怒りの日

砂漠のP

一日目:三月十日

 三月十日、木曜日。田宮浩司は十年来住まいのある東京都内から、さほど離れてもいない埼玉の実家を目指していた。足取りは、ノロノロと一直線に地を這う各停電車のように重く、心持ちは未だ冬に留まり続けようとする曇天の空模様のごとく暗かった。


 都内の込み合う地下鉄、気持ち次第では座りようのある環状線、そして人もまばらな郊外に向かうJRへ。電車を次々に乗り換え、そして今、大宮駅から西へとのびる東武アーバンパークラインに乗っている。車窓から見える景色は、吐息と空調で白く霞んでいる。車内はほとんど無人だ。浩司はそんな車内においても、なんとなく腰を下ろす気になれずドアに背もたれていた。そして大宮の比較的栄えた光景が、刈りあげられた田園と線路に迫るような住宅街に変わっていく様を眺めていた。




 東京の三月は、無色であった。正月明けの浮足立った忙しなさも、道行く人々の背中からはすっかりと消えた。つい先日、日本中の無責任な期待に後押しされ始まったばかりに思われる一年は、またも消費されるだけの残り時間として、短いようで長い定規の目のような日々を眼前に横たわらせているだけであった。自宅から職場である古本屋へ向かう道すがら、道でも駅でもそんな無気力な人々の背中を追って歩く毎日。そんな日々に行き場のない焦りを感じながらも、同時にそこから抜け出すことを考えていない自分自身に気付くと、一層深いため息をつかざるをえない日々を過ごしていた。


 先週の土曜日、そんな無色な毎日を過ごしていた浩司のスマートフォンの通知画面に、埼玉の岩槻に住む母からのメッセージが映しだされた。


『おじいちゃんが亡くなりました。しばらくお家で寝かせてあげてから、金曜日にお通夜をあげます』


 緑色の枠内に収まりきる短文を見たとき、浩司は思わずスマホの画面を消し、机の上に伏せた。仕事中であったからではない。人の出入りのない古本屋の店番だ、誰に気兼ねすることも無かった。ただその一瞬、浩司の胸に宿った感情にあえて名前を付けるとするなら、それは『後悔』であった。




 祖父、田宮李一は、91歳の大往生を遂げた。祖父は、生まれも育ちも埼玉岩槻で、戦後の混迷期に闇市で財産を築き、地元岩槻に小さな家具販売の会社を興した実業家であった。祖父の会社『南洋装具』は、一時は県内のみならず、東京や関西の社長、大金持ちからも発注が来るほどの繁盛ぶりであったと聞く。しかし会社の業績とは異なり、祖父の生活は平穏なものではなかった。祖父は戦争中、南方に従軍していたそうであるが、その時の傷が元で徐々に脳性麻痺が進行していったそうだ。会社の実質的経営権は、祖父から祖母、祖父の弟へと移り変わっていった。そして正式に会社を弟に譲り渡して以降は、週に一度の家族の訪問を待つのみの医療看護施設暮らしであった。祖父が築いた会社は、今は祖父の弟の息子(つまりは浩司の父の従弟)のものとなり、地元を離れた浩司には会社が存続しているのかすらも判然としない。


 浩司には祖父に対して殊更に深い感情があるわけではない。物心つく前からずっと施設に入っていた祖父は、浩司にとって肉親と言えども遥かに遠い人であった。そして、そんな祖父が危篤であるという連絡を受けたとき、浩司には敢えて祖父に会いに行くという選択を取ることができなかった。そして、そのまま祖父が死んだ。悲しいほどに当然の結果で、自業自得だ。しかし、肉親の死に目に会えなかったという事実は、思いのほか重く、浩司の心に圧し掛かり、自らの行動を後悔させたのであった。




 それからの一週間は長かった。とはいっても、職場の古本屋からは、二つ返事で休みの許可が下りた。元々大学時代に頻繁に立ち寄っていたのが高じての縁故採用であったので、隠居同然の老店主に事情を話すのも気安いものであった。しかも、亡くなったその日に通夜をあげるのではなく、金曜日までという猶予があったのだから、帰省のための整理をする時間は十二分にあった。


 祖父の通夜を次の金曜日まで待つというのも、浩司は特に驚かなかった。祖父の施設暮らしが長かったというのもあるし、喪主である浩司の父はさいたま市内の大病院に勤務する医師だ。身内の不幸と言えども、動かしようのない予定というのは幾つもあったのだろう。ただ、今こうして働いている間にも、実家では祖父の亡骸がよく冷えた部屋で横たわっているのだろう、と考えるのは、やはり不思議な気持ちにさせられたものだった。


 それよりも浩司にとって憂鬱だったのは、実家とのやり取りだった。両親には、通夜と葬式には参加するという事と帰省の日取りだけを伝えた。なるべく、祖父に関する感傷的な会話は避けたかった。しかし、いまだ高校生で実家住まいの妹の真琴は、葬式の準備やらで忙しくなった両親の代わりに浩司に慰めを求めたらしく、あからさまに連絡がくる頻度が上がった。そうした真琴からの連絡の度に、慎重に話題を選択しつつ近況を気遣うのは、精神的になかなかの重労働であった。




 そうして通夜の前日にあたる今日、遂に住み慣れた都内の六畳一間のアパートを後にし、幾年ぶりかになるかも分からぬ実家への帰路についたのであった。帰省と言っても、アパートから岩槻の実家への所要時間は一時間半ほどだ。その気になればいつでも帰れるどころか、最早実家と家とは目と鼻の距離であると言えた。にもかかわらず、ここ数年どうしても実家に足を向けることができなかったのにはみっともない理由があった。


 田宮浩司は、岩槻の公立高校を出て、都内の、名前を聞きなおしたくなるような私立大学の文学部にストレートで進学した。そこでかねてより興味があった歴史研究を志し、大学院進学を希望し、大学院入試に落第した。


 裕福ではあるが自分より優秀な妹の進学を控えた実家からの支援が頼れたのはそこまでであった。以来、大学時代のアパートに無理矢理長居して、進学のための費用をためるとも、独力で歴史研究を極めるともつかない日々を過ごしている。否、実際は浩司自身、自分の中の進学にかける熱意がとうに消えていることは自覚していたのだ。そういう訳で大学を去ってからは、埃が被った本が山積みにされた自宅と、毎日の通勤道と、細長く入り組んだ古書店と、昼時によく出入りするカレー屋、そして稀に美術館や映画館が、浩司を取り巻く世界のすべてであった。


 そんな兄と比較し、妹の田宮真琴はなおも優秀であった。来年度が大学受験の年であるが、(頼んでもいないのに)伝え聞く成績と素行から判断するに、都内の一流大学への進学は夢ではないだろう。医師である父は、妹を医学部に進ませようとしている。もちろん父は、浩司にも医学部進学を勧めようとしていたはずだ。しかし浩司はそんな気配を多感な時期から察知し、反抗のつもりか文系への進学希望を表明したのだった。成績優秀な妹、父の期待に応える妹、そんな肉親の存在は、落第者で逃亡者である浩司を否が応でも家から遠ざけた。


 ――そんな子供じみた劣等感と、将来への葛藤を抱えているうちに、祖父が亡くなった。


『取り返しのつかないことをした。今度こそ帰らねばならない。そうしないと一生後悔するに違いない。』


 後悔はそんな焦燥感と決意を浩司に植え付けた。通夜の前日から帰り、実家でできることを手伝おうというのは、浩司にとって自己満足にも等しい贖罪を兼ねていた。


 浩司は今一度、線路沿いを流れていく故郷の景色を見た。車窓から見る景色は薄茶色に禿げ上がった田園を通過し、はるか下で淀む小川に架かる橋を越えたところだった。周りはあっと言う間に中背の建物が疎らに立ち並ぶ地方小都市だ。電車は岩槻駅に到着した。無機質な女性の声のアナウンス音が、浩司以外誰もいない車内に鳴り響いた。岩槻の駅舎は高架式に頭上にのしかかっている。浩司は時間制限付きの自動ドアのために、喉が痛くなるほど暖房のきいた車内から、日の当たらないホームへと追い出された。




 しばらく見ないうちに、故郷の駅前は大きなリフォーム工事が入ったかのようだった。駅の目の前に立ちそびえる市庁舎との間に広がった大規模なロータリが、小都市に似つかわしくない広々とした印象を与えている。そのために、駅前の人通りの少なさもとりわけ際立っているかのようだった。浩司は迷わず、その伽藍洞のような市中心部に背を向け、山の麓にぎゅうぎゅう詰めの住宅街が敷き詰められた岩槻郊外へと足を向けた。


