第95話 「夫婦」の思い出

「私も智樹さんが好き。でも、ごめんなさい。もう会わない」

「嫌だ。俺は姫に会いたい」


彼が私を抱きしめた。苦しいほどきつく。


「だめ。私たちが会うことで傷つく人がいるのは嫌なの」

「大丈夫。バレない自信がある」

「私、お嫁に行きたいの。みんなに祝福されて幸せになりたいの。だから、駅には来ないで」


 彼の腕がゆるんだ。私の強い意志を感じ取ったようだ。


「それじゃあ、姫に一つだけお願いがあるんだけど、これだけ聞いてくれたら、もう駅には行かないよ」

「聞けることならいいよ」

「明日は一緒にいて欲しい。スタジオに行く約束だよね。それを最後の思い出にしよう」


 最後の思い出? もう一度会える……。私は弱い人間だ。断ればいいのに承諾してしまった。


「そういえばまだ答えを聞いていないんだけど」

「何?」

「なぜ、私を『姫』と呼ぶの?」

「ああ……、あんまり言いたくないな」

「気になる。言って。言わないと、明日は行かない」


 陽明君様と、何か不思議な縁でつながっているのではないか、淡い期待を持っていた。


「妻の前で間違って違う女の名前を呼んじゃったら修羅場になるだろう? ごめん。こんなに君のことを好きになると思っていなかったから」


 遊ぶ女は全員「姫」と呼ぶのだろう。悔しいというか切ないというか。なぜ私は悔しいの? なぜ切ないの? 私が一番になれないから? それとも、この人がプレイボーイだから? どちらにしても、絶対別れるべきだ。


 家まで車で送ってもらい、彼の車の発進を見送るとき、車の後部にBABY IN CARのステッカーがつけられているのを見つけてしまった。おそらく会えなかった日曜日に奥さんと赤ちゃんが退院したのだろう。


✴︎✴︎✴︎


 スタジオは彼が予約してくれていたから、直接現地で待ち合わせた。私がセッティングしていると、彼が先に音を出し始めた。背が高くて足が長いから、ドラムの前に座っても映える。普通の人でもドラムをたたくとカッコいいのに、美しい彼にそんな姿を見せられて、私はどうすればいいのだろう。私はアンプにベースをつなぎ、指を慣らすことに集中した。


「姫、かっこいいね」

「今日だけ詩織って呼んで。それが私の最後のわがまま」

「わかった。詩織ちゃん、すごく上手だ」


 2人で選んだ曲は通勤の時、ずっとウォークマンで聞いていたが、毎日会っていたのでお互いあまり練習できていなかった。それでも即興で合わせていくと、形になって、キメで息を合わせる瞬間がたまらなく気持ちよかった。


「俺たち、演奏してるときだけは夫婦になれるんだね」


 彼の鳴らすバスドラムの音と私のベースの音が重なるたびに心が震える。


「智樹さん、『ムーンライトセレナーデ』って、わかる?」

「ああ、こんな感じ?」


 彼がスイングのリズムを刻み始めたので、私もベースを弾き始め、マイクに向かって歌った。突然合わせたのに、ピタリと合って気持ちいい。歌の最後、リタルダンドになったところで合図を目で送り、ベースのネックを持ち上げ、彼と息を合わせて振り下ろすと見事に最後が決まった。もう、思い残すことはない。


「この曲、すごくいいね。俺も詩織ちゃんの家の窓の下で歌おうかな?」

「歌っても逢引きには応じません!」


 陽明君様に言ったのと同じことを言っている。なんだかおかしくて笑ってしまった。


 スタジオを出る前、最後に彼は私を抱きしめた。


「詩織ちゃんって、いつもいいにおいがするね。何かつけてる?」

「シャネルの19番のオーデトワレよ」


 ロサンゼルスで買ってきて以来、毎日つけているお気に入りの香りだ。


「詩織ちゃん、いい思い出をありがとう。一生忘れない」

「こちらこそ。素敵な思い出をありがとう」

「幸せになるんだよ」


 翌日から、彼はもう駅には現れなかった。






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