Stalk My Sleepin' Love 前編
「ん……」
「ビアンカ。ほら、自宅に着いたよ」
もう慣れたものだ。俺は合鍵を取り出して解錠し、彼女の自宅に入った。
廊下の天井が低いので、ビアンカをぶつけないように俺はかなり中腰になって彼女を抱っこし直す。台所や居間を通り過ぎ、彼女の寝室の扉を開けた。
「ビアンカ」
「……んん………………すー」
「……」
優しく髪を撫で、さらさらでふわふわのそれを指で梳かしてみた。くるん、と俺の指に絡んでくる髪の一本一本が愛しい。
「……ヴィー」
「んむ……」
彼女の鞄をいつもの場所に置いてから、俺は思いっきりヴィーを抱きしめた。
「ヴィー……はあ。可愛いヴィー」
彼女の首の後ろに手を差し込み、襟足を親指で撫でる。
「んふふ」
「ん……? くすぐったい?」
なんて可愛いんだ。これは他の女性らと同じ生物なのだろうか? いや、こんな可愛らしい生き物、絶対違う。もうこれはビアンカ・ジャベリという唯一無二の、愛の生物だ。
髪を掬いあげ、口付けを落とす。
おっと、ずり落ちてきたからもう一度抱きしめ直した。ああ……もう寝台に着いてしまう。彼女をそこに降ろしたらもう俺の時間が終わってしまう。
「……」
もうしばらくこのまま抱っこしていよう。寝台に着かなければいいだけだ。明日君に会ったらまた俺は、いかに深酒がよくないか、俺が居なかったらどうなっていたことか、と説教するのだ。そう、俺が居ない場で深酒など絶対させないために俺は何度も何度も言う。
ああ、姑息で狡い奴だよ俺は。君の寝室に入り込む権利まで、さも正当だと言わんばかりに手に入れたんだ。
眠るきみを俺の腕の中に囲えるのはこの時だけだから。
一度彼女がこうなってしまえば絶対起きないし、悲しいくらいに全て忘れることもわかっているから。
ヴィー、好きなんだ。もうずっと君のことが好きなんだ。
「ヴィー……俺の彼女になってくれ……」
「んにゃむにゃ」
襟足続きで首元まで手をずらしながら撫で、ついでに耳を触ってみた。
「んふふひひ」
「ふふ。くすぐったかったね、ごめんよ。……なあ、ヴィー? 好きだ。ずっと大切にするよ。付き合おうよ。どうかな?」
「んむむ……?」
顔から髪をどかすと、ぷにぷにの肌が露出した。はあ……、吸いつきたい……強めに吸って赤くしたい。
「つきあ……?」
「!」
いつものように一人調子に乗って饒舌に喋っていたらまさか会話になるとは思わず、慌てて俺はヴィーの表情を確かめた。
……いや、寝てる……、よな!?
うわ、うわ。俺の顔が一気に赤くなったのがわかる。聴こえてる!? でも寝てる!? え、実は起きてるのか!?!?!!
「んん……わらし……けっこんあいてとつきあうー……」
「!!」
聴こえているのだとしたら、ここで引くわけにはいかない!!
「……っ、あ、ああ! そうだね、ああ。じゃあ結婚しよう? 君と、結婚したい!!」
「ぷふふ……」
「っ!? ど、どうかな? 俺本気だよ。いつも、いつも本気で言ってるよ」
ヴィーの弾力のある愛らしい尻を俺の腕に載せて、俺にべったり寄り添わせるように抱え込んで抱きしめた。俺の心臓は高速で打ち続ける。縋るようにヴィーの髪の中へ顔を埋めた。
「んん……」
「愛してる。君しか見えないよ、君のすべてが好きなんだ。なんでも言ってくれよ。君のためなら頑張るから」
「……おじいちゃ……」
あ。
「……じいちゃは……おたがい……ていそうだいじ…………」
「……」
「ていそう……だいじ……むにゃ」
ああ、またこれか。
「……だあれ……?」
彼女の手が空を彷徨う。頑張って覚醒しようとしているのだろうか。そりゃ気になるだろう、自分に告白してきている相手なのだから。
どうせ忘れるくせに。
「……」
それでも俺は馬鹿だから……こんな感じで抑えが利かないまま突発的に告白することは今までに何回もしてきた。そして何度も返事をもらっている。そう、どうせ忘れてるくせに彼女はご丁寧に返事をするんだ。
今更全部聞こえなくても、残念なことに俺は脳内補完できるくらいには聞いてきた。
『未来の相手のためにお互い貞操を守り、結婚してから初めて自分を捧げる。それが正しい結婚と聞いて育ってきた』
『おじいちゃんはそれを守った。私もそれがいいと思っている』
『あなたはどう? あなたは誰?』
大体こんな感じだ。
「……」
頬を静かに撫でて、彼女を寝台にそっと寝かせた。
「……ん…………」
そのあと聞こえてきたのはすー、すー、という可愛らしい寝息。
「おやすみ……愛してるよ、ヴィー」
はあ……。
とはいえ、こんな日常を送るのだって君となら悪くはないんだ。
立ち止まっても、同じ場所から動けなくても、君もそこにいてくれるなら毎日が全部楽しい。
でもさ。
でも!
