第11話 鬼斬り丸⑧

光育は、林泉寺の本堂で禅を組み、経をあげていた。キーーーン。「うん?」遠東から聞こえる奇妙な音に、光育は耳を澄ませた。「……雷霆

らいてい

の嘶き」光育は、ガバリと立ち上がって、林泉寺を後にした。


「困ります。誰も通すなと、殿より申し付かっておりますので」


景虎の直近、直江神五郎が、必死に光育を止めていた。


「うるさい!この天室光育が我が弟子に会うのに、止められる筋合いは無い!!」


「お待ちくださりませ、光育様!!」


光育は神五郎が止めるのも聞かず、ズカズカと栃尾城の奥へと歩を進めた。


「入るぞ!」


光育は乱暴に襖を開け放ち、景虎のいる座敷に足を踏み入れた。


神五郎は襖の外で片膝を折って、部屋に入ろうとはしなかった。


「痩せたのう」


変わり果てた愛弟子を見て、光育は憂いの目を向けた。


「お師さま。御久しゅうございます」


景虎は、物憂げにほんのわずかだけ頭を下げて会釈する。


景虎の膝の上には、白い子犬が抱かれていた。


「闇に取り憑かれたか」


光育はジャラリと、懐から数珠を取り出した。


ウウウウゥゥーーー


景虎の膝に抱えられていた子犬が、光育に牙を剥いた。


ガッーーー


と、子犬が大口を開けて吼えると、口腔から光育目掛けて稲妻が走った。


光育は、数珠を握りしめた片腕を突きだして、稲妻を弾き返した。


「お前の主をどうするわけではない。悪いが、そこをどいてはくれぬか?」


さすがは、高名で知れた『林泉寺』の住職を長年やってきただけあって、光育が子犬にかける声は、いかにも高僧、と思わせる優しい響きだった。


光育の微笑に納得したのか、子犬は牙を収め、尻尾を振りながら、ぽてぽてと部屋の片隅まで歩いていって、ちんとお座りした。


「ほう、僕の為にありがたいお経でも、読んで下さると言うのですか」


景虎が元気をなくしたまま、嫌な笑みを浮かべる。光育を見る景虎の目はやぶにらみになっていた。


「有難いか、有難く無いかは、お主次第じゃがな。お主このままじゃ、闇に呑まれて、命を落とすぞ」


眼の奥に光を宿して、光育が焦点の合わない景虎を睨む。


「いいんですよ。死んでも。むしろ僕が死んだ方が、光育様だって嬉しいんじゃないですか?へへっ」


へらへらと笑う景虎の目が、所在なげに虚空を泳ぐ。


光育はふ~。っと、深いため息をついて、手を合わせた。


オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ 

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ


「お祓いですか?そんなの効くわけないじゃないですか。僕は物の怪に取りつかれている訳でも、病でもないんだから。僕自身の問題なんだ。お師さま。悪いが今日は気分が悪い。出て行って頂けませんか?それとも、呪詛でも唱えようと言うのですか?悪いがそれも効きませんよ」


