第87話 梅花

 仕事で来た部屋とは別の小さな部屋に通され、着付けと化粧をしてもらうと、鏡の中の私は別人だった。


「まあ、とても美しいわ。男としても美少年だったけれど。陽明君ヤンミョングン様が心を奪われてしまうわけね」


 部屋に戻ると陽明君様の隣に、佳香ケヒャンが座って酌をしていた。そこは私の場所、と思っている自分は重症だと思う。彼は私のものではないのに。


「佳香、こちらは地方から陽明君様のためにわざわざお呼びした方よ」

「この者は梅花メファと申すものだ。以前地方に行った時にコムンゴを聞かせてもらったのが忘れられなくてね」

「まあ、陽明君様、わたしもそんな風に言っていただけるよう努力したしなくてはいけませんね」


 梅の花は陽明君様がお部屋の屏風に描かせたほど、お好きな花だ。その名前を陽明君様からいただけたことがとてもうれしかった。


「よろしくお願いします」


 私は丁寧にあいさつをした。陽明君様は私を見つめたまま視線を外さない。


「梅花、ここに座りなさい。そなたたちは下がってよいぞ」


 私は陽明君様の隣に座り、英月と佳香が退室し、二人きりになった。


「綺麗だ。姫は本当に美しい」


 もう会わないと決めたのに、陽明君様の口づけは甘くて切なくて、頬を伝わる涙とともに、私の心も愛の沼に落ちていった。


 どうして着替えてしまったんだろう。男のままでいればもっと自制できたかもしれないのに。陽明君様の腕の中で愛の喜びに震える一方で、妙に冷めた自分がいた。そうだ。何をしているんだろう。ここで男女の一線を超えるわけにはいかない。


「申し訳ございません! これ以上は!」


 私は体を離した。恐る恐る陽明君様の顔を見ると、寂しそうに微笑んでいた。なんて優しいお顔。


「姫が嫌なら何もしないよ」

「奥様のところへお帰りください」


 微笑んでいる陽明君様の悲しい色をした瞳に耐えられず、私はうつむいた。


「それでは帰るかな。私の身勝手な行動が姫を苦しめていることを自覚しなくてはいけないね」


 そう言われると、急激に寂しくなり、陽明君様の腕にすがりついてしまった。


「申し訳ございません」

「そんなことをされると、かわいくて我慢できなくなってしまうよ」


 そんなことを言われると、私も我慢できなくなる。いけない。


「一つだけわがままを聞いてくれぬか?」


 聞けることと聞けないことがある。私は顔を上げた。陽明君様はいたずらっ子のような、いいこと考えたと言わんばかりの笑顔だった。かわいい。なんてかわいい人なんだろう。


「満月の日に、ここへ来てくれないか? そなたのコムンゴが聞きたい。今日のような珍しい音楽を聴きたいのだ。私は芸を見に来るのだ。ちゃんと護衛を連れて正々堂々と訪れる。そなたのことは英月に頼んで段取りをつけてもらう。どうだ? だめかな?」


 満月は月に一度。月に一度、陽明君様に会える。でも……。


「……承知しました」


 私はやっぱり、自己中心的で弱い人間だ。



***



 この世界に来て二年が経ち、季節は夏になっていた。ある蒸し暑い日、午前中の外回りを終えて家に帰ると、変な格好をした女の子が屋敷をうかがっていた。上はチョゴリを羽織っているのに、下は冬物のスカートをはいている。私と同じ現代から来た子に違いない。疲れ切った顔をしているし、髪はぼさぼさだ。


「おい、お前、困っているだろう」


 声をかけてみた。当たり。未来から来た仲間だった。私は人とかかわるのは苦手だし、家に他人を上げるのも嫌いだ。でも、この時は、この子を助けたかった。それにもう、一人でいるのは嫌だった。


「お前、行くところがないんだろ。困っているなら俺のところへ来るか?」

「いいんですか? ありがとうございます!」


 その日から、二人の生活が始まった。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る