結婚まで両者操を立てるなんて古代の話だろう!?
「アルト、それ何の資料?」
「ん? 顧客が結婚に関する市場調査を依頼してきているから、そのまとめ」
「ふーん。私が見てもいいの?」
「いいよ。市場調査企業から集めたものだから内部資料じゃないし」
午前の業務を終えた彼女と共に昼休みを過ごす。入った店で頼んだ料理が出てくるまで、俺は今日も彼女の洗脳作業に勤しむのだ。
「結婚相手は何番目の交際相手か? ……へえ……、世界平均だと男女共に三人目。ふーん」
「……この国の首都平均だと四人目。こっちの線図に載ってる」
さら、と資料を差し出してみた。
「そっかー首都は人がいっぱいいるから、出会いもたくさんあるもんね。皆すごいな。……たった一人に最初から出会えた人って幸運だねえ」
「……」
お待ち遠さまー、と店員が忙しそうに料理を置きに来たので書類を片付けた。
今回もダメか。彼女の話しぶりを聞く限り、まるで他人事だ。
結構直球だと思ったんだけどな……。
「あれ?」
不安そうな彼女の声が聞こえたので、俺は野菜の盛り合わせを取り分けていた手を止め、視線を上げた。
「ぅわあ、やっぱり生だったあ」
ああ、なんていうことだ。彼女がかじった肉団子の中が赤い。他の団子を半分に切って中を見ると、そちらも見事に生焼けだった。
「もう飲み込んだのか?」
「うん……まあ、大丈夫だよねきっと」
いや、もしかしたら君はお腹を壊してしまう。
「まあ、一口だけなんだろう? なら多分平気だろう」
と口では言いながら俺は彼女の食道を透視する。あっ、決して体を見ているわけじゃないからな、俺が視ているのは内臓だ。緊急でなければ絶対こんなことはしない! 彼女を護るために必要に駆られてやっているのだから!
……俺は誰に言い訳をしているのだろう。
気を取り直し、彼女の胃に向かって流れている生肉の波動だけ拾う。
「……」
「どうしたのアルト?」
「ん? くしゃみ我慢してただけ」
よし、転移完了。本人にも気づかれずに生肉だけを店内の端にあるごみ箱に移した。
「ふーん。……あ、すみません、あの!」
彼女が手を挙げて店員を呼び止めるが、素通り。
この人気店で昼休憩の客が殺到している時間帯の今、店員の表情からは余裕が全く感じられない。周囲の食卓にいる人間らも騒がしく雑談をして飯をかっこむことに余念がなく俺たちを見ている者はいない。
なら……いいか。
「ああ、どうしよう。お腹は空いたしお肉は食べられないしお店は忙しい」
「ビアンカ。それ、皿ごとこっちに寄せて」
「え?」
食卓の中央に肉団子の皿を置き、俺は片手をかざす。団子の大きさと形、生の部分が中央から三割であることを割り出す。注目を浴びないうちにさっさと終わらせよう。
「……えっ、湯気出てきた」
「しー。周りに気付かれたくないから黙ってて」
「! わかった」
「……。はい、もう食べられるよ」
「!! アルト……すごい……!」
「いいから早く食べな」
ああーっ、ビアンカがすっごい可愛い顔で俺のこと見てる!!
薄紫の瞳が俺をじっと見つめて……、はあぁあ、俺変な顔になってないよな、堪えないと……、ああ会議抜け出してきて本当に良かった! 昼休みも彼女といられるだけで嬉しいのに見つめられてしまうなんて。
なあ、それはただの羨望の眼差し? それとも異性として高評価がついた眼差し? どっち!?