 浩司は正直なところ、およそ10年ぶりにもなる帰郷によって、己の中のノスタルジズムが喚起されるのを期待していた。どこそこで夏休みや冬休みを過ごしたとか、小学校の頃どこの家の子と仲が良かったとか、どこの公園で人生初めての告白をしたとか、そんな思い出が記憶の鍵を開けるように溢れてきて、故郷を美しい自分のルーツに変えてくれるだろうと期待していた部分があった。しかし事実は全くの逆であった。道々の家は、かつて立ち並んでいた年季の入った家々から安っぽい外壁の現代家屋に建て替えられ、小学校の帰り道であった公園からは遊具が取り払われたり、高層マンションが建てられたりしていた。中学三年の夏、部活の後輩に人生初めての告白をした思い出の喫茶店は、あろうことか区画そのものが消失し道路になっていた。


 期待外れと言えば期待外れであった。しかし、浩司はこれといって何の感慨も抱かなかった。もともと帰るべき場所ではなかった所が、見ず知らずの余所の土地に変わっただけの事だ。旅行先で心が大きくなるように、むしろ初めて来た土地と思った方が、家族や自分に対しても、冷静に向き合える事に違いない。そうだ、これからは旅行先でたまたま家族と落ち合った、そのくらいの気分で行こう。そうすれば一家の長子としての社会性が、実家での、そして祖父の葬儀での所在無さを覆い隠すだけの、社会性を与えてくれるはずだ。


 そう腹を決めると、途端に実家に帰るための無限の勇気が湧いてくる気がした。そうと決まればわざわざ足を痛めて歩く必要はない、さっさと市営バスに乗ってしまおう。浩司は最寄りのバス停を探すために立ち止まってスマートフォンを開くと、幾つかの着信が入っていた。


『遅くない?おきてんの?』


『乗り過ごしただろお前』


『駅めっちゃ寒いんですけど。覚えてろ』


 それは妹の真琴からであった。そして浩司は、自分が完全に妹との約束を忘れて、勝手気ままなノスタリズムの探訪に繰り出してしまっていたことに気付いた。


『ごめん。お土産買うの忘れたから、駅の周りで店探すのに夢中になってた』


 あまりにも苦しい言い訳を返信すると、浩司は徒歩で、駅への道を引き返した。




 駅の入り口前で、真琴は仁王立ちしてこちらを睨んでいた。


「遅い。」


 こちらが何と挨拶をしたものか悩みながら近づいていた最中の事だった。真琴は、顎をくいっと上げてこちらを睨んでいる。首筋くらいで揃えられたボブスタイルの髪が、学校帰りの冬服の紺色ブレザーの襟をさらりと撫でた。


真琴は、母親に似て声と目が大きい。また、これは誰に似たのか分からないが女子にしては背が高い。顔立ちはまあまあ整っているし痩せ型なのだが、中学・高校とバスケ部でスタメンを張ってるため肩と足腰がしっかりとしており、そんな人間が仁王立ちで睨んでくると女とはいえなかなかの威圧感であった。


「ごめん。」


「で、何買ったの。」


「数年ぶりに会って、それ?」


「そっちこそ、数年ぶりに会う妹との約束すっぽかすとか、どういう神経してんの。」


「ごめんって……ほら、駅前とかすごい雰囲気変わったし、びっくりしてさ。」


 真琴は、ふうっ、とため息をついて肩の力を抜いた。納得してもらえたか、と浩司は思った。しかし真琴は、つかつかと浩司の横をすり抜けると、歩き出してしまった。


「もういいよ。いこ。約束通り、話聞いてくれるんでしょ。」


「あ、うん。どっか入る?」


「そこまでの話じゃないから、いい。あ、でも寒いから。温かいのおごって。」


 真琴は駅に隣接した駐輪場横の自動販売機を指さして言った。浩司はお汁粉を二本買うと、一本を真琴に渡した。真琴は無言で手の中の缶を見ていた。


 二人は、暫く無言で歩いた。浩司は、真琴が言う『話』とやらが始まるのを待ったが、真琴の口はさっきとは真逆に固く閉ざされてしまった。浩司も、ときどきチラリと横顔を覗き見るだけで、殊更何かを急かすことができなくなってしまった。沈黙の中歩く二人を、時々、車がノロノロと二人を追い越していった。


「……浩司さ。」


 5分ほど歩いた時、真琴が重い口を開いた。先程、駅前で威圧された母親譲りの声帯から、今度は油断していると聞き逃しそうなくらい小さく、指向性の定まらない声が発せられた。丁度踏切に差し掛かったところだったので、浩司は気持ち悪がられない程度に真琴の顔に耳を寄せた。


「幽霊って、信じる?」


「え?」


 真琴がビクッと肩を震わせた。踏切の音に遮られまいと、浩司の声が自然と声が大きくなってしまったからだった。浩司は今度は、踏切の音が収まるのを待って声をかけた。


「幽霊って。お前、そんなの好きだったっけ。」


「好きじゃないよ。……まあ嫌いでもない。今までそんなの興味も無かったけど。」


「それがどうしたの。急に。」


「いいから、さっさと答えてよ。幽霊はいると思うかどうか。」


 浩司は暫く逡巡した。今までの人生経験上で、幽霊を見たことがあるかと問われれば、その答えは否だ。また、夏場にテレビでやるような心霊番組にしても、創作だとか仕込みありのフィクションが全てだと思ってる。だが、浩司自身が幽霊を信じるか、と聞かれると、そんな事は考えたこともないというのが本音だった。


「そうだな……俺は見たことはないけど、だからと言ってそういう存在があるかもしれない、という可能性は否定しない、ってところかな。」


 考えた結果、浩司の口から出てきたのは、実に公正で広い視点に立った考え、の体をなした、その実とことん優柔不断でありふれたようなつまらない答えだった。浩司は、地頭のよい妹に張り合うために、このように何でもないことをもったいつけて言う癖がついていたのだと久しぶりに自覚した。


 しかし、そんな玉虫色の答えは常に真琴には効果があった。


「そっか……。いるんか……。だよな……。」


 真琴は口元に手を当てて独り言のように呟いている。それを聞いて、浩司は次の言葉を投げかけた。


「――実際、世の中には心霊によるものとしか説明できない話がいくつも伝わってる訳だし。色んな人が見るって事は、何かしらの根拠があるんじゃないかな。」


「やっぱ……そうだよね。」


 真琴の歩くスピードが少し早まり、浩司は紺色のセーラーの背中を目で追った。こいつは何を隠してるのであろう。


 踏切を越え、辺りは緩やかな上り坂になっていた。古いスナックが入居した長屋や、真新しいコインランドリーの建物が、道路の両側に無造作に並んでいる。この坂を越えると、整備された市街地には別れを告げ、田圃と、古民家と、真新しい住宅とが不規則に山裾に張り付いた、日本で最もメジャーな『地方』の世界に入っていくことになる。


 坂を上りきったところで、真琴は立ち止まっていた。浩司はその後ろで少し離れて、妹の背中を見ていた。浩司はふと妹が、胸の奥に抱えた悩み事によって、ぽんと背中を押され、坂の向こうに消えていってしまいそうな気がした。


「あのさ……お祖父ちゃんが亡くなってから、今日までうちで寝てるのは知ってるよね。」


「ああ、聞いてるよ。普通じゃ、あんまり無いことだとは思うけど。」


「浩司……実は私さ……。」


 そう言いながらゆっくりと振り返った真琴の横顔は、ひどく悲しそうに見えた。


「まさか……見たんか。おじいちゃんの、その……。」


 浩司は最後まで言葉を継げずに尋ねた。真琴は、大きく首を横に振った。


「逆なの。……おじいちゃん、一度も出てきてくれなかったの。」


 浩司は予想外の告白に、一瞬頭が真っ白になった。そして、やっと要点を確認し、慎重に問いかけた。


「えっと……それは、いい事なんじゃないのか。」


「は?」


 真琴の声色が少し低くなった。浩司は慌てて次の言葉をひっこめた。人間が悲しんでいる顔は、見ようによったら凄まじい怒りの表情にも見える。般若の面と一緒だ。


「もしかして、会いたかったのか。……その、おじいちゃんの、霊に。」


「……当然でしょ。最期、会えなかったんだもん。」そして真琴は、少し迷った後、「私……実は、おじいちゃんが危ないって時に、会いに行かなかった。」と言った。


 浩司は意外だった。まさかそんな不孝を働くのは、実家を逃げ出した自分くらいのものだろうと思っていたからだ。


「浩司が東京に行ってからもさ、私、たまにお母さんとおじいちゃんの所に行ってったの。でも、おじいちゃん段々物覚えも曖昧になっていっててさ。ある時、私の顔見て……愛子がきた、って言ったの。」


