聞いてくる子供達の背中を、浩司は何も言わず優しく押した。


 広間に入ると、親族たちは素知らぬ顔で席について、既に弁当を開けたり、お茶だけ入れて会話の続きに花を咲かせていたりと、めいめいの過ごし方をしていた。浩司は子供たちを両親のもとに返すと、入り口の所で向かい合って難しい顔で立ち話をしている父と茂叔父の所に向かった。


「今度は何?」


 浩司がそう言うと、茂叔父は大きな声を出さない程度に大げさに、父はそれよりは控えめに小さく笑った。浩司が怪訝な顔をして二人を見ていると、茂叔父が言った。


「いや、第一声がそれとは、こうちゃんも中々毒されてきたって思ってな。なあ。」


「ほんとに、な。俺らと同じこと言ったよ。」


「……なんかやだなぁ。そういう染まり方。それで、どうしたん?」


「お祖母ちゃんが、頼んでた弁当を勝手に変えたって。秋水から亀の家に。」


 亀の家、というのは浩司の家の周りでは名の通った老舗の料亭であった。近所の冠婚葬祭の度にその名前を聞いており、地元への造詣の浅い浩司でも耳にこびり付いているくらいの店である。


「しかも亀の家の『松』だからな。そりゃ静江さん目の色変わるわ。」


「……何が違うの?」


「秋水はデパートにも店出してる、新しいそこそこの料理屋だろ。亀の家はもう、何年だ?とにかく俺らが子供のころから高級料理って言えば亀の家だったから。値段だと2倍くらいか?」


「1.8倍だ。」


 先程、母は値段の差を3倍と盛ってたはずだが、浩司はもうそれは自然なこととして受け止めていた。それに恐らくその程度は、祖母も分かったうえでやり合っているに違いなかった。


「どっちが美味しいの?」


 浩司は自然とそう聞いていた。どうしてこの話題に深入りしていくのか、その自覚もないままに、自然と聞いていた。


「秋水だ。亀の家は古い料理だし、昔から味が落ちてくばかりだ。」


 父は、周囲に聞こえないよう一層声をおとしてそう言った。恐らくそれが、父と母の共通見解であった。一方茂叔父は、嘲笑気味にふっと笑うと、横目で広間に並ぶ弁当とそれを食べる親族たちを見て言った。


「変わらんだろ。どっちも見た目だけ立派で食うとこなんか無いわ。田舎の金持ちが見栄張るための飯や。」


「でも秋水の方がマシじゃないか。」


「変わらんよ。飯なんて、美味いって言いながら食えば美味いし、不味くなるとこで食えばなんだって不味いわ。」


 三人は同時に扉の方を見た。先程より幾分声は落とされたが、扉の向こうでは未だ母と祖母が口論をしているのが気配で感じ取れた。父はその場を何処へとなく離れ、二人が言い争っているのとはなるべく離れた出入り口から出て行ってしまった。喪主として階下に仕事があるのだろうか、それとも単純にその場にいるのが耐えられなくなったからなのか、どちらにしても父は二人の喧嘩の事は、極めて私的な不仲の延長線上の出来事であり、他者が関与する余地のないもの、少なくともこの葬儀の核心からはかけ離れたもの、と見做しているように浩司には感じられた。


 だが浩司には、どうにもこの諍いをこれ以上看過することができなかった。それはもちろん、家内の不和に心を痛める無垢な優しさではなく、親族の前で身内の醜態を晒したくないという殊勝な孝行心でもなかった。ただ、浩司にはこの目の前の言い争いが、この葬儀の本質と無縁なものと思う事が出来なかったのであった。祖父を弔うはずのこの場で、長年に渡る母と祖母の確執が、時に祖父すらも渦中に置きながら繰り広げられ続けてきた暴言と独善の押し付け合いが、普段通りすぎるほどに行われているという事実が、なんだか祖父の旅立ちを冒涜するもののように思われた。


 浩司は扉を開け、母と祖母の方を見た。二人は相変わらず、ぐちぐち、ぐちぐちと説教とも嫌味ともつかないトーンで、お互いの持論を言い合っていた。浩司はすぐに扉を閉めると、二人の言葉の間に割り込むタイミングを計った。しかし二人の話はそもそも会話の体をなしておらず、その時点で割り込むタイミングなどそもそも存在しないことを悟った。


「ちょっと――。」


 二人は、ここに浩司が割り込んでくるのは予想外であったらしく、直ぐに話すのを止めて浩司の方を見た。


「ああ、こうちゃん……うるさかったねえ。ごめんねえ、何でもないから。」


「浩司。……愛子さん、もういい加減にしましょ。浩司もそう言いに来たんやし。」


 浩司には、未だ自分の事を前も後ろも分からず言いなりになる、無垢な孫として扱う祖母も、息をするように自分を取り込んで、己の正論を補強する道具とする母も、胃に重いものがもたれるように不快に感じた。愛情も思い入れもない祖父の葬儀の席で、亡くなった祖父の事などお構いなしに言い争う、全く共感のできない二人の間に立つと、浩司は自分がとてつもなく場違いな場所にいることが自覚させられ、その瞬間周りの全てが恐るべき悪意と冷徹に満ちた眼差しを自分に向けているような気がした。自分を見る母も祖母も、扉の向こうの茂叔父も、親族達も、場違いな自分を冷笑し試しているかのように感じられた。


 そうだ、自分には祖父に愛情も思い入れもない。懺悔もとうに祖父には届かない。この式で自分が与えられるのは、後悔と無力感に耐え忍ぶ罰の時間なのだ、と浩司は思った。口の中が乾いた。言おうと思ったはずの言葉はすっかりどこかへ飛び去って、頭の中が沸騰したようになった。生まれてからこちら口喧嘩すらまともに挑んだ事のない人間が、10秒以上喋り続けた事があるのかも怪しい人間が、正義感を昂らせて颯爽と現れて、社会や人々の矛盾を突き崩して事態に風穴を開けるような、そんな気高い人間になれるはずがないのだと知った。


「――やめなよ。そんなどうでもいいの。不味くなるのに。」


 そしてやっと出てきた言葉は、早口な上に言葉が上滑って飛躍した、意見の体を為さない呟きだった。こんな継ぎ接ぎのような散文的な言葉でさえ、喋りながらも浩司には自分の情けなさが耐えられなくなり、最後まで言い切ることができなかった。最早言い終わりは、何処ともない虚空に向かって、掻き消えるような曖昧さで発せられる、独り言未満の耳障りな生活音となっていた。それは、鼻を啜る音とか、放屁の音とか、吃逆の音と全く違いが無かった。その言葉は、浩司にとって嘔吐であった。


「……何。何が言いたいん。」


 母は、浩司にきつく詰め寄った。それは勿論、浩司が感じた心理的圧迫の度合いでしかなく、実際の母は至っていつも通りに聞き返していただけかもしれないが。その眼差し、声の大きさ、主張を正し本質を引きずり出そうとする暴力的な分析の圧力を感じただけで、浩司にとっては身に余るストレスであった。


「ごめん……でも、そういうことしてたら……余計、不味くなるんじゃないかって言いたくて……飯が。」


 浩司は、今度は何倍もの時間をかけ、自分が主張したかった事の凡そ全てを言い切った。その間、気持ちを落ち着けるために何度も床を見たり、バレない様に爪先で小さく足踏みをしたりした。母がそれだけの時間、浩司が言葉を言い切るのを待ち続けたというのは、普段の様子と比較すればそれだけで十分に浩司に敵意などないのだという事が分かりそうなものだが、そんな事にすらその時の浩司には気付く余裕が無かった。


 母も祖母も、それに対して暫く何も言わなかった。浩司は二人の表情すら見る余裕もなく、じっとその沈黙に耐え続けた。自分がとてつもなく矮小でみすぼらしい存在に思え、今までの人生――茫漠とした夢に身を任せ古本屋のバイトに甘んじる日々や、三流大学でだらだらと毎日を過ごした事や、目標も目的意識もないままに与えられた環境に寄生してきた昔のこと――が、全て全てこの日の伏線であったように思えて、全てをやり直したくなった。


「……うん。そうやな。あんたが正しい。この話はここまで。」


 母は突然そう言って、一階の方に歩いて行ってしまった。浩司はその背中を見て、ようやく自分がこの場を離れる権利があるという事に気付いて、母とは逆の方に早足で脇目もふらず歩き出した。茂叔父が扉の先のやり取りを聞いてか聞かずか出てきたが、目も合わせずにその場を歩き去った。微かに眩暈がし、全身が急に熱くなって汗をかいてきたように感じた。力のやり場を失った心臓が乱暴に早鐘を打ち、走り出したくなるような浮足立った感覚がぞわぞわと後を引いていた。


 浩司は母と異なる方に歩いて行った。そして母が一階に続く階段の方に歩いて行ったという事は、つまりは浩司が歩く廊下の先は行き止まりであった。


 少し角になって広間の表の入り口からは陰になっているその廊下の突き当りで、浩司は壁に背をもたれて大きく深呼吸をした。果たして、当初の目的自体は達成されたが、達成感も満足感もなく、ただただ自分への怒りと蔑みと、押し寄せてきた恐怖に押しつぶされそうであった。


 ――先程の醜態に、母はどれほど呆れているであろうか。祖母はどれほど怒っているだろうか。それに今の会話はどれだけ広間の中に聞こえていたのであろうか。親族達はあの醜態を嘲笑っているだろうか。


 そこで浩司は、結局自分がまた家族からの幻滅を恐れていることに気付いた。この家族の事が我慢ならないほど許せなくて行動したはずなのに、それすらも自分の子供じみた独りよがりに等しい行為であったように思われて、浩司は益々自分が嫌いになった。