「頂きまーす! アルトありがとう、んむむ……んまい……」
即その美しい眼差しは肉に注がれた。
「……」
まあ、いいか。今日も彼女の笑顔は護られた、食中毒から。
……多分俺かっこよかったよな。少なくとも嫌味な感じではなかったよな。才能ひけらかしてビアンカから嫌がられたりはしてないよな。
「熱魔法だよね? 今の」
「ああ。ほら、ビアンカ野菜残すな」
「食べるよ全部! もう、アルトったら私のお祖父ちゃんみたい」
「……はいはい」
お祖父ちゃんみたいというのは、家族みたいと言う意味でいいんだよな? 彼女の両親は早世されているから、ビアンカの家族とはつまり祖父のことだ。だから、俺が世話焼きで口煩いそこら辺にいる爺さんみたいだという意味ではないよな? 最近は少し不安でもある。
「熱魔法なんて初めて見た。動画で北国の魔法使いが熱魔法を投稿して有名になってたよね。その魔法使いが言ってたけどすごく難しいんでしょう? 北の魔法使いでも個人で使える人は相当少ないって。絶滅した物質転移術と透視魔術の次に絶滅するだろうって言われてるのが、熱魔法なんでしょ?」
「難しいかもしれないけど、どっちかっていうと火と水と風を掛け合わせて使うのが面倒だから使う魔導士が減ってきて、継承が廃れただけなんだよ。絶滅するほどじゃない。食べ物だったら今は熱発動機を使って温めたほうが楽だし早いし。動画の魔法使いは大衆にウケるようにああ言ってるけど、北の人間は大して熱魔法に思い入れはないな。それに北で最近流行しているのは、魔術を使わずに体を使って火をおこしたり水脈から掘って井戸を汲み上げたり自然の力だけで生活を営んでみる、ゆとりある生活だ」
そうなんだ、変なの……と言いながら俺が取り分けた野菜をもりもり食べるビアンカはこの星で一番美しい。
ビアンカ。ビア、ビア。俺の可愛いビア。……おっと、うっかりビアと口に出してしまいそうになる。気を付けなければ。
この星の男なら絶対通る道、”好きな女の愛称を心の中で呼ぶ”という妄想。女性の愛称はその家族と夫だけのもの。婚約者になるまでは愛する女の愛称は絶対呼べない仕来りだ。この星は、東西南北この仕来りだけはどんなに国の文化が違おうが世界中で変わらないのだ。
だから妄想の激しい男やうっかりな性格の男は、現実では関係値のない女性を愛称で呼びかけてしまい好意がバレたり、行き過ぎると警察を呼ばれたりする。
ビアンカに警察なんか呼ばれたら心が死ぬ。だから彼女を勝手にヴィーと名付けて、ビアンカが居ない場所ではヴィーと呼び、ごまかしているのだ。
「んふっふー、んっんー」
野郎しかいない統括投資部の扉を開け、通路を歩いていたら周囲の人間がぎょっとした面持ちで俺を見た。おっといかん、もりもりご機嫌に食べる愛しい彼女を思い浮かべていたから思わず鼻歌が出てしまっていたようだ。
「え……サーガソンさん今朝はマジギレしてなかった……?」
「ああ、あれだよ、ヴィーさんの約束があるのに会議が入ったから。あの様子だと結局約束が叶ったんじゃない?」
「ああー……。まあヴィーさんか仕事かって言ったらヴィーさんだよね……」
うるさいな。聴こえてるよ。
「えっアルトあんた午前中と態度全然違うんだけど何? 会議中に手洗い行くふりして勝手にいなくなっておいて何?」
部屋の奥にある自分用の小部屋に入り、夕方の商談の準備を始めたところでジルが分かりやすくズカズカと物言いたげに入室してきた。というか既に言っている。