 愛子、とは祖母の名であった。真琴はその時の事を思い出したらしく、少し下唇を噛んで浩司から顔をそむけた。


「それからなんか、おじいちゃんのところに行けなくなって。おじいちゃんが危ないって時も、試験があるの言い訳にして、私……。」


 浩司は思わず唸って真琴の顔から目線を落とした。家族の記憶から自分が消えていく、その瞬間を目の当たりにした妹は、どんな気持ちだっただろう。祖父ともう十年近く会っておらず、祖父の事も、人が老いるという事の意味も直視しようともしてこなかった浩司には、想像もできなかった。


「おじいちゃんは、最期に私に会いたいって、思ってくれたのかな。それとも……もう私の事なんて、忘れちゃったのかな。」


 その言葉を聞くや否や、浩司は頭より先に口が動いていた。


「さっきの話だけどさ……幽霊はいるかって。俺、こんな伝承があるのも思い出したよ。」


「……なに。」


「葬儀の時、動物が現れたり、変わった雨や風が起きたりする。それは幽霊じゃないけど、故人がそれに乗り移って、最後の挨拶にきてるんだ、って。」


「なにそれ。ソースどこ。」


「いや……民間伝承っていうか、風の噂っていうか……でも、昔の文豪もネタにするぐらい、由緒正しい噂なんだぜ……。その……太宰とか……。だからさ、本当に会いたくなったら、お祖父ちゃんも……お前に……その。」


 みるみる自信がない声になっていく自分の度胸の無さを、浩司は呪った。さっきと同じ中途半端な知識をひけらかす話法で、相手も同じなのに、今はどうしてこうも上手くできないのか。浩司は、上手く喋れていないのは自分の思い過ごしだと、真琴が態度で示してくれないか、いつものように兄の話を信じ切って、一喜一憂してくれないかと期待していた。


「……ありがと。」


 しかし真琴は、短くそれだけ言うと、また歩き出した。浩司は遅れないようその後に続き、坂の向こう側に足を踏み入れた。


 目の前を遮るように立ち並ぶ小さな二、三軒の木造住宅が立ち並び、その向こう側の一段高いところに田圃、さらにその向こうに薄く茶色に霞んだ山々が見える。露わになった田圃の地肌で、刈り残されて規則的に並んでいる稲の茎は、見るからに固く尖っており、幾つも幾つも硬そうな地面に並んでいる様子は、見るからに不吉であった。


 帰ってきたな、と浩司はぼんやり感じた。




 家に近づくと、大きな怒鳴り声が聞こえてきた。浩司にはすぐにそれが母の静江の怒鳴り声だという事が分かった。関西生まれの母は、常に声が人の倍くらい大きかった。先を進む真琴は、気にせずツカツカと家の門をくぐる。まるで、それが日常茶飯事のものであるかのようだった。


「なあ、なあ……。もしかして、最近ずっとこれなの。」


「うん、まあね。毎日一回は、何かでお祖母ちゃんとやりあってるよ。」


「よく喧嘩の種が尽きないな。」


「ほんと。寝かされてずっとこれ聞かされてるお祖父ちゃんの身にもなってあげたらいいのにね。」


 そう言って、二人は茅葺屋根の載った門をくぐった。その時、また一際大きな怒鳴り声が聞こえてきて、目の前の二階づくりの和風建築と玄関の引き戸が、びりびりと揺れたような気すらした。


 今度は、母が何と怒鳴っているのかはっきり聞き取ることができた。


「やから誰のために仕立てたものかて聞いてんのよ!こんな時までケチ臭いこと言わんとき!」


 続いて扉の向こうで、低くぼそぼそと何事か反論する声がした。恐らく祖母であろう。こんな時、年をとって母ほどのパワーがない祖母は母よりはるかにひ弱に見える。だから二人の喧嘩の様子は往々にして、本人の弁はどうあれ、母が年老いた老婆を苛めているようであった。


 ふと横を見ると、真琴は徐に庭の雑草を毟っている。どうやら、現場に居合わせたくない気持ちは一緒らしかった。浩司と真琴は、雑草を毟ったり砂利石を積んだりしながら、家の中が静まるまで待った。


 やがて母の声がトーンダウンし、続いて大きな足音が遠ざかっていくのが聞こえた。大きな足音は祖母のものだろう。祖母の苛立ちは言葉よりも雄弁に身体に出て、周りに自分が不服であることを知らしめるのだ。


 浩司は玄関をくぐった。


「――ただいま。」


 母は少し離れた台所の扉から顔をのぞかせた。


「あら、浩司。おかえりなさい、よく帰ってきたわね。」


 数年ぶりに見た母は、何故か浩司の記憶よりも髪が艶やかで量も増えたようであった。浩司はすぐに、葬儀用に染め直した特別仕様であると察した。母は数年ぶりの再会にも特に感慨を抱いていないようで、またすぐに顔をひっこめた。


 浩司と真琴が台所に行くと、母は鍋に火をかけながら何やら名簿のようなものを捲っていた。


「今晩、あんたの好きなカレー。」


 母は名簿を捲りながら、顔もあげずに言った。


「お、おう。……ありがとう。」


「えー。浩司ずるいな。」


「あんたもそこそこカレー好きでしょう。」


「そこそこ、ね。私はそこそこ。」


 真琴は、私はそこそこ、を東京ブギウギのリズムで口ずさみながら二階の部屋に上がっていった。台所には浩司と母の二人きりとなった。


「……大変だったね。」


 浩司が言えたのは、そんな社交辞令じみた挨拶だった。


「まあね。でも準備の時間もらえたから。多分マシな方よ。」


「6日、だっけ。」


「そうねえ。土曜に死んじゃって、日、月、火、水、木、で明日お通夜だから。そんなもの。」


「うん……。」


 改めて見た母の背中はどこか疲れたような細さを感じる。先程肌で感じたように野太い声帯だけは未だ健在だが、それも全身のエネルギーが枯れていく中で、まるで声帯にだけは力を蓄えようとしている母の肉体の意志のようなものを感じた。


「そういえば……さっき、お祖母ちゃんとなに喧嘩してたん。」


「なんや、聞こえてたん。……つまらない事よ。夕方、お祖父ちゃんの納棺なんだけどね。お祖母ちゃん前から、お祖父ちゃんのために着物仕立ててたんよ。新品の、しつけ糸ついたやつ。」


「しつけ糸って何。」


「そういう糸があんの。新品の証拠の。……で、結局生きてるとき着せてあげられんかったから、送り出すとき着せてあげようね、って話ついてたのに。急に煮え切らんこと言いだしたから。元はと言えば誰のためのもんよ、って叱りつけたったのよ。……こんな時まで、ほんと、みっともない。」


 浩司が少し言葉に詰まったとき、一番恐れていた質問が飛んできた。


「あんたさ、なんで帰ってこなかったの。」


「それは…………。」


「……まあ、あんたにも都合があるでしょうしね。」


 浩司が答えるより前に、その質問は水に流されてしまった。それが母なりの気遣いであったのか、それとも本当に自分に興味がないためなのかは分からなかった。


 居心地の悪さから逃げるために、浩司は何か手伝えることはないかと聞いた。しかし通夜の日程こそ伸びたものの、葬儀の準備は全て整った後で、今更、しかも数年ぶりに地元に帰ってきた浩司に出来そうなことなど残っていなかった。結局、浩司が一方的に目論んだ罪滅ぼしは、ほとんど不発だった。


「だって普通は、亡くなったらまず葬儀屋さんに連絡よ。今回日をずらすのは、後で決まったことで。……お父さんがね、うじうじ言うから。」


 浩司は、今度は父の愚痴がはじまりそうな予感を感じて、敢えて何も言わなかった。母も、それ以上の言及はしなかった。


 ――父も不在がちな家で、ほとんど一人で葬儀の準備に明け暮れて。母は恐らく端から見える以上に、ストレスを貯めているのだろう。祖母の存在が母の神経を逆なでするのは昔からの事だが、今の母はそれ以外にもささいなきっかけで火がついてしまいそうな、近寄りがたさを感じた。先程、真琴が早々に自分の部屋へと引き上げていったのはそんな危うさをここ数日……あるいは浩司が不在の数年間、まざまざと見続けていたせいもあるのだろう。


 浩司はかつての――もちろん名義上は今もであるが――二階の自分の部屋に上がって荷物を置いた。数年ぶりの部屋はどことなく懐かしい香りを漂わせていたが、きちんと広げられたベッドの上の毛布は、干したての太陽の香りを放っていた。かつて手の届かない有名大学を目指して勉強に明け暮れた勉強机はきちんと整頓され、目に見える埃は全て拭き取られていた。しかし机の目の前の本棚に収められた参考書と、辞書、そしていくつかの歴史系の文庫にはびっしりと埃が纏わりついており、特に赤本にうずたかく積みあがった薄灰色の誇りの絨毯は、さながらの陰険な雪のようであった。箪笥の中の衣服は見たこともないレイアウトできちんと収納されており、浩司は早々に着れる服を探すのをあきらめて帰省の荷物の中に押し込んできた私物のセーターやジーンズをベッドの傍に固めた。