 廊下の先では茂叔父と祖母が話していた。曲がり角を隔てて死角になっているとはいえ、声を遮るものが何もない距離だ。二人の会話はよく聞こえてきた。


「あんた、浩司に何か吹き込んだやろ。」


「ちょ、違いますよ。何でそうなるんですか。」


「あんた意外にあの子に妙な事吹き込むもんがあるか。ほんと碌でもない子だわ。」


「妙ってのはないでしょ。あんま聞こえんかったけど、浩司君が正論じゃ――。」


「やかましい。浩司はね、あんな子じゃないんよ。あんな意味わからんこと。あんたが、あんたのせいだろ。」


「そんな――。」


「あんたがそんなだから子も碌でもないんや。あんた浩司に近づくな。人の会社潰して、恩知らず。」


 そこでは背筋の凍るような言葉が矢継ぎ早に繰り出されていた。浩司は今朝見た出来事でさえも、祖母の恐ろしさの一角に過ぎなかったことを知った。祖母の淡々とした罵声は、絶え間なく、そして幾度か飛躍し、反論のために言葉尻を捉える余地もないように思えた。


「待ってや待ってや。今、うちの息子の事言ったか。うちのが何で話に出てくるんや。」


 そのとき聞こえてきた茂叔父の声は、別人のように剣のある厳しいものだった。


「何よあんた……。」


「俺の事はいいよ。会社ももういいわ。でもな、何で息子の話になるんや。意味わからんやろ。」


「意味もなにも、浩司とは出来が違うって話だったやろ。」


 祖母が反射的に言った反論はまたも論旨が大きく飛躍し、まともな会話の体を失っていた。それに対して茂叔父は、全く動じる事無く、冷静に、強い言葉で立ち向かっていた。これまで浩司が見てきた、鷹揚で機知を含んだ茂叔父の話し方とは、まるで別人のようであった。声だけ聞いてても、あの祖母が気圧されていることが分かった。


「言っとくけどな。浩司君も大概、碌でもないぞ。」


 茂叔父のその言葉を聞いたとき、浩司は一瞬自分の身体が宙を舞ったような気がした。


「いい年こいてふらっふらして、よう分らんぞ。うちのはちゃんと働いとるからな。どっちが碌でもないんや。」


 浩司はその場を離れなければいけない気がした。一刻も早く離れるべきだと思った。だが、浩司がいるのは廊下の行き止まりな上に、浩司自身がその言葉に、どうしようもなく聞き耳を立て続けてしまっていた。


「アホかあんた、浩司は――。」


「大学院とか研究者とか、よくあんなに言いふらせますね。端で見てられんわ。おっちゃんらも、気い遣って話合わせてくれてるの、分かりませんか。」


「知らん。浩司がそう言ったんよ、私は知らん。」


「ほんとかよ。ほんとだったら、あいつ、いよいよ碌でもないですね。……もういいですか?俺も自分や会社の事言われるのは慣れたんですけどね、ちょっと息子の事言われるのは黙ってられないって思ったんで。じゃあ色々、失礼しました。」


 茂叔父が吐き捨てるようにそう言ったのが聞こえた。


 浩司は、身体は落ち着いてもしばらくは頭の整理がついていなかった。だがどうやら自分は、茂叔父の言葉を借りるところの『気を遣われていた』人間らしいという事が、辛うじて理解できた。その事実を、他でもない茂叔父の口から、不意打ち的に突きつけられた事は確かに衝撃であった。だが一方で、そうした事実――自分がこの家系にとって腫れ物のようであり非常に扱いにくいものであるという事実――は、言われてしまえば自明のものと首肯させられた。そして、今まで見えなかったものがはっきりと見え、それを邪魔していたものが払拭され、浩司はもう今この場のことから遠い未来のことまでもが何もかもが面倒くさくなったように感じられ、一方でなんだか自分が、今までになく冷静に物事が見えるようになっていくような気がした。


 その時、何者かが浩司の隠れる廊下の角を曲がってきた。浩司が反射的にそちらを見ると、そこにいたのは果たして茂叔父であった。突然の事に叔父と目がばっちりと合ってしまった浩司は、何も言う事が出来ず茫然とその場に突っ立っていた。それは茂叔父にとっても同じであったらしく、まさかそこに浩司がいるとは思わなかったという顔で、固まっていた。


「なんだ……こっちに歩いていったから、俺はてっきり……。何だよお前……あんな血相して、行き止まりに歩いていってたのか。」


 それを聞いて浩司は、先程浩司が歩いていくのを見て、まさかこちらの廊下が行き止まりだとは思わず歩いてきたらしいということが分かった。


 浩司は、先程茂叔父の本音を盗み聞きしまった事よりも、自分が緊張のあまり取ってしまった間抜けな行動が明るみに出てしまった事が恥ずかしくなった。そして浩司は、映画の喜劇俳優がそうするかのように、手を頭の後ろに当て、陰とか邪心とか後ろめたさみたいなものを億尾にも出さない、照れた笑顔で会釈をした。




 それから浩司は、ほとんど誰ともすれ違う事なく斎場を抜け出し、散歩に出た。最早あの場所に自分がいても、これ以上何をできるでもなく、その精神的退屈が急に大きくなったように感じられた。浩司は自分が抜け出すのはあくまでそうした理由によるもので、決して居心地が悪くなったのではない、と自分に言い聞かせた。


 斎場を出て、本日二度目のスーパーに入り、そこで急に自分が空腹であることに気付いた。浩司は自分の分の弁当を食べ損ねていたのだ。斎場に戻れば自分の食事はよく冷えた状態で冷蔵庫の中に放置されているだろう、しかしただでさえ食べつけない食事をこれ以上不味く食べる気も起きず、浩司はスーパーで一番安いツナマヨのおにぎりを二個買って店の軒先で立ち食いした。浩司は、ここ数年暇つぶしのような生き方しかしてこなかったにもかかわらず、自分がこういう時の暇つぶしの方法に長けていないことを知った。こういう時、大義名分をもって外の空気を吸いに出れる喫煙者が羨ましかった。


 仕方なく浩司はまた斎場の方に戻ろうとした。その時、斎場の前に立って入り口の方をじっと見ている老紳士に気付いた。出かけるときは気付かなかったが、昼前に同じ場所で見かけた老紳士と同じ人に間違いなかった。見たところ相当な高齢のようだが、にもかかわらず何時間もずっと同じ場所で立ち続けているようだ。


 浩司は老紳士と目が合っていた。声をかけようとすると、僅かに老紳士の方が早く口を開いた。


「こちらのお宅の方ですか。」


「はい。」


「先程から、よく、通られますね。」


「……お気づきでしたか。」


「すみません。ですが、目に留まってしまいまして。」


「……私が、何かしましたでしょうか?」


「いいえ。ただ、目が離せなくて。失礼しました。」


 浩司はいきなりそんな話をしてくる老紳士が不可思議であった。そこでやはり浩司は、実は自分は過去にこの老紳士と面識があるのだろうかと思った。


「あの、失礼ですがお名前は……?」


「……二ノ宮と申します。」


 紳士は自然に帽子を取って、深く一礼した。その動きがあまりに流れるように品を纏っていたので、浩司はついあっけに取られて礼が遅れてしまった。同時に、『二ノ宮』という名前は、浩司が僅かに記憶しているどの親族の苗字にも一致しないような気がした。


「あの……失礼ですが、祖父とはどういったご関係でしょうか?」


「祖父?……では、少尉殿の、お孫さんで?」


「え?」


「失礼。私は、二ノ宮慎平と申します。……戦争中、田宮李一様に大変お世話になった者です。」


「ああ――そうなんですね。」


「この度のご訃報を聞いて、どうしても、ご挨拶に伺わなくてはと思いまして。」


 紳士――二ノ宮は、もう一度深々とお辞儀をした。浩司は、親族とも会社の社員とも違う、祖父の知り合いを見たのが初めてであった。二ノ宮は、祖父に『お世話になった』と言った。先程、少尉殿、とも言っていたことからも、恐らく戦地で共に戦った戦友、と言ったところだろうか。浩司は家族が、一貫して祖父を『体が不自由になった老人』として扱うのを見てきたし、浩司にとっても祖父はそういうものであった。故に祖父にも、五体が健勝な、若々しい時代があったというのは、頭では理解していても実感が沸かない異世界の事のような事実であり、従って目の前の二ノ宮も、そうした異世界からやってきた来訪者のように思えていた。


 俄に、誰も気づかないところで止まっていた時計が、また動き出したような気がした。異世界の老人は、なおも恭しく、慈しむような眼で浩司を見ていた。


「そうですか……貴方が……確かに面影を感じます。」


「そうでしょうか……どうぞ中へ。」


 浩司は、二ノ宮を斎場の中に案内した。二ノ宮はまだ田宮家の人と会う事に悩んでいるように見えたが、祖父の遺影を見ると吸い寄せられるようにその前に進み出て、深く一礼をした。浩司は、近くにいた親戚に二階から両親と祖母を呼んでくれるよう頼んだ。


 間もなく祖母が、その後から母と、何故か茂叔父が二回から降りてきた。


「まぁ……まぁ、二ノ宮さん!」


「奥様、大変ご無沙汰しております。この度はお悔やみ申し上げます。」


「まぁ……お変わりなく……。」


「いいえ。この通り、後は少尉殿を追うだけの有様です。」


「まあご謙遜を、こんなにお若くて……お変わりないのに。まあ、あの人も喜びますわ。」


 祖母は、異様なほど熱く、二ノ宮を歓待した。その熱のこもり方と、二ノ宮の手を取る祖母の姿を見て、浩司はふと昨夜母から聞かされた噂を思い出し、一抹の嫌な予感が脳裏をかすめた。


『お祖母ちゃんはね、他所に好きな人がいてたみたい。』


 浩司は、母ならこの老人のことを知っているかと思い、そちらを見た。それに対して母は、多くは知らない、もしくは知りたくない、とでも言うような、むすっとした目で祖母の態度を見ていた。


