第94話 本物の恋

 曲がスローなものに変わり、たくさんいた人達が席に帰って行った。キラキラだったダンスフロアの照明が落ち、ムーディーな雰囲気に変わる。残っているのは私たちと、他には二組のカップルだけで、彼らはべったりくっついてどう見ても恋人同士だ。すると、智樹さんが私の腰に手をまわし、ひきよせた。


「踊ってくれるよね?」


 私は黙ってうなずいた。


 音楽の波に揺れる小舟のように彼の胸に身を任せていると、夢見心地で、幸せだった。でも、陽明君ヤンミョングン様に似ているから、ずっと前から知っているような錯覚に陥っていたけど、彼にとっての私は5日目の女だ。


 私のことをどう思っているんだろう。このまま彼女になれるかな。でも智樹さんは他にも二人の女の子と遊んでいると言っていた。とんでもないプレイボーイで、苦労することになるかもしれない。この人は絶対モテる。だって、ここに来た時から他の女の子たちの視線が智樹さんに集まっているから。でも、この人の彼女になりたいと強く思った。


「帰ろうか、姫、明日も仕事でしょ?」


 外に出ると、彼はすぐにタクシーを拾った。


「まだ電車あるわよ?」

「タクシーで家まで帰ろう。せっかくいい雰囲気だから」


 タクシーに乗り込むと、彼は私の肩に手をまわし、自分にもたれかけさせた。今日は仕事をしているし、お酒も入っているせいか、私は眠くなってしまった。彼に包まれている幸福感でとてもいい気持で眠りかけていると、突然彼の唇が私の唇に重なった。彼の手が私の後頭部にまわり、熱い口づけはしばらく終わらなかった。私は運転手さんが見ていないか気になってしまったが、目を閉じて智樹さんに身を任せた。


 翌日の日曜日は彼が地元に帰るというので会えなかったが、翌日の月曜日は、また彼が改札口で待っていた。会えなかった一日がとても淋しかったので、顔を見た時の喜びは今まで以上だった。


「ここで待っていたら寒いから、温かいところで待ち合わせてはどうかしら?」

「……うん。でも、俺はこのままでいいよ」


 何となく引っかかる。


 私達は食事の後、彼のレビンで埠頭に行った。海側に向けて車をとめ、フロントガラスから見える暗い海を眺めていた。対岸の光がぽつぽつと光っている。


「智樹さんはどうして私を『姫』と呼ぶの?」


 私はずっと気になっていたことを聞くことができた。彼はしばらく黙って考えた後、ゆっくり口を開いた。


「姫に最初に言っておくべきだったんだけど……」


 彼はしばらく黙っていたが意を決して口を開いた。


「実は俺、結婚しているんだ」


 何かがガンガンなっている。心臓の音なのか、心臓から急速に流れ出した血液が頭にのぼって打ち鳴らしているのか、もう訳が分からなかった。何故? こんなに好きなのに、どうしてこうなるんだろう。私はまた同じことを繰り返そうとしている。


「こんなに毎日会っていて奥さんは大丈夫なの?」

「今出産で実家に帰っているし、すごく大切にして優しくしてるから、バレない」


 大切にして優しくしてるから? どこかで聞いたセリフ。出産という言葉が胸を切り裂く。


「最初は一人でご飯食べるのが淋しいだけだったんだけど、姫のことが気になってまた会いに行ってしまった」


 彼が私の手を握った。温かい。触れられるとこんなにうれしいのに。


「君を愛してる。妻に対してはこんな気持ちになったことがない。君は俺の生涯の中で最も愛した女性だ。もっと早く姫に会えていたらよかったのにって、心から思ってる」


 彼が私を抱きしめた。


「愛してる」


 溶けてしまいそうな甘くて熱い喜びと、胸を切り裂くような切なさが同時に私からあふれ出した。涙が頬を伝う。


「いつ……結婚したの?」

「今年の春」

「どうして結婚したの」

「子どもができたから」


 私は彼の腕をほどいた。


「姫は俺に本物の恋を教えてくれた特別な人だ。ずっと一緒にいたい。好きなんだ」


 なぜ? どうして陽明君様と同じ顔で同じことを言うの?


 彼がキスをする。なぜ私は拒否しないんだろう……。切なさが同居する愛の喜び。私にはそんな恋しか許されないのだろうか?


 その時、陽明君様のお屋敷の屋根でえんじ色の衣が翻る光景が閃いた。


 そうだ! 私が入るすきなんてない。始まったばかりだけど、この恋は強制的に終わらせなければいけない。私は覚悟を決めた。






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