 浩司が一階に降りると、母は思い出したように用事を頼んできた。母が託したのは、歩いて二十分ほどの近所に住む親戚への、果物のおすそ分けを運ぶという仕事であった。浩司は、二つ返事で碌に顔も覚えていない親戚へのおつかいを快諾した。


 母の勧めもあって、浩司は家を出る前に、床の間に安置された祖父に挨拶に行った。幸いというべきか、先程気分を悪くしたばかりの祖母とは出くわさずに済んだ。祖父は薄暗くした和室の床の間の真ん中に布団を敷いて寝かされていた。真冬の寒さと祖父の服の中に仕込んだドライアイスの冷気で殊更冷えついた畳に膝をつき、浩司は祖父の顔面にかけられた布をめくった。


 死に化粧を施された祖父は、本当に眠っているかのようであった。浩司はなんだか、あまりじっと見てはいけないような気がして、すぐに布を戻した。祖父の姿を最後に見たのはもう十数年も前で、浩司には祖父がどんな顔をしていたかの記憶すら曖昧であった。勿論、漠然とした祖父へのイメージはあったが、そんな不確かな印象に裏付けられた祖父との思い出は、一瞬の対面で簡単に塗り替えられることとなった。それ故に、祖父の休む顔を見て浩司が感じたのは、ただ、こんな人だったんだ、という冷めた感想であった。




 浩司は谷沿いの県道に沿って歩いた。右手に褐色の山肌、左手に田園と時々見える川とに挟まれながら、昔から一向に変わり映えしない地元の風景を眺めていると、逆に駅前で感じた街並みの変わり様への驚きがふと思い出されて、何故だか無性に地元が哀れなような、痛ましいような気持になった。水田のあぜに半ば埋め込まれるように建てられた祠のお地蔵様や、最後にいつ汲まれたともしれないトタン板で雑にふさがれた井戸、割れて乱暴に軒先に積まれたタヌキの焼き物などが昔と少しも変わらない姿で残されていた。浩司には、こうしたものがあるかぎり永遠にこの辺りは変わらないのではないか、これらの遺物はこの地域の歴史を見守るばかりでなく、この辺りの人や暮らしを時代の流れから切り離して、どこか遠い昔の一地点に繋ぎとめているのではないかとすら思えた。


 浩司がお使いを託された親族というのは、祖父の弟の息子――父にとっては従弟にあたる人であり、『南洋装具』の現社長であった。この関係性は何と言うのだろう、と道中グーグルで検索した結果、どうやら祖父の弟の息子は、名称上は『従伯叔父いとこおじ』と言うらしかった。挨拶した後はなんと呼べばいいだろうか。やはり、『叔父さん』であろうか。そんなことを考えているうちに、その家、というか会社は、見えてきた。


 叔父の自宅兼、南洋装具の事務所は、林と、ガマの茎が所狭しと並んだ池との間に建っていた。年季の入ったトタンは薄ら白く粉を拭いたようにくすんでおり、県道に向かって大きく開かれた正面シャッターの中には、ここからでも分かるくらい大きな木彫りの鷲が羽を広げていた。ガマの茎が風に揺れるたびに、その向こうのピクリとも動かない鷲の彫り物が妙にリアルに思えた。


 戦後、全国に販路を持つ家具メーカーに成り上がり、地元でも崇めない人はいないほどの繁栄を謳歌したその建物は、時代が移ろい、経営が祖父からその弟、そしてその息子へと引き継がれていくにつれ徐々に規模の縮小を余儀なくされ、今ではこんな片田舎の端の方に追いやられているような有様であった。会社の前に広がるガマの穂は、そんな昭和の残骸を一顧だにせず柔らかな風に吹かれてふわふわ揺れていた。


 浩司は呼び鈴を探したが見つからなかったので、仕方なく大口を開けたシャッターの真ん前で少しばかり声を張り上げた。


「すみませーーん。」


 奥の方から板間を踏み鳴らす音が近づいてくると、やがて会社の土間のさらに奥の縁側みたいになっているところのガラスの引き戸が開いた。


「なんねえ。」


 髭を蓄えた顔に、筋肉で肩が盛り上がった大男が、その軒高な体躯に見合わず小ぶりでちょっとキラリとした目を、髭の向こうでぱちくりしばたたかせていた。碌に顔も覚えていなかったが、この人が浩司の祖父の弟の息子の従伯叔父――田宮茂であると分かったた。


「あの……こんにちは。浩司です。お久しぶりです。」


「……おー、こうちゃん。帰ってきてたか。そうかそうか、そうだよなあ。いやーおっきくなって。」


 茂叔父はどうやら、浩司の小さかった頃を覚えていたらしい。楽しそうにサンダルをひっかけると、浩司のもとに歩み寄って肩を叩いた。浩司は距離感に戸惑いながらも、この空気感を壊さないように気を使いながら笑い返した。


「ははは、どうも、ちっとも顔を見せずすみません。あの、母から言付けられて、お裾分けに――。」


「うん、まあいからちょっと上がってけ。通夜の前日に別に用事もなかろう。さあ、上がって上がって。」


 有無を言わさぬ茂叔父のテンションに、浩司は為すすべなく従う事になった。


 会社の奥は住居を兼ねているらしく、一階は事務室や、休憩室兼ダイニングなどがあり、二階にも居住空間があるようであった。浩司はダイニングのさらに奥、畳間に小さなこたつとテレビが置かれた部屋に通された。テレビでは夕方のニュース番組の幕間のようなバラエティで地元のリポーターがオーバーなリアクションでスタジオの笑いを誘っていた。こたつの上には大きな黒光りする鉄の箱が置かれていて、その一部が開かれてケーブルが剥き出しになっていた。


 浩司は母の実家から届いた蜜柑の段ボール箱を、ダイニングのテーブルに置いた。叔父は箱を開け、中の蜜柑を一個手に取り、しばらく色々な角度からそれを見つめていた。


「……けっ、こんな念押ししなくても、ちゃんと行くっての。こういう露骨なとこあるよな、静江さんは。ああ、怖い怖い。」


 浩司は一瞬何のことか分からなかったが、直ぐに今回のお使いの目的が、本当は叔父への葬儀への出席の念押しにあったのだと分かった。


 浩司の祖父は、叔父にとっては本当の『叔父』であり、直接の子孫である浩司達と比べいささか遠い間柄である。また、叔父の父――即ち祖父の弟――が会社の権利を継いでからというもの、祖母との関係が悪化し叔父の一族は祖母が率いる浩司の家(敢えて俗な言い方をすれば『本家』)とはいささか疎遠になっていた。


 そんな訳で、関係性だけを考えれば茂叔父が葬儀に出席する必然性は薄かった。しかし現在叔父の経営するこの会社は祖父の興したものであり、母や祖母は筋合いとして茂叔父の参加を望んだに違いない。故に母は叔父に対し暗に、「お前の存在を忘れていないぞ」、と釘を刺してプレッシャーをかけたのだ。


「仕事中でちょっと汚いけど、勘弁してくれ。ほい、お茶。」


 叔父はお茶を入れた湯飲みと、開けたばかりの段ボール箱から二、三個取った蜜柑をぼん、ぼん、とこたつの上に置いて、自分は鉄の箱の前に座った。浩司は叔父のテレビを隠さないよう、叔父の斜め向かいに座った。


「仕事って、何ですか、それ。」


「これ?通信機。坂の下の上田さんって人が、海軍時代の経験でアマチュア無線やっててな。修理頼まれたんだ。」


「……ここ、家具屋じゃなくなったんですか。」


「事業展開さ、事業展開!」


「はあ。」


「主力は今でも家具だよ。まあ今じゃ注文なんてほとんどないから、修理や中古販売専門だけどな。社員も、親父の代からのじーさんの職人しかいないし。……そういえば今日、見てないな。家で凍死してないといいんだけどな。」


「笑えないっすよ……。」


 茂叔父はげらげら笑いながら、棒のような器具のスイッチを入れた。熱と、棒の先端の銀色の何かが溶けた甘いような臭いような香りが立ち込めた。


「こうちゃん文系だっけ。ハンダ。見たことあるかい?」


 浩司は首を横に振った。叔父は満足そうに微笑みながら、その棒のような器具で無線機から延びるケーブルをちょんちょんと触った。『新事業』とやらの仕組みは、機械どころか模型すらも碌に弄ったことのない浩司にはちんぷんかんぷんだったが、誰かに出来ないことを、技術を持った誰かがやる、というのは確かに正しい仕事のカタチであるような気がした。