「でも、どうして今日の事をご存知に?」と、祖母は二ノ宮に尋ねた。


 その時、後ろの方で大きな咳払いの音がしたかと思うと、茂叔父が前に進み出た。


「あー、二ノ宮さん、ご連絡差し上げた、田宮茂です。一応、『南洋装具』の、今の社長をしております。」


「これはこれは……この度はご丁寧に、ありがとうございました。」


「いいえ。こうしてお会いできて、光栄です。」


 二ノ宮と茂叔父は、畏まった態度でお辞儀をしていた。


「茂っ……この子は、また勝手な……。」


「そうです、俺が呼びました。会社の書類を整理してた時に、二ノ宮さんの事を知って。こういう時に、共同出資者に連絡するのは社長として当然だろう。」


 茂叔父のその言葉を聞いて、浩司は昨日、会社の工場で交わした会話を思い出した。茂叔父は、『二ノ宮』という人を知っているかと浩司に尋ねた。浩司がその名を祖母に伝えると、知らない、と祖母は素っ気ない返事をしていた。それは、今こうして熱烈に二ノ宮を歓迎する祖母の様子とは、どう考えても矛盾するものだった。


 茂叔父は、今度は浩司と母の方を向いて言った。


「この方はな、二ノ宮慎平さんって言って、李一さんが『南装』を興すとき、莫大な援助をしてくれた凄い方なんよ。もう、当時としては破格の額をよ。何の見返りもなく、どん、と助けてくれた偉い方よ。」


 二ノ宮は困ったような微笑をたたえて、何も言わずにただそこに立っていた。


「お金の話は、やめい。この、卑しい子……。」


「何がや。会社にとって、大事な事でしょうがよ。」


「そうやけど、お客さんの前でいきなり。わざわざ遠いところ来てくださったのに……。二ノ宮さん、お疲れではありません?」


 祖母の声色と態度は、やはり二ノ宮が視界に入るとコロリと変わっていた。


「静江さん、まだ上の方にお弁当、残ってたわよね。そちらに、いや、お弁当の方を、そこの床の間に持ってきて。静かなところが、いいですよね。」


「いいえ、私はそんな……どうぞお構いなく。」


 恐縮する二ノ宮を他所に、祖母は今日一日で最もテキパキとした様子で、母に指示を下していた。その整然さと有無を言わさぬ説得力には、母も何も言わず従うしかなかったようだ。浩司はその祖母の様子に、流石は腐っても元社長夫人だ、と感心した。


「やっぱり、いいお弁当にして正解だったわね。」


 祖母がそう言うと、母の顔色がサッと変わったような気がしたが、それを確かめる前に母はもう二回へと消えてしまっていた。




 祖母は二ノ宮を、一階の廊下の奥に、離れのようにひっそりと誂えられた床の間に通した。誰も近くを通りかからない畳の間はひっそりと静まり返り、感じられる音といえば二階の喧騒がずっと遠くの事のように僅かに天井を介して伝わってくる程度であった。あとはひたすら静寂と、人の立ち入らない埃とカビの臭いが仄かに香る空間であった。


 間もなく母が弁当を持ってきた。祖母は、いつの間に持ってきたのか急須にお湯を注いでいた。茂叔父は、「あまり人に見られてはお食事もしにくいでしょうし、私は後程。」と言って、直ぐに席を立って出て行った。それがきっかけになったかは定かではないが、次に用の済んだ母が出ていき、自然に浩司も席を立つ流れになった。床の間の扉を閉めるときにチラリと祖母と二ノ宮の方を見ると、祖母は恭しく湯飲みに茶を注いでいた。その様子は、まるで長旅から帰った殿様を労う奥方のようであった。


 床の間を出ると、浩司は直ぐに母を捕まえて聞いた。


「あの人知ってる?」


「いや。知らない。」


「昨日の晩の話だけど……。」


「やめなさい。」


 母がそう言った事で、浩司はそれ以上の質問ができなくなった。そもそも、母が二ノ宮の事や祖母の昔の恋の詳細を知らないというのなら、これ以上母に詮索する意味もない。なにより浩司は、自分の二十余年の乏しい経験を動員してまで、祖母の態度を考察したくはなかった。


「……父さんは?」


「上でみんなの相手。降りるって言うてたけど、茂くんが自分が行くって言うて。」


 浩司は壁の時計を見た。時刻は午後一時三六分――お坊さんがお経を上げに来るのが夕方六時頃と聞いたから、残り約四時間だ。浩司は、葬式の日の親戚というものはどうしてすることもないのに無駄に早く集まるのだろう、と思った。だが、それは手伝える事もないのに前日から帰省し、今もこうして油を売っている自分にも当てはまることだと気付いた。


「……通夜なのに、誰もお祖父ちゃんの写真を見に来んね。」と、浩司は遺影を見て呟いた。


「二階で弁当食べて、お祖父ちゃんは喜ぶんかな。」


「浩司。あの人らはね、弁当食べて、お酒飲んで、昔話をしとんのよ。写真の前でお経上げるのだけが葬式じゃないんよ。」


 母はそう言った。その横顔は、自分が今まで経験した葬儀と、送り出してきた沢山の人を思い浮かべているかのようだった。浩司は、母はこの辺りの年配者みんなと仲良しだ、と茂叔父が言っていたのを思い出した。生まれてくる人間より旅立つ者の方が多い埼玉の田舎で、恐らく母は、浩司が知らない間も常に誰かを送り出す側の人間だったのだろうと感じた。


 二階の大広間で、また一際大きな笑い声が響いた。遺影も焼香もない場所で、彼らにとっての『儀式』は恙なく執り行われているのだろうか。そう思うと、祖父の遺影の前の空間だけでなく、二階の大広間も、この斎場全体が死者を送り出すための聖域であるように思えた。


 だが……だとすると、廊下の奥の床の間で行われている、『儀式』の意味は、何なのだろう。


 その時、茂叔父が二階から降りてきた。叔父は小脇にセカンドバッグを抱えていた。


「静江さん、浩司君……すまんね、迷惑かけて。」


 浩司は茂叔父が自分を『浩司君』呼びしたことに、些かの驚きとショックを感じた。


「あの人……茂君が呼んだんやろ。」


「うん。そうです。」


「何のつもりなん。」


「その言い方は酷いなぁ……爺さんの昔の盟友に、訃報知らせんのがそんなに変ですか。」


「そうやけど……。おかしくない?そんな人なのに、私もあの人も、二ノ宮って人の事聞いたこともなかったんよ。何でそんな人が、数十年も音沙汰無しなん。どういう人なん?愛子さんもあんなやし――。」


「いや、婆さんの事は俺も知らんかったんよ。あれは、なんというか、うん、すみません……。」


「浩司はともかく、真琴にあんなん見せられんわ。」


「そんな、俺だって結構ショックだよ。」


 浩司が口をはさむと二人とも、いたの?とでも言いたげな顔でこちらを見た。どこまでも失礼な人たちだ、と浩司は腹立たしく思った。


「――とにかく、何考えてるか知らんけど、うちの家は巻き込まんでよ。真琴ももうすぐ受験なんやから。」


「はいはい、分かってますよ。」


 茂叔父はそう言ってそそくさと母から離れると、参列者席の端の方に座ってセカンドバッグの中を漁り、何やら古いノートを捲りはじめた。浩司はその様子を見て、ある確信を抱いた。そして恐る恐る茂叔父のところに行き、母に聞こえないような声の大きさで話しかけた。


「叔父さん。」


「ああ、浩司……か。さっきは……いや、なんでもないわ。」


「……二ノ宮さんの事なんですけど。呼んだのは、会社のため、ですか?」


「ああ。そうよ。」


 やはり、と浩司は思った。茂叔父が捲っていたのは、恐らくは南洋装具の、古い会計帖だった。膝の上にノートを広げ、電卓を叩く叔父がこちらを見上げる事は無かった。


「さっきは共同出資者って言ったけどな。実際は会社立ち上げた頃の会計は、結構な額があの人からの送金で回ってたんよ。あの貧乏な時代に何処からそんな金が出てきたんかは分からんけど。」


「二ノ宮さんを呼んだのは、やっぱり……。」


「そう、融資の相談。」


 茂叔父は、後ろめたいことなど全くないような、事もなげな調子であっさりと答えた。


「軽蔑するか?爺さんの葬式で、爺さんの恩人呼んで、金の相談。」


「いや……。」


「そうか。ありがとな。」


 茂叔父との会話はそこで終わった。浩司は、あんなに饒舌であった茂叔父の沈黙が悲しかった。無心に電卓を叩く叔父の、自分には守るべきものがある、と物語っているような背中が、浩司と茂叔父が背負った責任の違いを見せつけているような気がして、より一層叔父が遠い世界の存在に思えた。




 浩司は茂叔父との間の沈黙に気不味さを感じながらも、同時に湧き上がる二ノ宮への好奇心を抑えきれず、二ノ宮に話しかける機会を陰ながら窺った。結果的にそれは、二人が一切の会話を交わさぬまま、一緒の物陰から奥の畳の間を見張るという奇妙な状況となった。


 しばらくして、祖母が襖を開け、空になったと思われる弁当箱を持って出てきた。浩司と茂叔父は、祖母の目を盗むようにして部屋に上がった。ちゃぶ台の前では、二ノ宮が背筋を伸ばした姿勢で、食後の茶をいただいていた。


「これはこれは……お孫様と、社長さん。えっと……茂さん、でしたね。」


「はい。食後のお休みのところ失礼します。あ、こっちは田宮浩司と言います。」


 浩司は自ら名乗るのを忘れていたのに気付き、会釈した。


「茂さんは、李一様のご子息でいらっしゃいますか?」


「いいえ、李一さんの息子は、今上の階で喪主の務めをしております、田宮純一です。私は、李一さんの弟の、田宮寛二の息子です。言ってしまえば、李一さんの甥です。」


 傍目に聞いていても複雑な家系図だと浩司は感じたが、二ノ宮はその説明だけで得心したようにうんうんと頷いた。


「そうですか、寛二君の……ご立派なご子息を持たれて。」


「父をご存じなのですか?」


「はい。李一さんとは軍隊で知り合いましたが、帰国後もしばらく行動を共にさせていただきました。その折に、岩槻の……李一さんのご実家にも厄介になったことがありまして、その時に。」


 浩司は、祖母が二ノ宮にゾッコンになったのはその時だろうと感じた。今までの話によると、二ノ宮は会社への援助以来はほとんど田宮家との親交を絶っていたように思われたからだ。