「ジル、ちょうどいいところに来た。昨日の売り計上、ジルの部下が仕入額を一社分出し忘れてたらしいよ。経理から俺に差し戻しが来てるんだけど託す。修正して定時までに経理部長官に提出しに行ってください」
「ください? なんなのその笑顔……機嫌良くて気持ち悪……遂にヴィーさんから告白でもされた? ていうかいい加減ヴィーって誰なの? なんで誰にも見せないの? 妄想なの? なんでこんなに何年も隠せるの? 幻術でもかけられてるの俺たち? って禁術だから冗談だけ、ど、なー……」
「……」
「……その顔……かけてるんだな?」
ジルが小声になった。
「皆の脳の奥まではいじってないよ。ただちょっとヴィーの顔をごにょごにょ不明瞭にしてるだけだから」
次いでドアをノックする音。開いたドアから見えたのはレヤンシュだ。
「あ、帰ってきたなアルト。入るよ」
「ちょっとレヤンシュ。聞いて、まじでこの男やばい。たまーにさ、アルトと歩いている女性で思い出せない人、いるよな?」
「……いるな。いやでも別に気にしたことねえ。アルトと歩いている女性なんていつもいっぱいいるし。正確にはアルトについてくる女性だけどな……何の話?」
「レヤンシュ……、そういう烏合の衆の状況じゃなくて、アルトと女性が二人でいる時の話だよ。俺たちはどうやら長年アルトに騙されている。なーんか顔がぼやけて思い出せないなーって人がいる。多分それがヴィーだ」
「まさかヴィーって総研の関係者なのか? だってくるくるふわふわの髪で、頭良くて育ちが良くて甘い匂いがしてこの星で一番可愛いんだろ? ……アルト視点で。しかも一度も誰とも交際していない。珍しいよな。まあ、とにかく俺はどっかの深窓の貴族子女だと思ってた」
二人で勝手に盛り上がっている。俺は否定も肯定もせず放置し、通信魔術で画面を目線先に表示させて業務に戻った。
ジルがさらに声を落として話し続ける。
「見ろよレヤンシュ。そもそも接続機器がないのにどこでもこうやって魔法で画面を呼び出してこれを複数台、数か月出しっ放しを維持できるんだぞこの男は。魔力持ちって言われる人間だって普通三日が限界だろうが。ヴィーの顔を見せない幻術なんかきっと楽勝なんだよアルトには。なんでこんな大魔法使いが統括投資部で下々にニコニコと頭下げて働いてんだ?」
「な。まだ王国の騎士やってたほうが星と社会に貢献できたよね。アルト、総研なんて退屈じゃないの? 飽きない? その鍛えた肉体も使って伝説の勇者とかのほうがいいんじゃない? 冒険の旅にヴィーさんも連れ行けばいいじゃん」
次はレヤンシュがつまらない冗談を言っている。冒険の旅っていつの時代の話だよ、古代か。もう古代はうんざりだ。
「なあ、ジルもレヤンシュも今の魔法の話は、これな?」
しー、と口元に指を当てて二人を見た。
「いや、当然だろ。言えねえよ誰にも……魔法っつーか禁術だっつの。そもそもこんなところに伝説の北の大魔導士級の魔法使いが居るなんて言えないでしょ」
「しかも使う魔法がヴィーさんに関わることだけっていう。ほんとしょーもない才能の無駄遣い」
「……そうか? 俺にとってはこれに勝る才能の使い道が人生上で見当たらないんだけど」
「……でしょうねえ」
「でなきゃ王国騎士団筆頭魔導剣士の要請をあっさり断って総研に入ったりしないでしょうよ」
変か?