「で、こうちゃん仕事は何してるんだっけか。」


「ああ……まあ一応、書店店員、みたいな。」


「ほお、ジュンク?文教?」


「いや……神保町の、ちっさな古本屋です。個人の。」


 茂叔父の興味は、却って浩司の精一杯の見栄を即座に両断した。浩司はこの人の前では下手な誤魔化しはしないでおこうという気持ちになった。デリカシーがないのか遠慮がないのか、とにかく茂叔父は人の弱みや誤魔化しを即座に素っ破抜ける天性の素質を持っているのではないかと思われた。


「へえ……ま、働いてるだけ偉いや。うちのは何も音沙汰ナシだもんなあ。」


「ええと……篤兄さん、ですか。」


「そうそう。あ、ちなみに俺離婚したから。」


 浩司は危うくお茶を吹き出しそうになった。


「へ、へえ……。」


「だから戸籍上は、もうあいつの父親でも何でもないんだわ。ま、年賀状葉は寄越すから、生きてはいるんじゃねーの。」


 茂叔父は本当に何でもないことかのように、軽やかな手さばきでケーブルのよりをほどきながら言うのだった。


「だからこうちゃん、こうしてちゃんと帰ってきて、それだけでえれーわ。大学出てからずっとその仕事?」


「ああ、はあ……院のお金貯めようと思ったんですけど、なんか、ズルズルと。」


「ふうん、何かやりたいことないの。」


 飽きるほど聞いた言葉、使い古された素性調査。浩司のような、希望も展望もない今をズルズルと生きている人間は、定期的にその踏み絵を通過し、『自分は社会で生活している人間です』とそれを求める人に対して表明する必要があるのだと分かっていた。今まで浩司は同種の問いかけに対し、数多の口先八丁でその場をやり過ごしてきた実績があった。しかし先程の記憶がよぎり、この叔父の前では、いつもの決まり文句が即座に紡げなかった。


「そっか……やることないんならさ、この会社継ぐかい?」


 浩司は一瞬身体が固まり、つい茂叔父の顔をまじまじと見つめた。叔父は相も変わらず作業に集中していて、まるで今言った言葉は酒の席での気心知れた相手との仕事の安請け合いの話であるかのようだった。茂叔父はそんな浩司の視線を察してか自分から喋り始めた。


「……別に冗談じゃねえよ。何なら今すぐ社長にしてやるよ。」


「いや……そんな冗談みたいな事、冗談じゃないって言われても。」


「ああ。まあねえ。」


 沈黙が訪れた。


「……勘違いするなよ、別に、会社辞めたくなったとかじゃないんだぜ。」


「あ……そうなんですか。」


「むしろ逆、俺の代で絶対にもう一度、この会社の名前を轟かせてやるって思ってんだよ。そのためにも、もう一度日本中、歩き回りたいの。」


「営業、すか。」


「まあそんなとこかね。人間、旅してる時だけが自分と向き合えるんだよ。一つ所に根を下ろしちまうと、どうにも、その土地にくっついた自分の影法師みたいなもんが視界を覆っちゃってさ。何も見えなくなるわけよ。」


 突然雄弁に語る茂叔父の目は、目の前の機械修理に集中しながらも、確かにどこか遠くを見ているような気がしなくもなかった。浩司は漠然と、これが働く人間の顔か、と思った。その日暮らし、停滞、無気力、浩司が今まで身を浸していたぬるま湯のような世界とは、確かに異なる冒険への渇望と将来への野心が、そこには光っているように思えた。浩司には俄に茂叔父が、この田舎でひと際輝くロマンの灯のように思えた。


「まあいいや。いいからこうちゃん、俺のメシヤになってくれや。」


 そして茂叔父はまた、本気なのか冗談なのか分からない、本気にしてはあまりに重い要求をして、ゲラゲラと笑った。その時、壁に掛けられた古臭いボンボン時計がくぐもった鐘の音で時刻を知らせた。午後四時であった。浩司は、祖父の納棺の時刻が迫っていることに気付いた。


 浩司が暇を告げると、茂叔父は湯飲みの残りを飲み干して大儀そうに立ち上がった。


「ま、通夜にはちゃんと行くって、静江さん――お母さんに伝えといてくれや。……俺だって、爺さんには感謝してるんだからよ。顔ぐらい拝みに行くさ。……死んだ後に急に会いに来られても、爺さんつまんねえだろうけど。」


 叔父は独り言のように付け加えた。その言い方からすると、恐らく茂叔父も晩年の祖父には会っていなかったようだ。浩司は、ふと疑問に思ったことを尋ねた。


「そういえば、祖父の死に目には誰か立ち会えたんでしょうか。」


「ああー……どうだっけ。亡くなったのはえらい早朝だったって聞いた気がするけど……施設から連絡きて、婆さんが早朝にタクシー呼んだって聞いた気がする。」


「じゃあ……祖母は立ち会えたんでしょうか。」


「俺が知るわけないだろ、本人に聞きなよ……。」


茂叔父は、口元をゆがめて答えた。それは祖母の話をするのを、露骨に嫌がっているようであった。しかし浩司には、祖母が叔父にまでこんなに嫌われていることよりも、気掛かりなことができていた。果たして、祖母は祖父を無事看取ることができたのであろうか、という事だ。自分も真琴も逃げ出した祖父の死を、看取ってくれた人はいたのであろうか、という事だ。


 会社の土間で浩司を見送るとき、茂叔父はそういえば、と言った。


「爺さんの知り合いでさ、二ノ宮、って人知ってるか聞いてみてくれんか。」


「はあ……いいですけど、誰ですか?」


「俺もよく知らないんだけど、会社の帳簿見返したら、見つけたんだよ。共同出資者、ってことになってた。」


 浩司は祖父の会社についてもとより詳しくないが、そのような人物の存在を聞いたことはなかった。聞くだけ聞いてみる、という当たり障りのない返事をして、浩司は会社を出た。


 日は既に随分と西に傾いていて、薄い青紫の空を背に町のすぐそばの山の陰に隠れそうになっていた。太陽が山裾に差し掛かると、目に入る全てに覆い被さるような大きな影が伸びてきた。


『一つ所に根を下ろしちまうと、どうにも、その土地にくっついた自分の影法師みたいなもんが視界を覆っちゃうんだ。』


 浩司は叔父の言葉を思い出していた。目の前には見渡す限り、水田や住居が疎らに散らばる故郷の街が広がっている。辺りが暗さを増すにつれて、家々には明かりが灯った窓が増えていく。浩司にはその明かりの一つ一つ、家とそこに住む人々が、この巨大な影を繋ぎとめる、朱色の待ち針を突き立てているかのように思えた。




 浩司が家に帰ると、間もなく祖父の納棺は行われた。本来は父の純一の帰宅を待つはずだったらしいが、仕事が長引いたせいで、帰宅時間は納棺に間に合うか間に合わないか紙一重のところらしい。父自身はもう少しで帰れそうなのに、と母に電話口で愚痴ったらしいが、「これ以上葬儀屋さんを待たせるなんて非常識なことができるか、どうにもならんことをグチグチ言うな」と母に一喝されそれっきり黙ってしまった、と後で真琴が言っていた。


 浩司が祖父の休む床の間を開けると、そこには母の静江、祖母の愛子、妹の真琴が並んで祖父の枕元に正座しており、祖父を挟んでその向かいに二名のスーツ姿の葬儀屋が膝をついていた。浩司は、どこに座ればいいか分からず真琴の隣、祖父の顔から最も遠いところに膝をついた。祖父は既に死に化粧を整え直され、その頬にはさっき見たときよりも、僅かに生気が戻っているように思えた。そして布団の下には、紋付の黒の、糊のきいた立派な羽織袴を着せられていた。


 ずっと昔に、納棺士を題材にした映画が日本中で流行った記憶がある。浩司も周囲の若者の例にもれず、その映画を観にいって、若く繊細で単純な感受性に大層な衝撃を受けた一人であった。その映画では、納棺を故人との別れの儀式として、優美かつ抒情的に、あたかも納棺士の一挙手一投足が名画をなぞる芸術家のものであるかのように描いていた。


 だが現実の納棺には、そのような繊細さはなかった。かといって、個人への敬意を欠いたようなガサツな振る舞いも勿論なかった。祖父は、ただ淡々と、それが残された者達とこの家への儀礼であるかのように、服を整えられ、手を畳まれ、葬儀屋二人で丁寧に持ち上げられると、檜の棺桶に収められた。棺に納められた祖父の顔を見て、真琴は泣き始めた。母はそんな真琴を黙って抱き寄せた。祖母の表情はよく見えなかったが、化粧をバッチリ整えた険しい表情で、祖父の顔を見ていた。浩司も棺を覗き込み、祖父の顔や、死に化粧で薄く色づいた表情、喧嘩の種になってまで着せられた立派な羽織をマジマジと見た。祖父の表情を見ていると、浩司には突然に過去の思い出がありありと思い出された。