「なるほど、そのような事が……弊社の立ち上げの時に、大変なご支援をいただいたものと知っておりましたので、てっきりさぞご裕福な方だと。」


「いいえ……私達みんな無一文で帰ってきて、そこから立ち上がっていきました。とにかく、混沌とした時期でしたから。お金を生み出す方法も、倫理も破綻してて、恥さえ捨てれば何とでもなったものです。」


 二ノ宮は相変わらず柔和な口調を変えなかったが、少し遠くを見るような目は、決して人には言えない事、もしくは言う事の出来ない事を秘めた、悲しみを宿しているかのようだった。


 その時、二ノ宮が浩司を見た。浩司はずっと見つめていたのがバレたような気がして、気恥ずかしさでつい目を逸らしてしまった。


「浩司君、李一さんは、お祖父さんはどんな方でしたか。」


 その問いに浩司は答えに窮した。祖父の事など、小さい頃から碌に話も通じないような状態だったので分かるわけもない。そもそも、祖父に会った回数さえ二桁を数えるか怪しいものだ。祖父について尋ねたいのは、むしろ浩司の方だった。


 茂叔父が、そんな浩司の気持ちに気付いたのか助け舟を出した。


「実は、李一さんはずっと前に身体を不自由にしまして……こいつが生まれたぐらいから、ずっと施設で介助を受けて暮らしておられたんですよ……。」


「なんと……それは何年前の事でしょうか。」


「施設に入ったのは、ここ二十数年です。麻痺が酷くなったのは……私も小さかった頃なので、もう五十年以上は前になるでしょうか……。」


 二ノ宮は、深い衝撃を受けたように長く息をついた。湯飲みを持っていた手は今は机の上に置かれ、骨ばった握りこぶしをじっと見つめていた。


「そうですか……私と別れてから、たった十数年で……。」


「そう……なりますかね。ですが、その短い間に会社を何倍もの大きさに広げました。素晴らしい方です。」


「そうですね。南洋装具の方は、今は?」


「今……はあ。今、ですよね。今は……少々、厳しい感じです。」


 茂叔父は狼狽のため、急にしどろもどろになって口調も素が混じっていた。その原因は、めいっぱい祖父の李一を持ち上げた後に、自分の代での体たらくを告白しなければいけなくなったためであろうか。それとも、予定よりも早く会社の経営状態と融資の話を切り出す流れになりそうなためであろうか。浩司は、茂叔父がいつ、どのようにして言い難いお願いを切り出すのか、固唾を飲んで見守っていた。


「職人もいなくなって……昔は大阪まで広がってた販路も閉じて、今は地元への手売りで精一杯な状況です。」


「そうですか……。確かに最近は、めっきりお名前を聞かなくなったとは思っておりました。」


「はい……そうですね、最近はもう……てんで売れず……。」


 茂叔父の言葉は目に見えて力を失っていった。浩司は、なぜ茂叔父がここまでの責任を感じなければならないのか、理解はしていてもなんだか気の毒なように思えてきたのだった。


「あの、横からすみません。祖父は、どうやって会社を大きくしたんでしょうか。もちろん二ノ宮さんのご支援もあったと思うのですか。」


 浩司が聞くと、二ノ宮はまたしても大きく頷いた。


「そうですね……私などは、お金を出すだけ出して去った身なので、偉そうなことは言えませんが……。会社を立ち上げた頃の李一さんのご様子から、想像はつきます。」


「それは……どういった様子だったのでしょうか。」


 浩司は、祖父のことを尋ねるチャンスは今だ、と直感した。


「――二ノ宮さんから見て、祖父はどのような人でしたか。」


 二ノ宮はじっと沈黙していた。どれくらいの間、その沈黙を守っていたのかは分からない。ただ浩司には、それは何かを思い出していると言うよりも、言うべきか、言わざるべきかという事について、自分の中で何人もの自分、あるいは他者の声を聞いて、決断を吟味している時間のように思われた。


 長い沈黙の後、二ノ宮は口を開いた。


「あの……この後お坊さんがお経を上げに来るのは、いつ頃でしょうか。」


「は?……確か、六時頃かと。」


「あと、五時間程ですか。……ここから会社までは、どれくらいかかるでしょうか?」


「はい?まあ、市内ではあるので、車で三十分ほど……。」


「……今から連れて行ってはいただけないでしょうか。」


 二ノ宮は、じっと茂叔父を見て言った。静けさの中にも、何か大きな決断をしたような有無を言わせぬ力強さがあった。浩司は、二ノ宮を会社に連れて行きたいと思った。そうしないと、この紳士は過去を話すための納得をしてくれないような気がした。頼み込むような気持で、浩司も茂叔父を見た。


「はぁ……いや、私は一向にいいのですが……婆さんや純一が何て言うかな……。」


「上には俺が話してきます。うちの親は、今忙しいし好きにさせてくれるはずです。祖母は……どうでしょうとにかく行ってきます。」


 浩司は、茂叔父の返事を聞く前に部屋を出ていた。




 二ノ宮を会社に連れて行くという話は、すぐに両親の了承を得た。というよりも両親は、葬儀会社や親戚達とお坊さんが来てからの段取りや、参列の順序、記帳台の設置の話で忙しく、こちらを構う余裕もないようであった。祖母の方は、流石に難色を示した。裏で茂叔父が糸を引いているのは明らかであったからであろう。だが、二ノ宮のたっての希望であると念押ししたところ、不承不承ではあるが了承したようだ。祖母は、それならば自分も行く、と言い張ったが、それを制止したのは母であった。母は小さく、「いつもいらん口ばっか出す癖に。」と祖母の神経を逆撫でする一言を付け加えた。それで気分を害したらしく、祖母は憮然としてそれ以上何かを追求する事もなくなった。


 浩司と茂叔父、二ノ宮の三人は茂叔父の車で斎場から四十分程度のところにある会社を目指した。所々塗装が剥げた灰色の軽ワゴンの助手席で、浩司は街の中央部から実家の方角へ、田舎町に変わっていく風景を見ていた。車の中には栄養ドリンクの瓶や煙草の吸殻が散らばって、何とも言えぬ据えた臭いに満ちていた。


「――浩司さんは、今お幾つですか。」


 車が実家の近くの大きな坂を通り過ぎたぐらいに、二ノ宮がそう尋ねた。


「二五です。」


「そうですか……帰国した頃の李一様も、そのぐらいの年齢でした。私はそれより、四つ下でした。お仕事は、何を?」


「はぁ……一応、書店店員を。」


 浩司は、ここで無職と答えるのはそれはそれで事実に反するし、わざわざ大学院浪人であることを伝える必要もない気がしたので、端的にそう答えた。


「……そう言えば、今更こんな事を聞くのも申し訳ないのですが、二ノ宮さんは普段は何をされてる方で?」


「定年前は福島の方で、食品加工業に従事してました。今は年金と、あと、少々土地を持っておりますので、そちらの収入も。」


「そうですか。大きな会社だったんですか?」


「いえいえ。よくある港町の殻剥きの会社ですよ。そこのしがない、一社員です。」


 浩司は、茂叔父が自分のために話を変えてくれた訳ではないことに気付いた。茂叔父は恐らく、二ノ宮の金銭的な状況を測ろうとしているのだ。果たして、会社への融資が見込めるのかどうか、見定めるために。浩司は自分でも分かるような露骨なカマかけに、二ノ宮が気分を害しはしないかと不安になり、振り向くことなく後ろの様子に神経を研ぎ澄ませた。だが、二ノ宮には少しも変わった様子はなく、ただ泰然と、車窓からの景色に思いを馳せているようであった。二ノ宮はかつて訪れた岩槻の風景との変わり様に思いを馳せているのであろうか。戦後、二ノ宮が訪れた頃の岩槻はどのような有様だったのか、家はどの程度あったのか、空襲の被害はあったのか、浩司は何も知らなかった。


 やがて車は、昨日も訪れた池と山影の間にある会社の工場に辿り着いた。辺りは今日も静かで、山で日陰になっている会社の辺りには、時折冷たい風が吹きつけた。茂叔父は、閉ざされたシャッターの方でなく、その近くの観音開きのガラス戸の鍵をガチャガチャと触っていた。昨日は気付かなかったが、どうやらそちらが会社の正式な玄関口らしかった。


 玄関を開けると、受付と会社らしい事務机が幾つか並んでいた。どれもここ最近は使われていないようで、茂叔父はガタガタと鳴る床を踏みつけて奥の扉を開け、電気をつけた。そこは革張りの椅子を並べた応接室だった。


 二ノ宮は、壁のある一点に目を留めた。そこには、実家の母屋に掛けられ、遺影に使われたのとも同じ、若い頃の祖父と従業員達を写した写真があった。


「懐かしい……まだ、一緒にいた頃の面影がある。李一様が三十代頃のお写真では。」


「どうでしょう、日付は……昭和三六年とあります。それくらいのようですね。」


「あの頃より表情が柔らかくなられたが……じっと見ていると、背筋が伸びる思いです。」


 そういう二ノ宮は、確かに姿勢を正していた。浩司は、二ノ宮が戦争映画で戦友の亡骸や遺影と対面したときのように敬礼をするかと思ったが、二ノ宮はただじっと、写真の中の祖父を見つめるばかりであった。


「李一様のご病気は……この何年後に発症したのでしょうか。」


「いえ、正確には病気が酷くなったのが五十年程前ってだけで……麻痺自体は、この頃もずっと持っていたそうです。」


「では、私といたときも表に出さないだけで身体に異常があったのかもしれませんね……。」


「戦争の後遺症と伺っておりますので、その可能性もあるかと。」


「……少しも気づかなかった。」


 浩司は、会社の事務室の方を見た。机の上には、様々な苗字の刻印された印鑑や、固定電話や電話帳がそのままになっている。浩司は徐に、日付を押印するためのダイヤル仕掛けのスタンプを手に取った。じっと見ていると、小さい頃この場所で、このスタンプを手に取った記憶があるような気がする。その時は確かに、祖母がまだこの会社に勤めていたはずだった。小学校終わりに、お菓子目当てで工場に通っていたような気がした。記憶の中では、工場の中に池があり、小さい自分はそれを大層珍しがっていたような気がするが、当然そんな池は無い。子供頃の印象や記憶と言うのは全くあてにならないものだ、と浩司は思った。