俺にとっては、魔法に頼らずに健康維持のためだけにやってた騎士になるよりヴィーが食べる肉団子の火入れのほうがよっぽど心躍るし、王家の頼み事より彼女が嬉しそうに俺を見て褒めてくれることのほうが何よりも重要なだけ。
「ってそんなことを話しに来たんじゃなくて。あのなアルト、会議勝手に抜けないでな? 今はジャマールがアルトの代わりに長官会議で報告してるよ。そりゃあ当日になってからの急な会議だから気持ちはわかるけど、アルトがいないと俺たちが全部伝言で託されるんだから、すぐ断れるものも後日になるとやり辛くなるでしょ」
「何言ってんだよ。レヤンシュ達なら俺がいなくても余裕だろう? 俺は今ただの腰掛けだし」
「……そう言ってくれんのはありがたいけど。一応王家相手なんだからさ……なんで王太子殿下に『サーガソンは腹壊してずっと手洗いから出てこれません』なんて言う羽目になってんの俺」
「ははは」
「はははじゃないからなアルト」
「レヤンシュの言う通りだぞ。大体王家の目的なんて、あれただのアルトの生存確認だろ? 隙あらば王国騎士団に戻ってきてほしいだけじゃん」
「ヴィーとは今日も進展はないけど、変わらずめちゃくちゃ好き。本当に大事な人だから結論を急がないだけ」
「急に話を振り出しに戻すよね。はぁ、もういいわ。良い顔台無しなくらい緩んでるから、商談までに表情筋戻せよ」
ジルがごちゃごちゃ言っている間に上着の中で彼女からの通信を知らせる振動を感じ、機器を取り出しすぐに見る。
『問題発生しちゃった。残業確定だよ。今日は夕食無理っぽい! ごめんね』
「……」
「ええーっアルト急に元気落としすぎだよね? 極端だねほんといつも!?!!?」
ビアンカは何も知らない。酔って眠った君を抱きしめて髪に口づけて頬を撫でて、狂おしいほど君の耳元でささやいているのを。
刷り込みのように、きっといつか、彼女自身が気づかないうちに俺のことを愛してくれるかな……と願をかけてささやくんだ。
おやすみ。良い夜を。好きだよ。愛してる。君を一生護れるのは俺だよ。
……ヴィー、君の鉄の呪縛を早く解いて。そんな古代染みた掟で証明できるものなんて薄っぺらいものだ。俺は貴女だけにすべてを捧げるよ。
もう何年もそうやって彼女の側に居座り、彼女が振り向いてくれるまで眠り姫を抱え込んで吹き込み続けるのが俺の日常になっている。
本当は酔っていなくても伝えたいよ。友達の振りをするのもそろそろ辛いんだ。酔っていないヴィーを抱きしめて愛を伝えて、その返事がすぐに返ってきてほしいんだよ。
でも君が恋人に求める条件はどうしても変わらないから。
……何でも卒なくこなしてきた俺の欠点が「童貞でない」ことになるなんて、まさか想像すらしていなかったよ。
そう、思えばこの一連の出来事はまるで台本でもあるかのように、すべてが裏目に出続けていた。
その日はヴィーが女友達に会いに夕飯に行こうかな、と言った日。こういう会合の場合、あまり邪魔するとうざったがれるのも嫌なので、俺が行くのは数か月に一回程度にしていた。
ここふた月ほどはヴィーの仕事が立て込み深酒をする機会がなく、否、それはとても良いことなのだが、俺が家まで送り彼女を撫でて充電する機会もなくなったわけで……、いやそうじゃないだろう俺、ちゃんと告白するのが先だろうが、と分かってはいるものの……過去の出来事でとっくに挫けてしまっている俺にとって、童貞でない自分が高潔な操を求める彼女に告白するというのはとてもとても高い壁になっていた。
つまり俺はこの時、結構なヴィー不足だった。
で、そんな俺が我慢できずなんとなくを装って女子会に合流してみれば、もうヴィーは酔っ払いだった。よし、これでまた俺は夜、彼女を抱きしめてスリスリできるかも! とそれだけの欲で突っ走ってしまい、彼女の正確な酒量確認を完全に怠った。彼女は深酒をしても会話が正常だから判別は非常に困難なのだ。眠くならない限りヴィーの酔っ払い具合は姿を現さない。
その上さらに、
「あのねアルトくん、結婚まで男女がお互い貞操を保つって、どう思う?」
女子会の皆さんとヴィーはそんな話をしていた。
……。どうもこうもねえな。俺を長年この位置に留めさせているのはヴィーによるその呪縛のせいなのだから。
そして追い打ちのように、
「えっアルトじゃん! なんの会? おーい、お前らこっち! アルトがいる」
俺に一番近い総研の同僚が三人揃って急に現れ、ヴィーをしっかり見てしまっていた。おかげで俺は後から幻術をかけることができなかった。
俺の中で、鬱憤が軽く爆発したと言える。
つまり俺がこの日、ヴィー不足を満たそうと欲深く女子会に行かなければ俺はヴィーに馬鹿な八つ当たりをせずに済み、私情むき出しな俺を見た同僚たちにヴィーの正体がビアンカであることを暴かれずに済み、それから十日もヴィーから避けられずに済んだのだ。
「風魔法工場の視察は俺が行きます」
統括投資部長官が、環境研の監査と総研の視察を同時に行う合同商談の参加者を主任陣の誰かにしようとしていたところを、俺がそう言って止めた。
「え? いや、アルトはこの日、王立全研会の出席ですよ? 視察はジャマールかジルに行ってもらうつもりだけど」
以前開拓した大手商社旗艦の風魔法工場だろう? 環境研の担当はリバーさんかヴィーに決まっている。工場の新規監査の際はこの二人だった。今回は定期監査だから、かなりの確率でこれはヴィーの案件になるだろう。
ヴィーの様子を伺いたい。とにかく話したい。もうこの十日以上、生きた心地がしない。
おかしい。だってヴィーは酔っていたんだからあの宴会のことは何も憶えていないはずだろう?