 それは、年齢も正確に覚えていないような昔――恐らく浩司は小学校に入りたてか、入る前であったろう、真琴は幼すぎて一緒ではなかった――祖父の病状が変化し、一時的に大きな病院に入院した時の事であった。浩司は母と、祖母に連れられて祖父の見舞いについていった。その頃の祖父は、入院前から既にだいぶ呂律が回らなくなっており、浩司が祖父の言う事を聞き取れることはほとんどなかったように思う。何と言っているか分からない祖父に一々返事をしたり話を合わせようとする母や祖母、病院や施設の人達を見て、大人というのは凄く耳のいいものなのだな、とぼんやり思っていた。


 当時は、何故祖父が病院にいるのか分かっていなかったと思うが、大きな建物や廊下中にいる車椅子や杖の人達、よく分らない絵や臭いに、浩司は異世界にやってきたような気がして大層はしゃいでいた。祖父の病室を訪れ、母達が世間話をしていると、やってきた看護婦が祖父を車椅子に乗せた。祖父は車椅子を母に押されて、四人で一緒に院内を歩いた。このとき、浩司は初めて祖父と散歩をした。浩司が自分も車椅子を押したいと言ったら、祖父は、恐らくは喜んでいたと思う。浩司は初めて車椅子を押す感触に、まるで日曜の特撮番組に出るような巨大なメカの一部になったような気がして、大はしゃぎでスピードを出した。


「やめなさい。お祖父ちゃんこわがってるから。」


 母は言った。静かだが、厳しく窘めるような声であった。しかし当時の浩司はそんな母の声色の変化もすぐに気付けず、乱暴な運転で祖父を病室に連れて行った。帰ってすぐ、祖父はトイレに行ったばかりだというのに尿意を訴え、ベッドに寝たまま尿瓶に用を足した。乱暴な車椅子の運転が体に障ったに違いないが、浩司はそんな事にも気付けず、尿瓶に尿を垂れる祖父に、汚い、と言った。


 母は浩司を病室から遠く、誰もいない非常階段に連れて行くと、今度は大きな声で、激しく浩司を叱りつけた。浩司は一通り泣いてから、母に連れられて祖父に謝りにいった。再び訪れた病室で、祖父は頬を赤くして眠っていた。帰りの車で聞かされたところによると、祖父は泣いていたらしかった。


 ――祖父の死に化粧で染まった頬を見て、浩司はその事を思い出して死にたくなった。真琴とは違う意味で、泣きだしたくなった。泣いて、祖父に許しを請いたくなった。だがその願いは永遠に果たされることはないばかりか、もし祖父が生きていたとしても、自分はいたたまれなさから決して祖父に詫びることができないだろうとありありと分かった。それが浩司の中に芽生えた『恥』の痛みを、漆を塗ったかのように色濃く、消えないものにした。


 祖父の棺が葬儀社の車で運び出されると、床の間に集った家族はそれぞれに散っていった。浩司も自分の中に俄かに蘇った記憶に対処すべく、散歩にでも出ようかと思っていたら、真琴が鋭い肘で脇腹をどついてきた。


「え……なに?」


 悩んでいる最中の突然の痛みに、浩司は非常に情けない声が出た。


「お祖母ちゃんとこ……挨拶いったん?」


 真琴は横目で浩司をぎろりと睨んだ。


「まだだよ……さっき帰ってきたとこだよ。」


「じゃあ早く行きなよ。お祖母ちゃん、挨拶来るの待ってるから。」


「え、なんで?」


「知らんし、てか行くのが普通なんじゃない?何でもいいから、行けよ。遠回しに嫌味聞くこっちの身にもなってよ。」


 カリカリすると口が非常に狂暴になるのは、紛れもなく母譲りだ、と浩司は妹の中で育っている母の遺伝子を実感した。


 結局、父は納棺には間に合わなかった。




 浩司は親族へのお土産にと、念のため買っておいた数箱のひよこ饅頭中から一箱を引っ掴み、祖母が暮らす母屋に足を踏み入れた。田宮家は、主に祖母が暮らす昔ながらの母屋と、両親が子供たちと暮らすために新築した離れが廊下で繋がっている造りになっていた。


 油が薄くなったアルミサッシの引き戸を開く。そのガタつく冷たい扉が、祖母の母屋と浩司の家との境界だった。冬でも仄かにカビの臭いのする廊下を渡り、真っ暗なダイニングを明かりのする方に歩いていくと、祖母の愛子は畳敷きの居間で、炬燵に入って編み物をしていた。つい先ほどまでの重厚な化粧はすっかり落とされて、なんだか一気に老けたように思えた。


「お祖母ちゃん、お久しぶりです。」


 浩司は膝をついて、お土産の饅頭の箱を炬燵の上に置いた。祖母は、なんだか実に無邪気で、華やかなような笑顔を咲かせて、「まあ、まあ」と言いながら膝を直した。


「まあ、こうちゃん……久しぶりやね。元気でやってるの?」


「うん。まあ、お陰様で。」


「ああ、そう。いま、大学院で研究だっけ?大変ねぇ。」


 どうやら祖母の解釈では、浩司は大学院で歴史研究中の真面目な学生であるようだった。その心の痛い間違いを、訂正した方がいいのであろうか。もし訂正するとしても、どうすればこのプライドが高く権威主義的な祖母を、がっかりさせないやり方で今の浩司の現状を伝えることができるのであろうか。だが浩司の心配は、祖母が次から次へと、寒さに気をつけろだとか、ちゃんと食べてるのかだとか、そんな小さな心配を次から次に訪ねてくる祖母に一つ一つ相槌を打つうちに、あやふやになってしまった。


「お祖父ちゃんのお葬式、出てくれてありがとうね。お顔も見にきてくれて、お祖父ちゃん喜んでるわ。」


「うん……俺も会えてよかったよ。」


 嘘である。浩司には、祖父が喜んでいるのかも、自分が本当にここに来たかったのかも、分からなかった。そうして心にもない相槌を一つ吐く度に、浩司は帰省して祖母に挨拶に来た孫を演じる自分の姿を、冷めた目で俯瞰している気分になった。


 自分の家の屋根の下に、自分ではない何者かがいる。田宮浩司として振る舞う、何者かが。


 祖母との会話の最中に、このような乖離を感じるのはこれが初めての事ではない。幼いころは、祖母は浩司達兄妹には常に優しかった。優しかったというより、甘かった。夕食前のお菓子も、祖母のところに遊びに行けば許された。誕生日のプレゼントは必ず両親とは別にもらえたし、しかも決まって、早く、高いものを買ってきた。しかし浩司が中学に上がり高校受験を意識するようになってからは、祖母は遠慮がちに「いい高校に入れるよう頑張りなさい」とか、「お父さんみたいなお医者さんになりなさい」みたいなことを言うばかりで、その様子があまりに腫れ物に触るようで祖母自身が深く関わるのを避けているようだったので、浩司は結局祖母の甘さは、『祖母と孫』という関係性をつつがなく執り行い、しかも『孫』という存在に両親より好かれていたい、というためだけだったのを悟った。それは、同じように成長していく真琴に対しても、やはり浩司に対してかけたのと同じような言葉をかけているのを見て、核心になった。祖母が欲しかったのは、両親より祖母に懐き、祖母の期待を満足させる成長をする、『よい孫』であったのだ。


 浩司がこのような考えを持つに至ったのは、丁度その頃から、祖母と両親との確執や、祖母の人間性、祖母のかつて自分のものだった会社への執着が、鈍感な心にも感じ取れるようになってきたことも、無縁ではない。


 現にこうして話している最中にも、祖母は不自然なほど父や母の事については触れようとせず、廊下を挟んでいるとはいえ同じ屋根の下で生活していることを疑いそうになるほどであった。一方で、かつての会社の繁盛ぶりを何かにつけて強調して、「もし会社がまだ元気やったら……」と話を〆た。おかげで浩司は、自分が心配されるたびに全て悲観的な結論にされてしまうので、話半分に聞いていても暗澹とした気分になった。しかしそれだけ会社の話をしても、祖母は社長であった祖父の事については何も触れなていなかった。


「それで、どこか出かけてたみたいだけど、どこに行ってたん?」


 浩司は、隠すような事でもないと思い正直に話した。


「ああ。ちょっと、母さんに用事を頼まれて……茂叔父さんの所へ。」


「ふうん……茂くんとこねえ。」


 祖母は、それまで通りの笑顔を微塵も崩さずに何度も首を縦に振った。その感情の読み取れない、読ませまいとしているかのような笑顔だった。


 浩司は、ひとつの情報に信憑性を得た。それはもともと、真琴から聞いたことで、当初は妹の予感、思春期少女のから騒ぎ、と取り合っていなかったが。


 どうも祖母は、会社の経営を取り戻したがっているらしいのだ。


 果たして今の状態の会社を取り戻したとして何になるかは甚だ疑問ではあるが――浩司はそれが祖母なりの、祖父の業績と、我が子のごとき会社への思い入れ、祖父への愛情の一つであればいいと思った――茂叔父から会社を取り戻したがっているという事が、茂叔父への頑なな態度や話の節々に匂わせる会社への執着から、今ははっきりと感じられる気がした。


