【赤焔】のプロローグ

 豊かな自然に包まれた穏やかな空間が、灼熱の炎に囲まれた地獄になった。

 ひとつの水晶から飛び散った火が、僕がいた屋敷にあるものすべてに燃え移る。炎はあっという間に屋敷にいたみんなを取り囲み、灼熱で僕らを追い立てた。みんなは事態を呑み込むこともできず、着の身着のままで逃げ惑い、火の粉が吹雪のように吹き荒れるなかを海まで走った。

 少し前までくつろいでいたはずの場所が、炎に焼かれて音をあげながら砕け落ちていく。逃げおおせた先の砂浜で、その有り様を呆然と眺めることしかできなかった。

 そして気づく。

 ——あの子がいない。

 大人たちの制止を振り切って僕は走っていた。


 炎が噴き出し煙が覆う屋敷に窓から飛び込んで、火の粉の風を浴びながらも廊下を駆け抜ける。そして、あの子を見つけた。彼女は炎に取り囲まれ、机の下に隠れて泣いている。

 僕はそばにあった花瓶を手に取り、近くにあったシーツに水をかぶせた。それを手から腕にかけて巻く。めいっぱい力を振り絞り、燃える角材やカーテンといった火種を彼女のそばから吹き飛ばした。

 視界が、僕と彼女を繋ぐ——。

「セト」

 この時の彼女の顔が、僕の脳裏に強く焼き付いた。

 僕は息も絶え絶えになりながら、なるべくゆっくりとした声で、

「けがは……ない?」

 ぜえぜえとだらしなく、肩で息をしながら言う。

 頷く彼女の顔を見ただけで、ふいに力が沸いてきた。この大火事の渦中であえて、笑ってみせた。


 持っていたスカーフを彼女の口に当て、火煙を吸い込まないようにしてから彼女の手を引き、走りだす。自分が火の粉をはじき、彼女は後ろにくっついて走った。

 息をするのも苦しい。喉が焼け爛れそうだ。いちど息を吸うたびに見えない炎が自分の喉を焦がしている気がする。

 僕と彼女を繋ぐ手に、彼女のお守りが握られていた。手のひらに収まる水晶が、この熱の中で僕らの体を冷ましてくれる。

「大丈夫。もう大丈夫だから」

 走りながら、呪文のように同じ言葉を繰り返していた。彼女の手を握ったまま、子どもながらに必死になって走り続ける。そして、自分が入ってきた窓のある部屋に辿り着いた。

 彼女を先に行かせ、窓から外に脱出させる。すぐに家から離れるよう叫び、言った通りに離れてくれたのを確認して、ようやくほっとした。彼女を助けることができて火の手からもどうにか逃げ出せそうだった。


 それなのに、天井から柱と梁がミシミシと砕ける音がする。


 上からやってきた不吉な音を感じ取って一瞬の後、炎を纏った重たい塊が自分を叩きのめした。さっきまで視界の先にいた彼女が、一瞬で見えなくなった。

 床に叩きつけられ、降ってきた梁の炎が背中を焼く。反射的に身を捩ったまま押さえつけられ、目を開けたら視界の先には炎に焼き砕かれた部屋の入り口が見えた。さらに本棚が倒れかかり、それが僕の足を潰す。本棚に飾っていた写真立てが音を立てて床に落ち、目の前で飛び散ったガラスの破片が動けない僕の左目を襲った。まぶたの上を掠める。あやうく眼球に刺さるところだった。

 足腰は焼け焦げて潰れ、視界はぼやけ、もはや身動きは取れないに等しい。燃え盛る炎の熱が木の床を通じて僕の頬をじんわりと焼いた。

 皮膚が、目の奥が、喉から肺まですべてが焦げるように熱い。火煙を吸ってしまったのだろう。喉から音を絞り出そうとしても、嗄れた声しか出てこなかった。そのうち、指すら動かせなくなる。

 そんな僕の手のなかに、彼女と握ったお守りがあった。

 水晶の奥に、うっすらと翡翠色の光が宿っている。それがたまらなく愛おしくなって、手を胸に置いて抱き寄せた。焼けて乾いた体からは涙も出ない。


 熱いし、痛い。

 だけど、それはもういい。

 痛痒の感覚すら消えていく自分のことなんて、最早どうでもよかった。

 ただ——。


 さっきのあの子。ちゃんと逃げられただろうか。


 視界のすべてが今にも炎と煙に覆われそうな瞬間、そんなことが脳裏に過った。

 この島で出会って、一緒に砂浜を駈け、空を見上げ、海を眺めた。そしてお守りをくれた、あの子。いまの自分の意識をこの世に繋ぎ止めているのは、あの子がくれたお守りだけだった。

 もし自分が死ぬのなら、このお守りは彼女の元に還ってほしい。

 いま自分がぎゅっと抱きしめたこのお守りだけでも、いつかちゃんとあの子に届くなら——自分はそれでいい。

 意識が暗闇の奥に呑まれていく。

 いよいよ、体のすべてが保たなくなったことを自分の芯が知ろうとしている。


 その瞬間だった。

 薄氷色はくひょういろの刃が、目の前すべてを覆う炎を一閃した。


 一瞬で視界が拓かれた。

 炎は消し飛び、黒煙は切り払われ、場は数瞬前が嘘のような静けさに包まれる。目の前に、誰かが立っていた。

 燃え盛っていた炎が鎮まり消えゆく中、青く透き通る刀身が僕の前に現れる。刀身の向こうに地続きの景色が望めた。それが浅瀬のように思えて、それだけでも僕の心が和らぐ。さらにその刀身は、僕にかぶさる重荷をすべて斬り払ってくれた。

 刀身が音もなく消える。それを持っていた誰かは、柄だけになったそれを腰に差し込み、身を屈めてつぶやいた。

「間に合ってよかった……」

「だれ……?」

 そう問い返そうとしたが、喉が潰れて声が出ない。

 目の前で屈んでいた人は、心から悔やむように、

「遅くなってごめん」

 と、言ってくれた。

「痛かったろう。つらかったろう」

 落ち着いた男のひとの声。

「よく……本当によくがんばったね。あの子は無事だよ。そして君はすごいやつだ」

 それから、僕がお守りを握っていた手にふれる。

 すると、僕の手のなかから翡翠色の光が放たれた。

「このリグレスが、がんばった君を守ってくれる。あの子がくれた宝物を、忘れてはいけないよ」

 光が僕を包み、焼けて朽ちた体が潤いを取り戻しはじめる。悲鳴を上げていた体が少しずつほぐれていく。そんな僕を抱えて、目の前のひとは屋敷の外に出た。木の幹に寄りかけられた頃には、全身が焼けていたはずの体がもとに戻っていた。

「もう大丈夫だ」

 目の前に立つひとがいったい誰なのかはわからない。ただ、その口元は微笑みかけてくれているように思えた。すっと腰を上げて立ち上がり、前を向いたまま言う。

「元気を取り戻したら、みんなに会いにいくといい」

 そう言って、上着のローブを着せる。

 その背中はとても大きかった。僕の瞳に涙が滲む。

 そして、この男のひとが去り際に放った一言が、僕を運命づけた。

「ギアナティアナの先にある、空と海のはざまで。プロメーテウスによろしく」

 こうして、僕を助けてくれたひとは瞬く間に姿を消す。それがいったい誰だったのか、僕がそれを知るのはもっと後になってからのこと。

 この場に残されたのは、僕と小さなお守りだけ。

 手に持っていたお守りから、翡翠色の光沢が消えていた。

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