 二ノ宮は、まるで勝手知ったる我が家かのように、会社の奥へ奥へと入っていった。二ノ宮が迷いなく辿り着き、開けた扉の中は工具や木材をしまってある倉庫だった。ほとんど土間のような造りで、埃と土埃の酷い臭いがした。


「復員後、帰る所のなくなった私は、李一様に誘われて二人してこの岩槻に辿り着きました。ここはもともとご実家の倉庫で、私はここに居候していたものです。」


「実家……ここが?」


 浩司は、この会社が祖父の実家だったなんて初めて知った。ずっと、実家の母屋が祖父の実家だと思っていたのだ。


「恐らく、今お住まいなのは奥様……柴田家のご実家ですね。田宮家の元々の家はここ、それも昔はこんなに大きくはありませんでした。せいぜいこの半分くらいで。……昔の面影は、ほとんどありません。」


「会社を興すにあたって、建て替えたという事でしょうかね。」


「さあ……元々この家に残っていたのは、李一様のお母様ぐらいなものでしたから。私もやがて岩槻を去りましたので、その後の事は知らないのです。」


「その頃、父……寛二は何処に?」


「さあ……結納の日にはお会いしましたが、普段はお見掛けしませんでしたな。」


 浩司は、恐らく聞くまでもない、しかし先程からどうしても頭に引っかかっていた質問をした。


「二ノ宮さん。……帰る所の無くなった、というのはどういう意味でしょうか。」


「……私の家は東京でした。復員後真っ先に尋ねましたが、家は跡形もなく、家族の行方もようと知れず。」


「……すみません。」


「いいえ、あの頃はよくある事です。……李一様には、闇市に行くがてら何度も家族の消息を尋ねるのを手伝っていただきました。ですが結局今日まで、天涯孤独です。」


 二ノ宮の戦後すぐの思い出は、いつも祖父が共にいるようだった。




 それから二ノ宮は、裏の山の方も見たいと言った。浩司と茂叔父は、流石に危ないから、と止めたが、二ノ宮は「すこし足を踏み入れるだけですから」と行ってしまった。浩司が後を追おうとすると、茂叔父が後ろから浩司の肩を掴んだ。


「なあ……どう思う。」


「え、どうって……なんですか。」


「二ノ宮さんの事よ。色々変じゃないか。」


「知らないっすよ……第一、呼んだのは叔父さんじゃないですか。」


「俺だってどんな人かなんて知らなかったんだから。」


 浩司は、よくそんな人に融資を頼もうと思ったな、と感じたが、それはそれ程に会社の経営が切迫しているという事かもしれないと思った。そもそも、経営という概念が成り立っているのかさえ、昨日と今日で目の当たりにした会社の在り様を思えば怪しいところであった。


「変って、何が変なんですか。」


「まずさ、仕事だよ。会社の立ち上げに巨額の金をポンと出してくれる人が、福島の港町で蟹の殻剥きしてたってんだぜ。しかも会社の御曹司とかじゃなく、平社員で。おかしくないか。」


 果たして二ノ宮が『蟹の殻剥き』とか『平社員』と言っていたかは怪しいが、言われてみればそうだと思った。


「ところで、二ノ宮さんが会社にくれたお金って、具体的に幾らなんですか。」


「十万円。」


「じゅう……え……!?」


 浩司の曖昧な知識でも、戦後の十万円というのが大変な金額であることは理解できた。一般的な『戦後の一円=現代の百円』理論で、現代の一千万円に相当するであろうか。会社を興すために幾らの資金が必要になるかは分からないが、こんな片田舎のあばら家から始まった会社に、個人が一千万円をぽんと投資するというのは確かに只事ではないと感じた。


「それだけじゃない。さっき、実家は東京で跡形もなくなったって言ってたけどさ、じゃあなんであの人福島に行ったんだ。しかも土地まで持ってる。」


「身寄りとかあったんじゃ……あ、天涯孤独か。」


 茂叔父は、その通り、とでも言いたげに浩司を指さした。浩司は、二ノ宮の身の上が疑われるという事はあまり茂叔父にとっていい話ではないはずなのに、どうにも茂叔父の目や口調が活き活きしている気がした。


「どう思う。なあ、どう思うよ。」


 浩司は、曖昧に微笑んで目を泳がせた。そして、ずっと昔に見た事のあるような気のする会社の内装を見ていた。茂叔父が気にしている事、即ち二ノ宮の素性とか、金の出処に、浩司は全く興味が無かった。仮に二ノ宮が大きな秘密を抱えているとしても、それは二ノ宮、そして祖父にとっても、真に重要な問題であるとはどうしても思えなかった。


 浩司が本当に二ノ宮に尋ねたいのは『どうやって』祖父の会社を支援したのかという事よりも、二ノ宮から見て祖父がどんな人間で、『どうして』祖父がこの会社を興したのかという事だった。それを知る事で、身体の自由を失い長い施設暮らしの後に孤独に死んでいった祖父の、人生の意味に近付けるような気がしていた。


 二ノ宮は程なくして帰ってきた。息も上がっておらず落ち着いた様子だが、視線を落とした様子からは何やら物思いに耽っているように思われた。


「二ノ宮さん、大丈夫でしたか?どのくらい奥の方まで?」


「いいえ、すぐそこです。山のすぐ入り口に、思い入れのある場所が。」


 茂叔父の白々しい気遣いを辞するように、二ノ宮は助けを借りずに「よっこいしょ」と事務椅子の内の一つに腰かけた。それは、どういう訳か浩司の目の前であった。


「さて……社長さん。先程も申し上げた通り、私は福島の方に幾つか土地を持っています。」


「はい。」


 浩司は、茂叔父の背筋が伸びるのを気配で感じた。


「どれも実りの多い土地とは言えませんが、全て売り払えば纏まった金額にはなるでしょう。……実は、ご迷惑かもしれませんが、私はこの土地を、南洋装具にお譲りしたいと思っているのです。」


「えっ――。」と茂叔父は絶句した。その後、「いえ、そんな、迷惑だなんてとんでもないことで。でもまさか、いやむしろ、願ってもやまないありがたいお話で、え、本当ですか。」と、自分の言葉の中で疑いと信用が二転三転させた。


「ただ、その前に聞いていただきたいお話があります。李一様から、いつかこの話を家族の誰かに伝えるよう頼まれていました。……南装の立ち上げにかかわる話です。」


 狼狽する茂叔父に、二ノ宮はそう言った。その声、佇まい、眼差しには少しの揺らぎもなく、張り付いた水面を見ているかのように静かだった。その様子に茂叔父は、内心はどうであれ二ノ宮の話を聞くための落ち着きを取り戻した。浩司もまた、二ノ宮の尋常ならざる様子に、呼吸を忘れるような緊張感を覚えた。両親も祖母も与り知らぬところで、自分と茂叔父だけに、大変な秘密が打ち明けられようとしている、そんな予感に内心焦りと葛藤を覚えた。そして二ノ宮が祖父の過去を語る場所として、多くの親族や花束に見守られた温かい斎場ではなく、この悲しくなるくらいに静かで寒々しい寂れた会社を選んだ意図を疑った。


「浩司君。」


「はい。」


「さっき、田宮少尉殿がどういう方だったか、という事を聞かれましたね。」


 浩司は沈黙のうちに首肯した。


「……頼もしい人でした。頼もしくて、我々に対しても面倒見が良くて、率先して難しい役目にも当たる、尊敬できる、素晴らしい上官でした。」


 だがその後に二ノ宮は、しかし、と言った。


「しかし……これは決して、あの方の死後を貶めようとしている訳ではない、むしろあの方との約束があるからこそ言うのだが。……私も今やっと、その決心がついたのだが……。」と前置きした後に、「……とても、恐ろしい人でありました。」と言った。




 二ノ宮はまず、祖父・田宮李一との出会いから語り始めた。二人は大戦中、東南アジアに駐留した日本軍の、同じ部隊に所属していた。士官学校出の田宮李一は陸軍少尉、二ノ宮慎平は二等兵であった。部隊はマレー、シンガポール、ビルマ(ミャンマー)を転戦した。


「昭和一八年頃から先は、来る日も来る日も戦闘が絶えませんでした。どこに移動しても、敵が追いかけてくるような気がしました。戦闘、食糧不足、マラリアの拡大――泥水や密林でボロボロになった兵達を奮い立たせるのは、下士官の仕事です。ですが田宮少尉は、士官でありながらも兵卒に親身な方でした。文字通り、共に泥水を啜ってくれました。」


 同時に田宮李一は、通常であれば士官が直接は手を下したがらない汚れ仕事――物資の現地調達、即ち略奪や強盗といった行為――も、躊躇なく行う人であった。常に兵と行動や思考を共にする気風は、田宮李一からそういった行為への倫理的抵抗感を奪っていった。現地住民や敵の捕虜からは勿論の事、時には行き違った同じ陸軍の他部隊からも物資を調達し、二ノ宮ら兵の腹を満たした。


「今となっては許されない事ですが、当時はそうした行為が……共に、略奪に手を染めるという行為が、結果的に私達のような兵卒と、田宮少尉の結束を強固にしたのです。私が少尉殿と深い親交を持つようになったのも、共にその行為に手を染めているときでした。とにかくそうして、私達は少尉殿により深い信頼を抱き、少尉殿も日に日に困窮する状況に背中を押されてより苛烈な行動を行うようになった。」そして二ノ宮は、「戦後、戦犯として摘発されなかったのは奇跡でした。」と、付け加えた。


 そんな果てしなく続くように思えた、戦闘と略奪にも終わりがやってきた。終戦を迎え、田宮李一らは英国の捕虜となった。田宮李一の部下は戦いや病、飢えのために三分の一以下に数を減らしていたが、今なお結束は固く、部隊が行ってきた数々の残虐行為について告発を行う者はいなかった。その甲斐もあってか田宮李一は、二ノ宮らとともに戦後復員を果たした。


「私と少尉殿は同じ復員船で舞鶴港に帰国しました。そして、ボロボロの復員兵ですし詰めになった列車で、東京に。私はそこで、東京の惨状を知りました。茫然とする私に、少尉殿は……『一緒に岩槻に来い』、と。そして私は、この家に来ました。」


