第92話 平成のクリスマスケーキ

 私は大学を卒業して百貨店に就職し、婦人服売り場に配属された。人と関わることが嫌いで笑えない私が百貨店を選んだのは、ホミンのように笑顔で人を癒せる人になりたかったからで、そのために、毎日無理やりにでも笑える環境に身を投じようと思ったのだ。おかげさまで、自然に笑えるようになり、それなりに仕事もできるようになった。


 世間では結婚適齢期をクリスマスケーキに例えて、24日のうちに売れなかったら、25日からセールになると言われていたが、私は24歳の12月になっても彼氏すらいなかった。過去から帰ってきてもう4年。陽明君ヤンミョングン様のことは思い出として割り切っていたし、こっちの世界で幸せになりたいと思っていたから、誰かいい人を見つけて結婚したいと強く思っていた。そんなある日のことだ。


 私は早番で仕事を終えて、いつものように電車に乗った。駅につき、改札を出ていつものようにバス停をめざして階段を下りていた時、手袋をしたまま持っていた定期が、手から滑り落ちた。


 ポトリと階段に落ちた定期を拾おうと、2段ほど階段を降りてしゃがんで手を伸ばしたら、下から上がってきた男性がスッと取って私に手渡してくれた。


「ありがとうござ……」


 顔を見て笑顔でお礼を言おうとしたが、そこから先の言葉が出なかった。


 陽明君ヤンミョングン様だ! 髪が短くて、襟付きのシャツの上にセーターを着て、黒いウールのコートを羽織っていて、黒縁の眼鏡をかけている。でも、顔は陽明君様だ!


 私が顔を凝視したまま動けなくなっていたので、彼が口を開いた。


「どこかで会ったことがありますか?」

「はい! あります! 私、梅花メファです」


 私はうれしくて泣き出してしまった。心の奥にしまい込んでいた感情が一気にあふれ出した。


「どうしたの? 大丈夫?」


 綺麗なハンカチが差し出された。こっちの世界でも紳士で素敵な方なのだ。しかし。


「面白い人だね。俺をナンパしてる?」

「は?」


 なんてことを言うのこの人は……。


 崖からつき落とされた気分だった。


「いいよ。ご飯食べに行こう。俺、今からここで食事しようと思って来たんだ。一人じゃつまらないから、一緒にどう?」

「別にナンパなんかしてません。本当に会ったことがあると思っただけです」

「へえ、そんなに俺に似ているの? 運命を感じるね」


 この人は陽明君様ではないのだろうか。


「俺、他にも遊んでる女の子が2人いるから、気負わなくても大丈夫だよ。ご飯食べに行こう」


 他にも二人? 胸がザワザワする。でも、陽明君に瓜二つのこの人の事を知りたくて、私はついて行った。店は決まっていたようで、彼は何の迷いもなくパスタの店に入った。


「本当に私を知らないんですか?」

「うん。初めてだよ。そんなに俺に似てるの?」

「そのまんまです」

「へえ、見てみたいものだね」


 やはり、彼は陽明君様ではないようだ。改めて自己紹介をしあった。彼の名前は、加藤智樹かとうともき。私より2歳上の26歳だった。陽明君様は30歳だったから彼の方が若い。地元は隣の県で、国立大学を卒業してそこで就職し、転勤で今年の初めからここへ来たらしい。


「俺、学生の時バンドやってたから結構モテたけど、女の子にナンパされたのは初めてだよ」

「だから、ナンパじゃありませんってば。……バンドって、何やってたんですか?」

「ドラム」

「実は私もバンドやってて、ベースを弾いてました」

「おっ。ラムとベースなら、俺たち夫婦になれるね」


 ずき、と胸が痛んだ。あれほど望んだのに許されなかった、夫婦になるという夢。それを、こんな形であれ、同じ顔のこの人に言ってもらえるなんて。


「ねえ、今度スタジオ借りて合わせようよ」

「いいですね。やりたいです」


 私達はすっかり意気投合して、2時間ほどおしゃべりをして別れた。


 翌日も早番だったので、私は同じ電車に乗って帰った。改札を出ると、笑顔で手を振る彼の姿があった。







※ドラムとベースは夫婦……バンドをやっている人の間では、そのように言われています。ドラムとベースはリズム体なので、息をぴったり合わせないといけないんです。






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