景虎はどす黒い光を瞳の奥に宿す。


オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ


「効かないって言ってるだろうが!!神五郎!!この老いぼれを摘み出せ!!」


「しかし」どぎまぎとして、神五郎は立ち上がれないでいる。


「何をしておる!!」甲高い怒声が、神五郎に浴びせられる。


「は!」神五郎が立ち上がろうとしたその時、「入るな!」と光育が額から汗を流して恫喝した。


「切る」景虎は、刀台に掛けてある、鬼斬り丸に手をかけた。が、鬼斬り丸は当然の様に抜けない。


「クソが!」景虎は鬼斬り丸を投げ捨てて、脇差を抜いた。


臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前


渾身の力を込めて光育は早九字を切った。


「効かぬわ!!!」羅刹の様に目を吊り上がらせる景虎は、大きくかぶりを振って足を一歩踏み出した。

次の瞬間、峻烈な光が光育から放たれた。早九字の文字が刻み込まれた玉が宙に浮かび、景虎を取り囲む。


「何だこれは?これは?鬼斬り丸の洞窟で見た、止めろ、来るな!止めろ、止めろ!」


脇差を闇雲に振り、おろおろとしている景虎の姿は、まるで死期が近づいた病人が、死神

しにがみ

を追い払っているようにも見える。


景虎を囲む玉の輪が狭まり、景虎の体が締め付けられていく。


「なんなんだこの光は?苦しい。息が出来ない。そんなに僕を殺したいなら、ひと思いに殺せばいいじゃないか!殺せ!殺せ!殺してくれ!!!」


玉が放つ光に悶絶し、景虎は狂ったように叫んだ。


「景虎!!」悲鳴を上げたのは、虎御前だった。光育の使いの者が、虎御前を栃尾城に呼んだのだ。


「虎御前殿よい所へ、こちらへ」全身に汗をかいて、呪文を唱え続けていた光育が、虎御前を景虎の前に立たせた。


状況が読めず、目を泳がせる虎御前に光育は


「虎御前殿、今こそ、景虎に真実を。そなたの守護印呪を唱え成されませ」


虎御前は、苦悶の表情を浮かべる景虎と光育を交互に見やり、手を震わせながら、印を結ぶ。


オン・マカシリ・エイ・ソワカ オン・マカシリ・エイ・ソワカ

オン・マカシリ・エイ・ソワカ オン・マカシリ・エイ・ソワカ

オン・マカシリ・エイ・ソワカ オン・マカシリ・エイ・ソワカ


虎御前の体が柔らかな光に包まれ、白光の輪が広がっていく。光が虎御前と景虎を包み込んだ。


パラパラ。景虎を捕えていた早九字玉が畳に落ち、光育の許へと転がっていく。


白光の中に吉祥天が現れ、景虎を優しく抱きしめた。


景虎の脳漿に鮮明な映像が投影される。


そこには、龍と鬼子母神の子として、後ろにいる吉祥天が生れ落ちた時から、甲冑を身に纏った男神との恋物語までもが、映し出されていた。両親に反対された二人は駆け落ちしたが、失敗し、吉祥天は両親の元へと連れて帰らされた。時が経ち、吉祥天が転生することとなった。生れ落ちた場所が、上田長尾家景隆の屋敷であった。虎御前が15の時、井戸で水を汲んでいると


「随分、探したぞ。ラクシュミー」


と背後から優しい声がした。振り返ると、甲冑を全身に纏った闘神が立っていた。虎御前は気を失って、その場に倒れ込んだ。その夜、


「そなたの、肉体を貸して頂けないだろうか?」


吉祥天から理由を聞かされた虎御前は、元来の信心深さからか、静かに頷いて了承した。


それは、奇しくも、為景から求婚を迫られていた時だった。吉祥天は虎御前の枕元に立ち、意識に語りかけた。


御前は、しばしば前世の自分に体を貸与した。貸与している間の記憶は、虎御前には無かった。ほどなくして、景虎が生まれた。景虎は父であろう男神の優しく力強い腕に抱かれ、健やかに眠っていた。吉祥天は傍らで、優しく微笑んでいる。そこで、映像は途切れた。


険しく吊り上った景虎の目が、救われたように和らぎを取り戻していく。


「母上」


虎御前は印を結びながら涙目を、景虎に向ける。


「僕の、僕の父上は誰なのですか?」


背中から優しく体を包む吉祥天に、景虎は首を捻って聞いた。


吉祥天は微笑み、景虎の掌を、人差し指でちょんと差した。


『臨』の文字が浮かび上がる。


早九字の臨の文字は、毘沙門天を意味する。林泉寺で長年修行してきた景虎。もちろん、それぐらいのことは見知っていた。


「僕の父上は、毘沙門天様なの?」


首を捻って、吉祥天に顔を向けると、吉祥天は微笑んだまま、コクリと頷いた。


涙を零す虎御前に景虎が視線をやると、御前も吉祥天同様に頷いて答えるのだった。


景虎と虎御前を包んでいた光が弱まり、消失した。


「そんな、そんなことって……」


全身の力が抜ける。だらりとうな垂れ、倒れ込む景虎の体躯を光育がガシリと受け止めた。


「毘沙門天は、四天王の中でも最強と言われておる。しかし、天界一の悪童。万の邪鬼を引き連れて、非道の限りを尽くしていたのもこと実。タクシャカ竜王と鬼子母神の反対を受けた吉祥天は、天界ではどうすることも出来なかったのじゃよ」


「現世に生れ落ちた吉祥天様を追いかけて、毘沙門天様が私の元に現れたという訳なのです」

「そして、母上は僕を身ごもった」


虎御前がゆるりと首を立てに振った。


「だけど、人と神の間に子が生まれるのですか?光育様!」


光育に詰め寄る景虎の肩に、虎御前がふわりと手を掛けた。


「私はこの身をお貸ししただけ。吉祥天様と毘沙門天様のお子が、私のお腹 に宿っただけのことなの」

「僕は……神の子なのですか……」


虚空を見上げて景虎が零した。


「毘沙門天は善悪の両面神。吉祥天しかり、母を人の子を喰らう鬼子母神に持ち、父は視毒で見るものを死に至らしめる、タクシャカ竜王である。今は天に帰しているが、善神悪神の両面がお前には備わっている。闇に心奪われれば、悪鬼となりて、現世を地獄と化することとなろう。善神と化するならば、乱世は鎮まり、日の本は景虎様の加護により、戦の無い平和な世の中となり得るでしょう」


光育は景虎に手を合わせて、頭

こうべ

を下げた。


「だけど、僕は母上の子ですよね」


不安げな表情を浮かべる景虎。


「勿論ですよ」


虎御前は両手で力一杯景虎を抱きしめた。


「母上の匂いだ」


景虎は虎御前の胸に顔を埋める。景虎の胸中にぽう(・・)と光が燈り、柔らかな熱を帯びて広がり始めた。


「暖かい」


景虎は憑き物が取れたように、穏やかな顔をしていた。


 子犬が景虎に歩み寄り、ぺろぺろと景虎の顔を舐めた。


 「守護に雷獣まで使わせるとは、毘沙門天様も親馬鹿よのう」


 まったく、と言う風に、光育は小さくかぶりを振るのだった。


つづく

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