 二ノ宮はそこで、ふう、と一つ息をついた。戦争中の事について二ノ宮は多くを語らなかったが、その記憶が過酷で辛いものであることは浩司ですら容易に想像ができた。二ノ宮は回想の中で、浩司が感じた時間よりもはるかに長い時間を体感していたのだろう。


 二ノ宮は、懐から一枚の写真を取り出した。セピアかかった白黒写真で、紙の端が千切れかけたり折り目がついたりした、非常に古い写真であった。


「私達が岩槻に着いた頃の写真です。少尉殿が学生時代に嗜んでいたカメラで撮ってもらいました。」


 浩司には、祖父にカメラの趣味があったことも初耳であった。写真の中には、背が高く目つきが鋭いが満面の笑みを浮かべた男が一人と、痩せぎすだが肩幅だけが広く柔和な笑みを浮かべた男が一人、そして二人の間に挟まれて、両足を包帯で多い顔の半分にも白いガーゼのようなものを張り付けた男が一人写っていた。写真の中の包帯だらけの男は、あとの二人と同じように笑っているようだが、顔の半分が隠れているためかその表情は笑顔というよりも泣き顔に近いように見えた。


「……あれ。これ、そこのお地蔵のとこじゃないか。」


 茂叔父がそう言って指さした背景には、小さな地蔵堂が写り込んでいた。浩司は、確かに昨日この会社の近くで見かけた地蔵に似ていると思った。写真を裏返すと、そこには、『昭和二二年三月 福田ノ完治願フ』と書かれていた。浩司は二ノ宮を見た。


「復員船で、私と少尉殿と一緒になった同隊の仲間です。福島に裕福な実家を持っておりましたが、破傷風が悪化し一人で帰れる状態でなくなったため、一先ず岩槻に連れてきました。」


「それで、この人は。」


「……残念ながら、この後すぐに亡くなりました。丁度、このぐらいの時期に――あの頃は今よりもずっと寒うございました。遺体を焼くのに火がつかず、少尉殿と苦労した思い出があります。それから実家に連れて行ってやる骨を残して、この裏の山に埋葬しました。」


 浩司には、先程二ノ宮が裏山に行った理由が分かった気がした。茂叔父は、「へぇ、この裏に……」と独り言のように呟いた。そんな事を知らずにずっとここに住み、働いてきた茂叔父としては、思うところがあるようだった。


「その方の実家には……?」


「ええ、行きました。福田とは仲が良く、ビルマにいた頃から実家の話はよく聞いていたので、住所にも大体の見当はついていました。もっとも、金銭的な問題で行けたのは少尉殿一人だけでしたが。」


 二ノ宮はそこで、「もし私が一緒に行っていれば……。」と言い、その後の言葉を飲んだ。長い沈黙が訪れたような気がした。そして二ノ宮は、帰ってきた祖父の事を話しはじめた。


 田宮李一は、『三日もすれば戻る』と言って出ていった。二ノ宮はその言葉を信じ、李一の母や幼い兄弟の世話をしながら帰りを待った。だが、三日経っても、五日経っても、田宮李一は戻らなかった。


 心無い人々は、李一が福島に行くための資金を持ち逃げしたのではないか、と嘲笑った。田宮家は大昔に周囲の家々と大きな問題を起こし村八分に近い状態となっていたらしく、既に村八分が解けた当時でも、やれ田宮の家の旦那が戦死しただとか、田宮が金もないのに生意気にも倅を士官学校に入れただとか、田宮家の人間は後ろ指を指されやすい土壌であった。そんな中で田宮李一の逃亡疑惑が持ち上がり、しかも家にはよく分らない余所者を居候させ母親の世話をさせているとなると、付近の家々の井戸端を賑わせる醜聞としては格好の種であった。


 だが二ノ宮は、田宮李一がそんな事をするはずがないと信じて待ち続けた。あの誰よりも部下思いな田宮少尉殿がそんな姑息な真似をするはずがない、そもそも旅の資金など持ち逃げしても二束三文の特にしかならない、あのビルマで数年間部下たちを食わせ続けた田宮少尉殿がそんな目先の利益に我を失うはずがない、そう二ノ宮は自分に言い聞かせた。


 果たして二週間後、田宮李一は帰ってきた。帰ってきた李一の様子は、酷くやつれて憔悴し、何を話すにしても言葉に詰まったり周囲を気にしたりして冷静を欠いていた。そこから三日間、その状態が続いた。


 やっと李一の精神が安定した時、李一は二ノ宮を窓のない物置に連れていきある物を見せた。それは何枚かの不動産登記証明書――即ち、土地の権利書と呼ばれるものだった。土地は何れも福島のもので、名義人は田宮李一に書き換えられていた。


 二ノ宮はすぐにそれが、亡くなった福田の、引いては福田家の資産であると分かった。福田からは、実家が大きな土地を所有している事、自分が一人息子である事、両親が病弱である事を聞いていた。二ノ宮は、李一がどんな手段で、どうしてその権利書を手に入れたか問い詰めた。事の次第によっては、如何に大恩ある上官と言えど黙っていることはできないとまで考えていた。


 李一は、土地の相続は福田家の意志によるものだと答えた。ただ、その過程で幾つかの虚偽の報告があった事と、最終的に闇市の力を利用したとも述べた。その正確な内容について、李一の説明は一貫しなかったし、二ノ宮もやがて追求する事を止めた。田宮李一が、部下の死を利用してその病弱な遺族から半ば詐欺のような手口で財産を巻き上げたのは確かであったからだ。


 二ノ宮は李一に土地の返還を求めたが、李一はただ一言『もう手遅れだ』と言った。二ノ宮はその言葉が、罪を逃れるための言い訳ではなく、事態が最も深刻で、文字通り取り返しのつかない状況であるという意味であることを理解し、途方に暮れて立ち尽くした。


「それから、少尉殿は言いました。俺は、自分の夢のために金が必要なのだ、と。死んだ人間にはもう何もしてやれないが、そいつらが残したものを最大限使うのは生きている人間の努めだ、と。……あの時の事はよく覚えています。あの少尉殿が目を真っ赤に泣き腫らして、しかし今まで見たことがないような鋭い目つきでした。私は恐怖にも近い思いを得ました。そしてこうも思いました。この方の、この生き方は、私達のために研ぎ澄まされたものだと。ならば戦争が終わった今、この方はそれを自分のために使う権利があるのではないか、と。……全て、六十年程前の、戦争での傷が癒えないままに起こした、過ちでした。そして私はこの岩槻を去りました。」


 二ノ宮はそう言って、今この場にいない者に詫びるかのように、頭を垂れた。辺りには、再び沈黙が訪れた。


「……じゃあ、会社への資金援助が二ノ宮さんからになってるのは。」


 茂叔父が尋ねた。こんな時でも、会社の帳面が頭の中に引っかかっているのは、如何にも茂叔父らしいことであった。


「その土地は、間もなく私の名義となったのです。少尉殿が、田宮家はここでは鼻つまみ者扱いだから、遠い福島に土地を持っていることがバレようものなら徹底的に追い詰められる、と。だから土地は私が引き受け、求められた額の分だけ売却し、残りはずっと所有したままで、今まで……。」


「はあ……しかしそんな、簡単に土地取引ができるものですか……。」


「あの時代、闇で手に入らないものはありませんでしたから。」


 二ノ宮は、引き気味に笑った。それは、結局は上官の非倫理的行為の片棒を担いだ自分を自嘲しているかのようだった。


「少尉殿は別れ際に、いつか自分の死後、この事を家族に伝えてほしいと言いました。あの方なりの罪の意識でしょうか。……かくいう私も、自分への戒めとして福田の土地を全ては手放さず持ち続け……この数十年、いつ行政にこのことが発覚して警察が私を取り押さえに来るか、いつ福田の親族を名乗る人が名乗り出て私を訴えるか、気の休まる時はありませんでした。しかし、私ももう年です。やがて少尉殿の後を追う身となります。そうなる前に、私自身も重荷を手放したくなった。」


 二ノ宮は立ち上がり、茂叔父に向き合った。


「田宮さん。」


「は、はい。」


「貴方からご連絡をいただいてからずっと、李一様との約束を果たさねばという気持ちと、もう私を重荷から解放してほしいという気持ちで、一杯でした。そして今日、李一様のお顔を見て、福田の墓にも参って、やっと決心がつきました。今の話をした上で、誠に恐縮ではありますが……私の持つ土地、李一様の残された会社のために譲らせてはいただけませんか。」


 浩司はじっと茂叔父を見守った。祖父の犯した過ちを、茂叔父がどう評価するか。祖父の犯した罪を、その上に成り立ってきた会社を、茂叔父はどうするのか。


 浩司は、別の人間だったらどんな判断をするか想像した。父や母であれば、そんな土地は受け取るべきではないと言うだろう。二人はそもそも会社に興味が無いし、金銭にも困ってはいない。自分達の人生を傷付ける選択はしないだろう。祖母は、正直浩司にも想像がつかなかった。会社を取り戻したがってはいるが、その経営に興味があるようには思えない。ただ、自分のものだったから取り戻そうとしている、その位にしか思えなかった。果たして祖父の犯した罪を共に背負おうとするだろうか。もしくは、二ノ宮のために共に罪を背負おうとするだろうか。


「……分かりました。そのお話、お受けします。いえ、受けさせてください。」


 茂叔父はそう言って、二ノ宮の手を取った。


「そうですか……ありがとうございます、ありがとうございます。」


「この会社は、李一様のものであるのと同時に、私の宝でもあります。それを守るためなら、私は李一さんと同じ、どんな過ちでも背負っていく覚悟です。」


 浩司は茂叔父のその姿を見て、覚悟を決めた人間とはこういうものであったろうか、祖父もこのようなものであったろうか、と感じた。胸の奥に燃える炎を隠し切れないような眼差し、力が溢れんばかりの身体、茂叔父と祖父とでは当然背負ってきたものが違うのは理解していても、浩司は茂叔父に在りし日の祖父の姿を想起した。