ということは、この避けられ具合には何か別の要因があるんだ。俺が気づかないうちに多分彼女を傷つけたか、悩ませるようなことを言ったかだ。
「部長官、俺もこの投資部では主任です。それにこの商社は最初俺が担当していました。俺でも対応できます」
「対応できるのは勿論わかってるんだけど……全研会はアルトの副所長官としての業務だから誰も代われないですよ。アルトは実質俺の上司なんだから……」
「部長官、俺今からでも貴方を副所長官に推薦します。俺には向いていませんし貴方こそ相応しいです。だから俺を環境研に推薦してください」
「よくわからんけどほんと環境研を諦めないよね、アルト……」
王家に欠席委任状を提出し、ついでに総研所長官には統括投資部長官を副所長官に推薦する書状も出し、俺はどうにか工場の視察へと向かった。
ヴィーからこんなに避けられるなんて今までなかった。避けられるというのはつまり、次に会う約束が一切できないということだ。来る週末が空いていても、ヴィーの好きな遊園地に誘えない。昼のちょっとした時間で食事にも誘えないし、毎晩仕事終わりの時間を合わせて夕食を一緒にすることもできない。食事ができないと来週の予定も聞き出せないしヴィーが今何に興味があってどこに行きたいのかもわからない。
つまり十日も避けられるということは、実質その倍の期間は後を引くのだ。
死ぬ……。ヴィーに会えないと俺が死ぬ。
「オルロフさんお久しぶりです、サーガソンです」
「サーガソンさん、お久しぶりです! 首都からはるばるお越しいただきありがとうございます。支店長は本社からこちらに向かっていますので、昼には合流できるとのことです」
「承知しました。それまでは環境研の監査に同行いたします。……な?」
俺は後ろにいるヴィーに優しく声をかけた。
「はい。ジャベリです。お久しぶりですオルロフさん!」
ヴィーが俺の目を見てくれない。今朝から彼女はずっとこんな感じで挙動不審だ。駅での待ち合わせで俺が現れた時の彼女の驚き具合と言ったらもう、悲劇さえ感じた。まあそれはそうだろう、俺は彼女に逃げられたくないから環境研側には当日まで担当者調整中と伝えていた。
「ジャベリさん……! お会いできて嬉しいです」
「私もです。オルロフさんのお噂は届いておりますよ。長官になられてからお会いするのは初めてですね! おめでとうございます」
「……俺からも、おめでとうございます」
「お二人ともありがとうございます、大変恐縮です。さあ、どうぞ! ご案内いたします」
……ヴィーの社交辞令すら相手に嫉妬する。
このオルロフ氏は俺が関わる前にヴィーと仕事で一緒になっているので、幻術はかけられない。一年に一、二回しか彼女と会うことはないようだから特段気にしていない。
そう、結局は幻術なんて役に立たないんだよ。環境研の男どもは皆ヴィーの美しい顔を既に知っているわけで、俺が牽制できるのは俺の側で彼女に初めて会う人間だけだ。既に彼女を知っている人間に同じ術をかけたらおかしなことになる。それ以上の深い幻術を使うのは……、さすがに魔力管理をしている機関に察知される。故郷に送還されるかこの国の王家に囲われるかだ。
それだけは避けなければならない、だってヴィーの側にいたい。そのためなら工場視察でも投資の商談でも書類整頓でも部下の出世根回しでも何でもやる。
彼女の変な波動を探知したのは、ヴィーがオルロフ氏と昼食をしている頃だった。
俺は昼食兼商談中だったので、集中力を多分に削がれながら合間で彼女の状況を探っていたのだ。
ヴィーが高揚している感覚を感じ取れた。
何だ? 何を話している?