「そういえばお祖母ちゃん……二ノ宮さん、って知ってますか。」


「ふうん……だあれ?」


「叔父さんが、帳簿で見つけた……会社の、共同出資者?……らしい人。」


 祖母はまた、微笑を崩さずに何度もうなずいた。そうして一言、知らない、とだけ言った。


 しかし、それはおかしい。浩司は、祖父の現役時代は祖母が副社長兼経理として会社を切り盛りしていた、といつか母に言われたように記憶していた。会社の経営、お金の管理を一手に行っていた祖母が、共同出資者の存在を知らないはずが無かった。


 しかし、微動だにしない祖母の笑みはそれ以上の追及を一切許さず、潰れたように細めた目の奥底から浩司を牽制しているように感じた。浩司は、それ以上の事は何も聞かなかった。そして『二ノ宮さん』の事も、祖父の最期の様子の事も聞けず、浩司は食事の時間だから、と言ってそそくさと祖母の部屋を後にした。


 祖母の部屋を出たとき、浩司は母屋のダイニングの、死角になりそうな壁の角に掛けられた、社長時代の祖父と、社員たちとの写真を目にした。既に祖父の麻痺が進行していた時期らしく、写真の中の祖父は車椅子に座って膝の上に杖を乗せていたが、眼力はなお溌溂として、数名の社員と共に工場の前に並んでカメラに笑顔を向けていた。浩司の記憶ではその写真はずっと前からそこにあった気もするし、遺品整理の中から出てきたものを祖母が額に収めてつい最近飾ったような気もした。なんにせよ遺体も運び出され、恐らくは仏間にもまだ並んでいない祖父の、この家での最後の居場所がそこであった。


 写真の日から今日まで、祖父が歩んできた長い長い人生とは無縁の場所で、祖父は全てを忘れたように笑っていた。




 浩司が家に戻ると、父の純一が帰宅していた。父は祖父の納棺に立ち会えなかった不満を隠そうともせず、ムスッとしてリビングに座っていた。が、浩司が戻ると流石に少しシャンとして、おかえり、と言って浩司の近況などを訪ねてきた。浩司は、常日頃からLINEなどしている真琴はさておき、まるで自分の不在に気付かなかったかのような母よりも、いつも通りおどおどと気を使ってくる祖母よりも、少し他人行儀になった父との会話が一番楽なのを不思議に思った。


 久しぶりに会った父は、声の大きさが全然変わっていない母とは異なり、如実に老けたように思えた。髪はより薄く、白くなり、仕事の疲れでぐったりとソファに腰かける姿からは、体力も気力も衰退し、かつては太い幹に純水を満ち満ちと漲らせた木のようだった力強さが、すっかり干からびてひしゃげて、材木置き場の片隅に打ち捨てられた萎びた薪のようだった。


 いや、むしろかつての自分が、父の活力を過剰に思い込んでいたのかもしれない、と浩司は思った。浩司には、小さい頃の父の思い出が薄い。忙しいとはいえ、人並みに子供とも遊び、家族サービスも欠かさなかった父だが、浩司にはどうしても子供時代の父の印象が薄く感じられた。中学生ぐらいのとき、母と二人きりの時にその事を打ち明けてみると、母は「父親とはそういうもんよ」と言っていたが、その顔は少し嬉しそうだった(その時浩司は、たとえ夫婦であっても人間関係に『対等』という者は存在しないのだと気づいた)。そんな事があってから、浩司は父との思い出について、より注意深く記憶に残そうと努力してきたが、結果はあまり効果が無かったようだ。




 疲れた父は、母が用意した夕食を黙々と食べ、缶ビールを一本飲むと早々に風呂に入り寝てしまった。真琴は0時ぐらいまで部屋にこもって受験勉強らしかった。浩司は、母と二人、リビングでビールを飲むことになった。


 母は、父の定年が近い事、真琴の受験が心配な事などをつらつらと話し、たまに脈絡なく母の嫁入りの思い出や当時の田宮の家の様子などの昔話に飛躍した。それを浩司は、不器用な相槌を打って聞いていた。浩司も母に、近況をなるべくオブラートに包んで話した。すると母が、驚くことに浩司に将来についての質問をした。


「元気なのが一番だけど。あんた、これからどうなりたいとかないん。」


 その質問は浩司にとって意外であった。浩司は、母は自分に関してはすっかり放任主義に徹していると思っていたからだ。浩司は昼、茂叔父に言われたことを思い出した。そして、ここ数年ずるずると引きずってきた昔の目標と比較した。


「……昔は好きな歴史を、仕事にしたいって思ってきた。」


「うん。」


「でも……今日、茂叔父さんから、会社継がんか、って言われたよ。」


 あんな倒れかけの会社に関わる奴がいるか、と言われるかと思ったが、母はすぐには否定しなかった。だが、代わりに限りなく難しい質問を浩司に投げかけた。


「……あんたは、それでいいん。」


 ……それでいいん、とは何だろう。何がしたいのか、何をしなければならないか、でもない、それでいいん、とは。自分にとって何が『いい』のか、浩司は答えに窮した。母の穏やかな声色は、自分が突き放されているとも、期待の外にあるとも感じさせなかった。だからこそ、自分にとって何が『いい』のかを決めることは、自分が何をしたいかとか、何が好きかという質問よりもはるかに深い所に位置しているように思われた。


 浩司はただ、わからない、と言おうとした。だがそのたった一言は、何かに迷うように重苦しく、まだるっこしい感じで喉の下の方でつっかえて、出てこなかった。


 母は、その沈黙をどう受け取ったのか、溜息をついて浩司の肩に手を置いた。二十代も半ばになった自分に触れる母の手は、枯れた枝のように固く、呪術的に温かかった。浩司は、何についてだか分からないが、遮二無二我を忘れて、謝り倒したいような衝動に駆られた。


「お母さんもね、お嫁に来た頃は悩んだことがあったんよ。お父さんもお祖母ちゃんもいないところで泣いたりもしたの。」


 浩司は、なんで、と、幾度も繰り返した不器用な相槌で聞いた。


「ここのお祖母ちゃんに色々言われんのが耐えられんくってね。お父さんも遅かったし、お母さんの味方になってくれたんは死んだお祖父ちゃんと、敦子さんだけやったんよ。」


 敦子、とは確か、茂叔父の母に当たる人であった。


「あるとき敦子さんがね、嫁に来たんやからもうめそめそ泣かんとき!って。腹括ってここの家に来たんやろ!って。」


「……格好いいやん。」


「そうよ格好良かったのよ。今、ぼけたお婆ちゃんになってしまったけど。」


 母は、どうせ明日会えるから久しぶりに挨拶しなさい、と言った。


「……なんで、そんなに苦しかったん。」


「あんたは想像つかんかもしれんけどね、お祖母ちゃん、すっごく口汚かったんよ。今じゃ言えんくらい、酷いこと言われてね。……まあ、今でも性格は変わってないけど。」


 それは、浩司や真琴の前でおどおどしながら微笑む祖母の姿とは程遠いイメージであった。


「……信じられない。」


「あんたや真琴の前では、孫に嫌われたくないから猫被ってんのよ。お祖母ちゃんってそんなもんよ。昔はね、お祖父ちゃんに対しても、ひどかったんだから。」


 浩司は驚いた。こうじにとって、それは特にショッキングな事実だった。確かに、祖父と祖母が生前どの様なやり取りをしていたか、浩司の記憶にはない。浩司が祖父の施設に付き添うときは大抵母や真琴が一緒だったし、文句ひとつ言わず週に何度も洗濯物を代えに行くという事はやはり祖母は祖父の事を思っているのだろうと、勝手に考えていた。祖母が今、会社を取り戻そうとしているのも、やはり祖父を思う心からではないかと、浩司は勝手に期待していた。


 だが、浩司の記憶よりさらに前……祖父が施設暮らしになる前、真琴も浩司も生まれる前には、祖母の振る舞いは今(というより浩司達に見せる姿)とは全く異なるものであったらしい。良家のお嬢様だった祖母は、我が強く、関西の田舎者である母にもそれはきつく当たって一挙手一投足に自分の常識を押し付けきつい言葉で抑えつけていた。祖父母の関係についても、決して円満なものではなかった。祖父が健在なうちはまだよかったが、戦争の後遺症で麻痺が進行し、食事やトイレにも介助が必要になると、お嬢様育ちであった祖母はその世話を嫌った。母を家政婦同然にして祖父の世話をさせ、祖父が粗相をすると酷い言葉でそれを罵った。