 だが……と、浩司は思う。果たして祖父は、どう思うだろうか。今際の際の祖父は、自分の過ちを一族も背負う事を望んだであろうか。二ノ宮が時を経て重荷を手放したくなったように、祖父も最後の時にはそれを望んでいたのではないだろうか。祖父が二ノ宮に、自分の行いを家族に伝えるよう頼んだのも、それが祖父にとっての報いであり、贖いになると予感していたからではないのだろうか。


 浩司は、また自分が大して知りもしない祖父の胸中をあれこれ想像し理解者ぶった顔をしようとしていることに気付いて自分を恥じた。


「爺さんは、俺の事見たら何て言うかな。バカ野郎、って言うかな。」


 茂叔父は、強張った顔を照れ笑いで誤魔化すようにして浩司に言った。


「……分からないですよ。」


 浩司はそう言うしかなかった。祖父の事など、浩司には何一つ分かるはずもなかった。


 二ノ宮は、少し離れた窓辺の事務机の前にポツンと座っていた。日の光が一筋、窓から差し込んで丁度二ノ宮の周りだけを照らしていた。浩司には二ノ宮が急に老け込んだように見えた。つい先ほどまで二ノ宮という人間の威厳を形作っていた、ピンと張っていた背筋も、柔和で張りのある笑顔も失われ、ただの皺の多い小さな老人が背中を丸めて陽だまりの中に座っているように見えた。


「……二ノ宮さん、一つ教えてください。祖父の、福田さんから土地を取り上げてまで叶えたかった夢とは、何だったんでしょうか。」


 浩司は、今にも消えてしまいそうに思える二ノ宮に尋ねた。


「さあ……私も、詳しくは聞いていません。所詮私は、あの方に深入りするのを恐れ逃げ出してしまった人間ですから。……私よりも、最期まで李一様に寄り添われたご家族の皆様の方が、胸に思い当たる節はあると思います。」


 浩司は、その言葉を聞いて急に胸に込み上げてくるものがあった。


「いいえ……そんな人はいません。祖母は、祖父が病気になるとすぐ施設に入れ、会社の経営を気の済むまで一人占めしました。父は、祖父の会社を継ぐことから逃げ出しました。祖母も、両親も……私も、祖父を蚊帳の外に置いてばかりでした。――身体を悪くしてからずっと、最期の時も、祖父は一人でした。」


 ――家族にも距離を置かれ、同じ罪を分かち合った部下からも逃げ出された祖父の傍には、誰がいたというのであろう。


 二ノ宮は、少し目を見開いて浩司の顔を凝視した。


「そうですか……それは残念だったでしょう。……さぞ、残念だったでしょう。」


 そう言って二ノ宮は、ゆっくりと悲しげに、目を伏せた。それは最初に祖父を捨てた、しかし未だに、誰よりも祖父の胸中に近いところにいる老人の、やがて永遠に失われてしまう小さな声だった。浩司と、陽だまりの中でキラキラと光を反射する埃だけがその声を聞いていた。




 窓ガラスや壁がギシギシと軋むような音がした。浩司は、大きな風でも吹いたのかと思ったが、直ぐに軋む音は天井や床にも広がった。壁にかかった額縁や、事務机や椅子までもが音を上げはじめた。


 地震であった。


 足元が不確かになるほどの大きな揺れに、浩司も茂叔父も身を屈めた。窓辺にいた二ノ宮はガラスから逃げるように立ち上がったが、一人で立っていることもできずに壁に背をつけて周りを見回していた。


 やがて揺れは収まった。幸いにも事務所の被害は、壁に額縁が幾つか傾き、机の上の古い書類やら、冊子やらが倒れただけであった。


「……結構大きかったな。震度5近くあったんじゃないか。」


 茂叔父は恐る恐る立ち上がりながら言った。


「それって大きいんですか。」


「そりゃあな。阪神淡路の時、関西の方にいたけどよ。似たような感じだったわ。」


 茂叔父はそう言って、揺れには慣れっこだと言わんばかりに、へへっと笑った。浩司には体感的な恐怖こそあったものの、このボロ屋が無事だったぐらいだから、と大した危機感も抱いていなかった。


「……あちらは大丈夫でしょうか。」と、二ノ宮が言った。


「そうですね、何ともないとは思いますが、一応戻りましょうか。」


 茂叔父は、ガス栓だけ閉めてくる、と言って奥の方に走っていった後、すぐに戻ってきて三人はまた車に乗り込んだ。


 斎場に戻るまでの間、岩槻の街には特に変わった様子があるようには見受けられなかった。信号も動いていたし、交通事故も発生していない、いつかテレビで見たように地震後にマンホールから黒い水があふれだしている様子でもなかった。浩司が車の時計を見ると午後三時を少し回った辺りを指しており、金曜日の昼過ぎにしては通りに出てきている人が多いようには思えた。恐らく皆、先程の地震のために家や店を飛び出してきたのだろうが、その様子は比較的落ち着いているように思われた。


 斎場に帰り着いたのは結局午後四時近くになった。道中では交通事故こそ無かったものの、岩槻の細い道の路肩で停車した車や、踏切上で停止した電車を迂回するなどして、結局行きの倍以上の時間がかかってしまった。浩司達が斎場に入ると、祖父の棺の前は驚くほどひっそりとしており、一瞬、皆どこかへ避難してしまった後かと思った。しかし間もなく、それは斎場の奥のテレビが置かれた和室に老若男女問わず訪れた人間が殺到していたからだと分かった。


 斎場のテレビは最近めっきり見かけなくなった古式ゆかしいブラウン管テレビで、画面も音量もお世辞にも大きいとは言えない。そんなテレビの前に、十数人はいるかという大人達が、小さな和室の外に溢れてまで見入っているのだから、最後尾からはテレビに何が流れているのか知る事もできない。


 同じく人だかりの最後尾で、腕を組んで神妙な顔をしていた母が浩司達に気付いた。母は大層ほっとした顔で浩司の肩を掴んだ。まるで、自分達が無断で何時間も不在にしていたかのような心配の様子であった。


「あんた達、大丈夫やったん。どこ行ってたん。」


「え……ちょっと南装の会社まで、って言ったじゃん。それより、どうしたのみんな。」


 母が、ちょっと開けたって、とおじさん達を押しのけ、隙間を作った。その隙間から、浩司はテレビに映し出された光景をはっきりと見ることができた。


 ――そこには、見渡す限りの炎があった。ブラウン管テレビの彩度の低さでも、浩司にはそれが炎だとはっきり分かった。むしろ、テレビの画質の悪さ故に、浩司には炎以外の何もわからなかった。その映像がどこで、何を映しているかも分からず、その広さもスケールも分からない、故に目の前を覆いつくすような炎だけが、はっきりと、永遠に、映像の中で広がっているように思えた。テレビの下を流れるテロップによると、それは東北の宮城県であるらしかった。数秒後にその表示は岩手県に変わった。テレビの映像は、黒ずんで平べったくなったような、町の様子を示していた。


『繰り返しお伝えします、本日午後二時四五分頃、太平洋沖にて巨大な地震が発生。地震の影響により、東北沿岸には広範囲で津波による被害が出ており――』


 リポーターがそう伝えるのを聞いて、浩司はテレビの中の濁った平たい街が、津波の様子であると理解した。その映像からは、津波はどこまでも広く、東北中を呑み込んでいくように思われた。東北が沈んでいる、と浩司は心の中で呟いた。


 映像は間もなく、福島県の様子に切り替わった。そこでもまた、茶色に淀んだ汚水が画面に映る土地一面を呑み込んでいた。浩司は、はっとして、二ノ宮と茂叔父を振り返った。そこでは茂叔父もまた、その後ろにいる二ノ宮を振り返っているところだった。


「二ノ宮さん……ご自宅はどちらですか。」


 茂叔父は震える声でそう聞いたが、二ノ宮はじっとテレビを見つめたまま何も答えなかった。


「ご自宅は、福島県の、何町ですか!」


 二ノ宮は何も言わず、すっとテレビを指差した。浩司は茂叔父が息を飲み、全身の血の気が引いていくのを感じたような気がした。そして、その意味は浩司にも分かった。これだけの津波で飲み込まれた土地が、どのような荒れ様になるのか。二ノ宮の所有する土地だけではない、周囲一帯が復興しなければ、土地の資産価値の回復は見込めない。そしてそれが何年後、もしくは何十年後になるのかは想像もつかないが、少なくとも潰れかけの南洋装具にとってはあまりに長い、存続が無謀ともいえる時間であるのは確かであった。


「田宮さん。申し訳ありませんが……先程のお話は、無かったことにさせていただくしかないようです。」


 二ノ宮はそう言うと、すっと人だかりの輪から外れ、廊下の奥へと去っていった。浩司は、二ノ宮は祖父の遺影の前に向かったのだと察した。茂叔父は棒のように立ったまま、目を見開き魂が抜けたように俯いていた。だがテレビに夢中な親族達が、そんな茂叔父に気付く事はなかった。


「大変大変、東北が沈んでる!」


 空気を読まないような大声で、妹の真琴が駆け込んできた。学校が終わるには早い時間に思えたが、恐らくは先程の地震で生徒に帰宅指示が出たのだろうか。真琴は学校から自転車をすっ飛ばしてきたようで息が上がっていたが、それ程の思いをして持ち込んできた大ニュースにしても、既に親族一同テレビに釘付けで見向きもされないと分かると、拍子抜けしたような感じでポカンとなっていた。母だけが、安堵したように真琴の肩を抱いた。


「……おう。おかえり。早かったな。」


「うん、凄い揺れたと思ったら、授業中止になって……それからしばらく教室待機になって、そしたら電車の子以外全員帰れって言われて……訳分かんなかったけど、ここ来る途中駅のテレビで東北のこと知って、それで……。」


「うん、そっか。……疲れたろ。」


「別に……。」


 真琴は突然訪れたスペクタクルな午後の出来事を、途切れ途切れにだが喋ろうとした。だが喋りながらも視線はテレビから離せなくなり、話を聞いてくれるのが浩司だけと分かったのもあってか、終いには続きを話すことも忘れたように、浩司の横で無言でテレビに釘付けとなった。ただ親戚達と違うのは、浩司と真琴が今朝、会話を交わしていたことだった。


