第93話 ディスコ
「加藤さん、どうしたんですか?」
「姫をお迎えに上がりました」
鼓動がトクンと跳ねた。私のことを「姫」と言った。その顔で姫と言われたら、正気でいられない。
「約束もしていないのに待ってたんですか?」
「早く曲を決めたくて。迷惑だったかな?」
迷惑なんかじゃない。待っていてくれたことが嬉しくて仕方ないけれど、驚きの方が大きかった。
「車で来たんだ。カーステなら聞けるだろ?」
彼は歩き出そうとしたけれど、私がすぐについていけなかったので、足を止めてくれて、私が歩き出すと一緒に歩き出した。歩く速度を私に合わせてくれているのがわかった。
「乗って」
駐車場で彼が助手席の扉を開けたのは白いレビンだった。こんな事は初めてだ。レディになった気分で助手席に乗った。
エンジンをかけ、前方を見ている彼の横顔はとても綺麗だった。
「ねえ、ご飯食べに行かない?」
会ったばかりなのに、2日連続食事に行くのは気が引ける。
「ごめんなさい。今日は行けません」
「わかった。じゃあ、少しドライブしながら曲選びだけしようか。そのあと、送るよ」
「それなら大丈夫です」
彼がカセットテープを入れると、きれいなイントロが流れ始めた。
「二人で合わせる曲、これなんかどう? この曲、知ってる?」
「知りません」
「爆風スランプの『大きな玉ねぎの下で』っていう曲」
車は駐車場を出て夜の街に滑り出すと、大きく右に曲がり、私の家と反対に向かった。
「あの……8時には家に帰りたいんですけど……」
我ながら大胆なことをしたと後悔した。会ってまだ2度目の人の車に乗っているのだ。
「了解。じゃあ、石原町の大きい交差点で折り返したら、ちょうどそのくらいになるね」
「ありがとうございます」
今は彼を信じるしかない。
爆風スランプはあまり聞いたことはなかったけど、この曲はきれいだし、弾きやすい。
「いいですね。他にもアップテンポの曲もやりたいです」
「じゃあ、姫が好きなの選んでいいよ」
また「姫」と言った。
「そ、それなら、スクエアの『イッツマジック』でもいいですか?」
「そんなに難しい曲ができるの?」
「はい。私、チョッパー(当時はスラップをチョッパーと言っていた)バリバリですから」
「わかった。テープ、ダビングしてくれる? それから、敬語、やめない?」
「はい」
「だから、『はい』じゃなくて『うん』でいいよ」
「うん」
「そうそう」
「じゃあ、明日は帰りが遅いから、明後日、今日と同じ電車で帰るから、その日に渡すね」
「オーケー」
加藤さんといると、
翌日は遅番だったが、改札口を出ると、また加藤さんが待っていた。
「姫!」
「加藤さん、なんでいるんですか?」
「うん。姫とご飯食べに行きたかったから」
「ずっと待っていたんですか?」
「うん。昨日と同じ時間から待っていたら、会えるかと思って」
毎日部屋に通ってきた陽明君様を思い出した。
「無茶しますね。ご飯は無理です」
「だから、敬語はやめよう」
「今日は9時までに帰らないと……」
「大丈夫。ちゃんと送るよ」
実家暮らしの私はあまり遅くまでいられない。
また彼のレビンに乗り込んだが、スタートが遅かったぶん、一緒にいられる時間は少なかった。また昨日と同じコースをドライブした。
「シンデレラはそろそろ帰る時間だね。じゃあ、明日一緒にごはん、どう? テープももらわないといけないし」
「じゃあ、明日は私がおごりますね」
「だから、敬語」
「あ、じゃあ、明日は私がおごるね」
「うん。いい感じ。でも、気を使わなくていいよ。君を待つ日はなぜかパチンコで勝っちゃうんだ。君は幸運の女神だ」
翌日も彼は同じように改札で待っていた。またレビンで来ていたのでファミレスに行った。
「明日、土曜だけど、早番? 遅番?」
「早番だけど……」
「踊りに行かない?」
「いいですね。私とでいいんですか?」
「もちろん」
翌日は朝から一日中落ち着かなかった。何をしていても加藤さんの事を思い出してぼんやりしていたので、お客さまが目の前に来てハッとする始末だった。
もう恋なんてできないと思っていたけれど、期待してもいいのだろうか、いや、もう傷つきたくない、でも、恋をしたい。気持ちがシーソーをしていて、どっちに着地したらいいのかよくわからなくなっていた。
午後6時15分。仕事を終えた私は、ロッカールームで制服からピンキー&ダイアンのボディコンシャスなスーツに着替え、ロサンゼルスに行った時に買ったシャネルのアイシャドウで化粧を直した。バッグはシャネルでは張り切りすぎだし、ヴィトンは普段使いだから、ちょっとはずしてトラサルディの小さめのショルダーを選んでいる。
待ち合わせの場所は、ロッカールームから歩いて5分ほどのところだった。そこに待っていたスーツ姿の彼は、背が高くてひときわ目立っていた。男の人はスーツを着ると、2割増しでかっこよく見えるものだが、彼はあまりに素敵で、顔が熱くなるのが分かった。
「姫、すごくかっこいい。スタイルがいいんだね」
「あ、ありがとう。加藤さんもとっても素敵」
彼が連れて行ってくれたのは、キング&クイーンだった。いつも友達とマハラジャばかり行っていたので、最近オープンしたキング&クイーンに、しかもこんなに素敵な人と来ることができ、私は幸せに酔っていた。
華やかな入り口に立つ黒服の男性が私たちを招き入れた。どうやら、ドレスコードは大丈夫だったようだ。ロッカールームへ行き、コートや荷物をロッカーに入れると彼がすっと手のひらを上にして私の前に出した。
「姫、お手をどうぞ」
私はそっと手を乗せた。彼は私の手をぐいと引いていたずらっぽく笑うと、手をつないだまま席に向かった。フロアは暗めで照明が回っていたので、わたしの手を引く彼の背中を、一層たのもしく感じた。大音響のディスコミュージックが気持ちいい。
軽く食事をとってから、また彼に手を引かれ、今度はダンスフロアに入った。すでにたくさんの人たちが踊っている。
彼と向かい合って踊ると、背の高い彼の顔を見るには見上げなければならないが、その身長差がいい。背の高い私が見上げられるような人なんて、今まで会ったことがなかった。彼はドラマーだけあって、リズム感がよくて、ここにいる誰よりもかっこよく踊る。
この人は陽明君様ではない。ただ顔が似ているだけの別人。でも……私、この人が好きだ。改札口で、待っているわけがないと思いながら、初めて会った日の次の日も、その次の遅番の日も、私は改札の外に彼の姿を探していた。
彼の左頬が私の左頬のすぐそばまで降りてきた。
「ねえ! 姫! 俺のこと加藤さんって呼ぶの、やめない?!」
音楽が大きすぎて、耳のすぐそばでも大声になる。
「じゃあ、私はなんて呼んだらいい?!」
私も彼の耳元で叫ぶ。
「智樹さん、でいいんじゃない?!」
「智樹さん!」
「そう!」
なんだか大声で叫んでいることがおかしくて二人で笑ってしまった。
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