 それは浩司が生まれ、ほぼ同時に祖父が施設に入るまで続いていた。


「……お祖母ちゃんは、お祖父ちゃんのこと、好きじゃなかったんかね。」


 浩司がそう聞くと、母は可笑しいような、呆れたような感じで笑った。その表情を見て、浩司は自分が夫婦の関係性の複雑さを理解していないと言われているような気になって、質問を変えた。


「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、何で結婚したんかね。」


 母は、その質問になら答える価値がある、という風に笑いを抑えて、浩司を見た。


「戦前のことよ。それもこんな田舎で。……家同士で決められたんよ。」


 名前だけは古い地元の良家の令嬢と、地元から身を興した新興産業の長男の結婚。もっとも、戦後の祖父の会社の急成長に伴い、家同士の力関係は逆転したが。少なくとも結婚当時は、祖父と祖母の関係性は家柄的に、祖母の方が立場が上であった。そして母は、こう付け加えた。


「お祖母ちゃんはね、他所に好きな人がいてたみたいだけど。家の決め事は絶対だから。」


「そうなの。……その人は?」


「知らない。でもあの時代だし、兵隊にとられたんじゃない?」


「ふーん……。」


 浩司は、直接祖母に聞けなかったことを母に聞いてみることにした。


「もうひとつ聞いていい。……お祖父ちゃんが亡くなった時だけどさ。お祖母ちゃんが行ったって、聞いたんだけど。……お祖母ちゃんは、間に合ったのかな。」


 母は、悩むような沈黙ののちに首を横に振った。


「……間に合わなかったん。」


「多分やけどね。お祖母ちゃんは間に合った、って言ってるけど、お母さん違うと思う。」


 祖父が亡くなった早朝、母は家の前に車が止まる音で目が覚めた。それは恐らく、祖母がタクシーで施設に向かう音だったが、母が寝ぼけ眼で見た時計の時刻からすると、祖父の死亡時刻にはどうやっても間に合わないだろう、言うのだ。祖父の死に目の様子を祖母が話しているとき、母は一度思い切ってその事を指摘してみた。すると祖母は、酷く憤慨した様子で長い間の祖父の看病の苦しさや、周りの目の厳しさ、祖母が如何に献身的に祖父に尽くし、母が如何に役に立たなかったかをあげつらって、母を黙らせた。その苛烈さたるや、久しく祖母に対して負け知らず出会った母の饒舌を、完璧に封殺するほどであったという。その様子は、聞いているだけで浩司の胸が痛むものであった。


 その話を終えると母は、流石に疲れた、明日も大変だから、といって残っていた酒を飲み干し、二階の寝室へと上がっていった。浩司は、母が話し疲れる姿というものをはじめてみたような気がした。その背中を見送ると、リビングには痛いほどの静寂が訪れた。浩司は暫く、一人リビングに座っていた。古く傷んだ蛍光灯の明かりが疲れた脳を締め付け、静けさが耳に刺さる中、浩司は不意に、若い母がこの部屋で一人で泣いているさまが思い浮かんだ。想像の母は何度も、帰りたい、帰りたい、と言って拳をテーブルに押し付けていた。


 数十年。母がそうやって耐え忍んだ時間の延長線上に、自分は今座っている。母の人生、苦しみは、静寂の中に耳鳴りとなって、壁に、キッチンに、ソファに……この家中に、確かにこびり付いていた。




 浩司は、頭の中をぐるぐると回転させながら床に就いた。母の事、祖父の事、祖母の事、自分の事、この家の事……。


 祖母は、祖父の死に目には間に合わなかったのだ。つまり祖父は、家族に看取られる事もなく、一人で旅立っていったのだ。祖父は、どんな思いで旅立っていったのであろうか。もし、自分が駆けつけていたら、何かが変わったのだろうか。


 その仮定は傲慢でしかなかった。恐らく自分は、何があっても、どんな可能性があっても、祖父の危篤の知らせを聞いて駆けつけるという事は無かっただろう。


『あんたは、それでいいん。』


 母のその言葉が、浩司の胸で膨れたり縮んだりしてのしかかっている。それでいい、とは何だろう。何がしたいのか、何をするな、何をしなければならない……浩司の人生の指針(あるいは指針以下の行動原理)となってきたのはそればかりであった。祖父の危篤の報を受け、動くことができなかったのは、つまりはそんな重さも複雑さも無い価値観が、浩司に危急の目的意識を抱かせなかっただけなのだ。つまり浩司は祖父の危篤を聞いても、『何もしたくならなかった』。そして祖父が亡くなった今、『何かをしなければいけない気になった』。妹には見識のある兄、親族には聞き分けのいい人間を演じていても、そんな自堕落で、刹那的で、無責任で、ひもじくて、灰のような在り方が浩司の全てだった。


 自分にとって何がいいのか――言い替えるなら、自分はどういうものになりたくて生きているのか――を言葉にするには、浩司には明確に人生経験も、何かを目指す衝動も、人間性の強度も欠けていた。


 浩司は、未だに自分が、行儀のいい子供、に戻りたがっていることに気付いた。祖父の通夜に戻ってきたのも、奔放で偕楽な茂叔父に憧れを抱いたのも、祖母の遠慮がちな気遣いに背筋を伸ばして微笑み返したのも、全てそういう事だった。


 ――ああ、自分は25歳になっても、みっともなく子供のままである。自分自身の人生と向き合う事から逃げ続けた、引きこもりである。しかも、自分の実家の中にすら引きこもりの場所を見つけられなかった臆病者である。


 浩司にとっての引きこもりとは、神保町の静かな古書店に、カビの香りの充満した仮住まいの六畳一間に、何度も捲った本のページに、ちっぽけな頭の中の既に知った知識の片隅に、自分を千切って、押し込めて、現状と自分との楔を何重にも張り巡らせることであった。


『あんたは、それでいいん。』


 窓ガラスがガタガタと揺れている。とても三月とは思えないような強い風が吹き、木々の隙間を低く唸らせていた。突風で家が軋むたびに、浩司は自分が不在だったこの家での十年間が、すんなりと自分のものになっていくような気がした。そればかりではなく、この家で過ごした記憶、自分が生まれる前、この家が建った瞬間……そうした連綿と続く膨大な時間が、木材の軋みや窓のサッシが揺れる音を借りてはっきりと浩司に語り掛けてきた。


 浩司は目を見開いた。数杯の酒を飲んだにもかかわらず、頭は白昼のように冴えていた。布団を抜け出し、足裏を焼くような冷たさの床にしっかりと両足を踏ん張り、今度は直接、荒れ狂う外の様子を見た。部屋の窓からは二軒ほど離れたところに木々に囲まれた公園が見え、その木が風で大きく、ゆっくりと幹を揺すっていた。


 変わりたい、と浩司は思った。今の、未来からも、家族からも逃げ、自分の感情も思考も放棄した毎日から、抜け出さなければいけないような気がした。


 そう感じた理由は、自分が止まった時間に逃げ込んでいる間に、祖父と向き合っていた妹や、傾いた会社でなおも未来を夢見る従伯叔父に接したからかもしれないし、自分が生きるのを投げ出すずっと前から、懸命に家と戦ってきた母の、親としての優しさにもう一度触れたからかもしれない。大昔のある時から立ち止まったまま老けていくような祖母の姿を見たからかもしれない。自分が向き合う事も知る事すらせず、自分の中の遠い記憶に捨て去ってきた祖父の、想像も及ばなかった人生の一端を垣間見たからかもしれない。何にしても、今、この帰省の最中を逃しては、自分はもう一生進みだせず、古本屋と四畳一間の部屋のカビとなっていくような気さえした。


 外の風はなおも轟々と激しく唸っており、収まる気配がない。しかし空は、異様なほど晴れ渡り、月の光が一直線に浩司の部屋を照らしていた。


 ――皆、怒っている。こんなことに気付くために、のこのことこの家に帰ってきた自分に。そんなことすら、祖父の死を借りなければできなかった自分に。


 浩司は遂に一転の曇りなく冴えわたった自分の頭と、今すぐにでもこの風の中に飛び出して走り出したいくらいの衝動を抑えつけて、再びベッドに潜り込んだ。


 その夜浩司は、卵黄色の霧の中、歩き続ける夢を見た。霧の正体は空から降り続ける灰であり、静かに雨も降っていた。夢の中で浩司は、胸に刺さった灰に咳き込み、汚れた雨でどろどろになりながら、足を引きずって歩き続けた。灰の霧の中では、祖父と、祖母の怒鳴りあう声が一面に反響し、浩司はその声のする方を探し続けた。やがて泥水は膝元に達し、腹にまで達し、遂には全身をすっかり沈めた。浩司は泥水の中で目を閉じ、重い足を引きずるように前に進めようとしながら、そのまま夢の、さらに奥深くへと沈んでいった。

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