「ねえ、今朝の話覚えてる。」


「うん?」


「死んだ人が帰ってくる話。」


「うん。」


 真琴は、なおもテレビをじっと見つめたまま言った。


「――お祖父ちゃんが怒ってる。」


 その時浩司は、自分の横で聞いたこともないような大きさの音を聞いた。それは紙袋を叩き割るような音に似ていた。浩司がぎょっと横を見ると、そこにさっきまでいたはずの真琴は、二メートルほど後ろの壁に手をついて持たれかかっていた。真琴を挟んで隣にいた母の顔は今まで見たことがないくらい蒼白としており、見開きすぎた眼は、顔の中に大きなうろを作っていた。真琴は自分の頬に手を当てると、わんわんと堰を切ったように泣きはじめた。浩司は、今の音が母が真琴の頬を叩いた音だと、やっと気付いた。




 二〇一一年三月十一日は、恐らく全ての日本人にとって忘れがたい日となった。太平洋沖で発生したマグニチュード9.0の地震により、東北・関東で交通や工業商業のあらゆる時間が停止した。そして東北地方においては、間を置かず発生した大津波によりより多くの場所で時間が止まる事となった。不幸にも亡くなった人の遺族、九死に一生を遂げながらも他の全てを失った人、命よりも大切なものを奪われた人、そしてそれに共感し心を痛めた人――心に深い傷を残した多くの人にとって、今日という日は特別となった。


 だが浩司にとってもまた、二〇一一年三月十一日は特別な日となった。だがそれは、まさに今日この日に永遠に時が止まってしまった人々の悲しみとは比較するべくもない。事故死でも行栄不明でもなければ、震災による影響死でもない、あくまで自然の摂理として何日も前に世を旅立ち、それがたまたま今日この日に重なってしまっただけの、祖父の通夜だった。


 刻一刻と更新されるニュースを差し置き、通夜は予定通り行われた。訪れた人々の互いを労う声と、疎らな人の集まりだけが、あの災害が間違いなく発生したものであることを証明した。交通機関――特に都心部の電車――に障害が発生したらしく参列者は予想より少なかったが、近所の菩提寺の僧侶は定刻通り到着し、定刻通りに経を読み上げはじめ、そして浩司達は順番に焼香をした。通夜には、時間通り到着する人こそ少なかったものの、遅れて続々と人が駆けつけ、三十分経ち、一時間経ち、やがて通夜も終わりに差し掛かる頃には予定の九割近い参列者の記帳が済んだ。浩司が驚いたのは、通夜が終わり時間が深夜に差し掛かろうかという時になっても、一人、二人の参列者が「焼香だけでも」、と言って駆けつけてきたことだ。参列者はほとんどが父の病院関係者であるらしく、そこで浩司は、父の李一が長い年月をかけてその驚くべき勤勉さと実直さで築き上げてきた地位と人徳を、改めて思い知らされることとなった。


 参列者は挨拶の枕詞に、もしくは別れ際の締めくくりに、必ずと言っていい程「それにしてもまさかこんな日に」「お通夜の日をずらしたらまさか」「不運でしたね」と言っていった。確かに、仕事の都合で葬儀の日取りを一週間近くずらした結果、まさか歴史的大地震の日に当たるとは、参列者から見れば不幸な偶然にもほどがあるであろう。だが浩司だけは、この巡り会わせにはどこかで運命的な力が作用しているのではないかという懸念が頭の隅から離れなかった。


『お祖父ちゃんが怒っている。』


 ありえない事だった。冷静にならずとも、科学的思考などという方便を使わずとも、簡単に唾棄できるような妄言の類であった。普段の妹であれば、多少感傷的な性格であるとはいえ決して口にしないような質の悪い冗談だったし、普段の浩司にしても、もし妹がそんな質の悪い戯言を口にしようものなら即座に口先で丸め込み黙らせていただろう。しかし今、真琴の言葉は、直後の耳を疑うような平手打ちの音と一緒になって、呪いのように浩司の中で木霊していた。ふと祖父の遺影と目が合ったとき、焼香鉢の中を覗き込んで茶色い灰を目にしたとき、祭壇の蝋燭が作り出す陽炎の中で、金色の装飾が生きているようにゆらゆら揺れて見えたとき、浩司には足元を震わす地震と、テレビの中の大火災と濁流と、そして真琴の声とが自分の中から溢れ出してくるような感じがした。そして、あの紙袋を割るような音で母がそんな自分の頬を張ったような錯覚がして、何にもされていないのに心の奥がきゅっと細くなった。




 通夜が終わり、女子供を家に帰すと、男衆で深夜の蝋燭番をすることとなった。浩司は知らなかったが、男だけで一晩中遺影の近くに控え、蝋燭と線香の日を絶やしてはいけない決まりなのだそうだ。だがその時も、残った人々は酒を片手に、被害状況も分からず同じ映像と報告を繰り返すばかりのテレビに釘付けとなり、肝心の祖父の遺影と棺桶の方には見向きもしていなかった。


 時刻が深夜零時に差し掛かろうという時になって、父の勤める病院関係者と思しき男性が一人訪れた。それを見ると、親族らは流石に罰が悪そうに広間と祭壇の電気をつけ、酒瓶を隠して本日最後の焼香を見守っていた。しかし弔問者が去ると、また彼らはテレビを見ながらの奇妙な無言の酒盛りをはじめるのだった。昼間に母は、写真の前で経を上げるだけが弔いではない、と言っていたが、果たしてこの状況を指しても同じことが言えるであろうか。


 浩司は父と同じ缶ビールを開けながら、祖父の祭壇の方を振り返った。祭壇のある大広間のみならず、男達が詰める和室以外は全ての電気が落とされた薄暗い斎場で、祖父の遺影は僅かな蝋燭の明かりに照らされてずっと遠くの方で揺れているように思えた。


 茂叔父は、津波のニュースに直面してからずっと項垂れている。通夜の最中もどこか虚ろな表情をしていたし、現社長という立場の手前か斎場に残った今も、ずっと隅の壁にもたれ掛かってカップ酒を傾けながら、ニュースの映像を見ているのか見ていないのか何とも言えない様子でぼーっとしていた。同じく残った親戚の一人が、「そんな通夜みたいな顔よせよ」と冗談を言うと、心ここにあらずなまま、片方の口角だけを吊り上げて声のない笑い方をした。その笑い方は浩司の目から見ても寒々しく、茂叔父を茶化した親戚も返す言葉を無くしていた。それ以降誰も茂叔父に声をかけようとする者はいなかった。


 二ノ宮の姿は、浩司が気付いた時には消えていた。あの老人がいつ去っていったのか、読経を最後まで聞いた後に帰っていったのかもしれないし、もしかするとそのずっと前にはもういなくなっていたかもしれない。とにかく二ノ宮は、微塵も気配を悟られることなく、消えるように去っていった。浩司はそんな二ノ宮が、明日の葬式にももう来ないのではないかという確信めいたものを感じていた。


 そんな二ノ宮の分まで、という訳ではないが、浩司は暗闇への気味悪さを堪えて恐る恐る祖父の棺桶の前まで近付いた。浩司は結局、自分が祖父の事を何か一つでも分かったとは思うことができなかった。祖父について、家族から見た障害持ちで手のかかる老人の顔も、二ノ宮が語った勇敢で苛烈だった兵士の顔も、そして犯してしまった過ちも、浩司にとっては祖父の人生の意味と結果を満足に語りえるものではなかった。ましてや唯一残した会社でさえ、今回の地震が引き金になって倒産を免れそうにないと思うと、いよいよもって祖父の人生が空虚なものに思えてくるのを止められなかった。浩司はそんな祖父に対し、理解でも敬意でもなく、ただ、こんなになってまで最期まで独りなのは可哀そうだ、という同情から、祖父の遺影の前で一人酒を煽った。個人の人生に対して勝手に同情するなど、それこそ死者の怒りを買ってもおかしくない行為であると頭では理解しつつも、その時の浩司は幾らが気が大きくなっていた。半ニートの身にしては久方ぶりの刺激の強い一日であったために疲れが溜まっていたのだろうか、そしてそれが酒の酔いを加速させたのだろうか。


『そこにいるなら出てきてほしい。そして、直接家族や自分を叱ってほしい。』


 浩司はそう考えていたのだった。


 この期に及んでも浩司には、祖父の死に目に立ち会わなかった事への後悔が変わらずにあった。そして天変地異の大災害の中でも、何一つ解決していない問題、即ち自分自身の人生の先行きの見えなさへの不安と空虚感を忘れることができなかった。遠く東北の惨状に思いを馳せても、今目の前にあるものが祖父の遺影と線香の煙であるように、浩司の心は現実問題として目の前に存在する壁に塞がれたままだった。人間が生活から足を離すという事は、時になんと難しい事だろう。そして、詫びるべき人も、目指すべきものも無いままに、家族が、社会が、祖父の死と歩みを合わせ変わっていくのを自覚する事に、耐えられないような疎外感を感じた。


 浩司はまた缶ビールを煽ったが、既に缶は空になっていた。


 冷蔵庫に次の缶を取りに行こう、後二杯も飲めばきっと自分は眠りに落ちる。そうすればすぐに葬式がやってきて、もう一度坊主が経を上げ、出棺し、火葬すれば、全てはお終いだ。そして自分は何も変わらないまま、永く怠慢な元の生活に戻らねばならない。浩司は自分の将来も人生の意味も分からないながらに、そんなどうしようもない明日以降の姿に対してだけは未来視めいた強度の確信を抱いていた。


 浩司は給湯室で、明かりもつけるのを忘れて冷蔵庫からビールを取り出し、その場で口をつけた。既に酔いの周った頭は、何十年繰り返して染みついた動作を繰り返すように、薄いビールを次々に臓腑に流し込んだ。暗闇に目が慣れると、換気用の小窓からは澄み渡った夜空が見えた。それは同じ時間、同じ国で、全てを失い涙に暮れる人がいるとは俄に信じられないような、美しくありふれた夜空だった。

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