状況を透視して会話まで盗聴するのはさすがに困難で、俺でも詠唱と集中できる場所が要る。この商談の間では無理だ。……というかそれは絶滅したとされている黒い魔術であり、現代の法律上では禁忌中の禁忌なので詠唱して発動させた瞬間に色々とばれる。そして大ごとになる。諦めた。
夕方になり急いでヴィーのもとに戻った俺は、気乗りしていない彼女に何度も食い下がって久しぶりに一緒に夕食を取れたのだけど。
「……なあ。聞いてる?」
「……ん?」
「だから。……その、最近ビアンカに避けられているような気がして。何か気に障ったなら謝るよ。この通りだ。何でも言ってくれ。……ビアンカ? そんなに器を傾けるなよ、酒が零れる」
「…………」
「おいビアンカ。……ビアンカ!」
言ってるそばから彼女は紅蜜花の酒をたらりと零し、襟に紅色の染みを広げた。俺は思わず席を立ち、ヴィーの横で中腰になり襟の染みを布巾で押さえる。
あああああぁぁああ……嬉しい、嬉しい。自分の心が躍動しているのが手に取るようにわかる。久しぶりにヴィーの顔が目の前にある。あくまで襟だけを見ることに努め、でも彼女の優しくて甘い匂いは存分に吸い込んだ。
しかしこれはもう酔ってる。いつもより早いな……? 今日の彼女は体調が悪いのだろうか。酒の回り方が数倍早い。
困った、俺はまだ彼女に昼間何かあったのかどうかをきちんと訊けていないというのに! 確かに彼女がこうなってしまえば宿まで送れるし、また存分に抱きしめられるのだけど……ずっと避けられていた手前、今日そんなことをする気はどうにも起きなかった。
彼女から爆弾のような一言を聞くまでは。
「おはよう、ビアンカ」
ヴィーがオルロフに告白された。しかもあいつはヴィーが求めていた、眩いほど輝かしい童貞だった。
それを知った俺は一気に頭に血が上り、酔ったヴィーに告白しまくって、いつものように振られた。
何度目だろう……俺はまたヴィーに振られた。
いつもなら立ち直るんだ。だって俺を振ったのはいつも酔ったヴィーであって、起きているビアンカではないから。貞操の問題が解決すればいつかヴィーは俺を受け入れてくれるはずだから、って前向きに立ち直れるんだ。
「アアアアアア、ルト」
「……体は大丈夫か」
でも今回は違う。全然違う。一刻を争う。でないとオルロフに彼女を全部持って行かれる。
だってあいつのほうが完全に俺より分がいい。
このままだと俺の長年の想いなんか伝わらないままごみ屑みたいに丸めて捨てられて、一瞬でヴィーが、俺のヴィーが……オルロフの妻になる。
オルロフが、彼女をビアと呼ぶ。
そう思った時にはもう、勝手に俺は寝台に眠る彼女のすべての服を指一本の魔術で脱がしていた。
「あ、あああああのアルト」
「さて、起きるか。今日は第四工場まで獣車で一時間かかるから、あと一時間以内に宿を出よう。ビアンカの部屋は隣だけど、……歩けるか?」
やましい気持ちなんか一切沸かなかった。一晩中、裸になった彼女に後ろから縋るように抱きついて、好きだ、好き、好き……と必死に繰り返していた。俺の体は反応してしまっていたけど心はそれどころではなく、こうやって俺とヴィーが結ばれたように見せ、そのまま既成事実を盾にして彼女を娶ってしまえ、攫ってしまえ……と完全に頭のねじがぶっ飛んだ俺はそれでも彼女をしっかりと離れないよう抱きしめて、無理やり眠りについたのだ。
「あああ、あああ……歩ける……アルト、あああ…あのね……」
そしてそうやって混乱のどつぼに嵌った彼女を俺は、この世の何よりも愛しく思えてやまないんだ。
「どうした? ビアンカ」
放心した表情のまま滂沱の涙を流しても、あれほど厳重に守り抜いてきた自身の貞操が今はもう消えてなくなったことを到底受け入れられなくても、君がもうオルロフのもとに行かないであろうことのほうに歓びしか感じない。
狼狽える君が好き。
自分に失望している君も好き。
人生を賭けて頑なに守ってきたものを瞬時に無くした君を愛してる。
どんな君も俺のもの。
「望み通り……俺が結婚してあげる」
君の大切なものを奪った俺の勝ち。
だからずっとこうやって、俺だけに囲われていて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます