第91話 初夜

 テーブルには豪華な食事とお酒が用意されていた。


 世子様と一緒に食事をして、その後……? どうしよう。世子セジャ様のことは信頼しているけど、そんなことになるなんて思ってもいなかった。私はまだ陽明君ヤンミョングン様のことを忘れていないし、忘れられるわけがない。彼に対してさえ、守り続けたものを、あっさりうばわれてしまうのだろうか。


 世子セジャ様が来た。


「ごめんね。周りが騒いでしまって、びっくりしただろう? 全力で断ったんだけど、聞き入れてくれなくて。今日が床入りには最高の日取りらしいんだ」


 全力で断ってくれたの? よかった。世子様にもその気はないようだ。一気に体の力が抜けた。


「もう、本当に困っちゃいますね。仕方ないから、食事だけいただいて帰りますね」

「い、いや、帰ってはいけない。王様のご命令だから……」


 王様のご命令は絶対だ。仕方ないから私は世子様に酌をし、一緒に豪華な食事を楽しんだ。久しぶりにこんなおいしいものを食べた。お酒とおいしい食事があると、心が満たされる。こんなに幸せな気分になったのはいつ以来だろう。


梅花メファの笑顔が見られてよかった」


 世子様がじっとこっちを見て笑っている。この笑顔には癒される。


「や、やだ、世子様そんなに見ないでください」

「あ、ごめん」


 世子様はソン・ジシュクとして私に学問を教えてくれた時からずっと私を見守ってくれている。私が望まないことは絶対しないし、勝手に踏み込むこともない。男として生きると決めた時も何から何まで手配してくれた。そばにいるだけで安心できるし、いつも癒される。


「世子様、私、信用してますから、同じお布団に寝ても平気ですよ」

「そ、それは私が君に手を出す人ではないと言っているのか?」

「はい。世子様はいつも私の気持ちを大切にしてくださいます。信じているからこそ、女官になることを決意したのです」

「まいったな……」

「さあ、どうぞ」


 私は先に豪華な装飾が施された寝台に上がり、美しい絹の布団をめくって、隣に入るよう促した。大きな寝台なので、体がふれる心配はない。世子様はまだ一人で飲んでから寝ると言ったので、私は先にグーグー眠ってしまった。


 その日から、私の居所はその部屋になり、豪華な衣装を与えられ、側室のような扱いを受けることになった。側室としての務めを果たしていないのに、王様と王妃様にご挨拶をしたときは、申し訳なくて緊張してしまった。


 世子様は空いた時間によく私の部屋に来てくれた。それは仕事もなくて暇な私の唯一の楽しみな時間であり、待ち遠しかった。


 そんな日々が2週間ほどすぎ、ついに朔の日がきた。世子様はわざわざ私の部屋へ迎えに来てくれた。


「東宮殿の庭へ行こうか」


 なんとなく元気のない世子様が私の手を取り、歩き出した。


「世子様、お手は……一人で歩けますけど」

「最後の日だからね」


 世子様はこちらを見ることなく背中で答えた。私は意味がわからなかったけれど、そのまま手を引かれていった。


「まあ、睦まじいこと」

「素敵なご夫婦ね」


 遠くで女官たちがささやいているのが聞こえた。私たちは夫婦じゃありません。成り行き上仕方ないんです、と心の中で主張していた。


「ここだ。君はここに倒れていた」


 世子様が指さした。一瞬、期待と怖さが入り混じった感情が走った。


「淋しいけど、お別れだね」


今日の世子様は、いつもと違う。包み込むようなふんわりとした笑顔を見せてくれない。


「そんなこと言って、帰れなかったら恥ずかしいです」

「帰れなくても、私の側室として生きればいいよ」

「お断りです。帰ります」

「はっきり言うんだね」

「世子様だってその気はないでしょう?」


 冗談ぽく言ってみたが、世子様は笑うどころかもっと元気がなくなった。


「世子様、大丈夫ですか? ご気分でも悪いのでしょうか? 私の旅立ちを祝ってください」


 本当は元の世界に戻ったら、どうなるのか、考えたら怖かった。もう三年近くここにいるから、みんな大学を卒業しているだろう。でも、私がここにいる意味はもうない。


「大丈夫だ。置いて行かれるから寂しく感じているだけだ」

「世子様、本当にありがとうございます。お世話になりました。一緒にいてくださったことに心から感謝します」

「私も、そなたには感謝しているよ」

「世子様もきっといつか向こうへ帰れるようお祈りしてますから」

「そうだね。一日も早く帰りたいものだ」

「それでは。ありがとうございました」


 私は深々と一礼してから世子様に背を向けて、その場所へと歩を進めようとした。その時。


「待て」


 世子様が私の手を引っ張り、向きなおらせたかと思うと私の身体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。


「え?」


 胸がキュンとして、何か、ふわりと温かいものが私の体の中を満たした。


「少しだけ。少しだけこうしている事を許してくれないだろうか」

「世子様……」


 なぜかわからないけれど、体を離すことができなくて、そのまま世子様の温もりを感じていた。


「向こうの世界で会おう」


 そう言うと、世子様はくるりと私の向きを変えさせ、そっと背中を押してくれた。私の足は前に踏み出していた。




 気付いたら、成人式の会場にいた。由美子が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。


「詩織、大丈夫?」

「世子様は?」


 戻った。あの時からほとんど時間が経っていなかった。


 翌日私はケンカしたバンドのメンバーに会って、少し言いすぎてしまったことを謝った。今なら自分が我を張りすぎていたとわかる。


 私はこの日を境に別人のようになったとよく言われたが、三年も経っているのだから無理もないと思う。あんなに人と関わるのが嫌だったのに、今は逆に、人がそばにいてくれると安心できるようになった。






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