第96話 人事異動

 私は意外にも元気だった。道ならぬ恋の結末の悲しさを知っていたからかもしれない。とにかく仕事に打ち込んでいると、恋をするより仕事の方が楽しくて、翌年、主任になった。出張で、一人で東京に行くのも楽しかったし、次は海外のブランドを担当して、外国にも行きたいという夢もできた。


 しかし、25歳になった「私」というクリスマスケーキは安売り体制に入ってしまった。周りの人の結婚ラッシュで、ご自慢の振袖は元が取れるほど着ることができたが、年齢的にそろそろ振袖を着るのも恥ずかしくなってきた。


 26歳の誕生日が目前に迫っていた2月の末のこと、人事異動が発令された。女性の移動は基本的にはないので私自身は心配はなかったが、今まで気の合うチームで仕事ができていたので、上司が変わるのはとても不安だった。


 その日、後輩の山本さんが午後の休憩に行ったので、私だけがレジカウンターに立っていると、直属の上司、川崎係長がやってきた。


「係長、外商に行かれるんですね。今までお世話になりました」

「ああ~行きたくないよ、外商なんて。内販がいいなあ」

「頑張ってください。応援してます」


 1月から始まったバーゲンが終わり、春物にはまだ早い時期なので、お客様の姿はほとんどない。しばらくは話をしていても大丈夫そうだ。


「神田さんには本当に世話になったよ。ありがとう。あ、そうだ、今度俺の代わりにこっちに来る係長なあ」

「はい。外商から来られるんですよね」

「33歳、独身だぞ」

「へえ、独身を楽しんでいらっしゃるんですね」


 当時は男性でも30歳を過ぎていたら売れ残り扱いだった。


「違うよ。結婚願望は強いんだけどね〜。すごくいいやつなのに、同期の中で、あいつだけ残ってるんだよ。神田さん、結婚してあげてよ。彼氏、いないんでしょ?」

「何言ってるんですか。私、まだ25歳です。選ぶ権利はあります」


 その時、カウンターの前にスーツを着た男性が現れた。婦人服売り場にスーツで来る男性は身内でなければ取引先の営業さんだ。私は姿勢を正し、挨拶しようと顔を見た瞬間、あまりの驚きに動けなくなってしまった。向こうも同じように固まっている。


梁瀬やなせ!」


 川崎係長だけが、ニコニコしながら、声をかけたが、私達が見つめあったまま動かないのを見て二人の顔を交互に見ていた。


「ねえ、君たち、知り合いなの?」

「あ、ああ、彼女が僕を知っているなら、間違いなく知り合いだ」

「お、お会いしたことがあります。おひさしぶりです」


 彼はピンク色のピンホールカラーのシャツを着て、スーツをきれいに着こなしていた。いい人という表現がぴったりな顔立ちで、背はそんなに高くない。でも、近藤正彦マッチみたいな髪型で、とてもおしゃれだった。


「相変わらず、ピンクがお好きなんですね。世子セジャ様」


 梁瀬係長は新しい部署に挨拶に来たのだった。




 事務所に入り、部長と課長に挨拶を済ませた梁瀬係長は、私が休憩に行っている間に帰ったそうだ。色々話したかったけど、これから同じ部署になるのだから、急ぐこともないだろう。そう思っていると、外線がかかってきた。


「ありがとうございます。丸越百貨店婦人服売り場でございます」

「外商2課の梁瀬です。神田さん?」

「はい」

「そばに誰かいるなら、『はい』か『いいえ』で答えて」

「はい、いつもお世話になっております」

「誰かいるんだね。明日定休日だけど暇? 遊園地に行かない?」

「はい」

「じゃあ、駅のロータリーに9時。大丈夫かな?」

「はい。承知いたしました。ありがとうございます」


 電話を切った後も胸がバクバクいっている。お直し品の整理をしている山本さんとの距離は3メートルほどだ。どうやら気づいていないようで助かったが、もし私ではなく山本さんが電話に出ていたらどうするつもりだったのだろう。大胆な人だ。





 あまりにあっさりと約束してしまったので、本当かなと、翌日は半信半疑で駅に行ったが、梁瀬係長は、白いクレスタで先に来て待っていた。笑顔が懐かしい。目が線になって弧を描いている。


「ごめんね。あんな電話で、本当に来てくれてうれしいよ」

「だって、3年もお世話になりましたから」

「そうだね。あの頃は楽しかったな。梅花メファ

「ユンシクとは呼ばないのですね。梅花だったのは2週間くらいですよ」

「君を見送ってからこっちへ帰って10年、僕は君を心の中で梅花と呼んでいたからね」






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