第86話 ムーンライトセレナーデ

「ユンシク?」


 ちゃんと男の名前で呼んでくれた。良かった。


「はい。大変お世話になったのに、お礼も言わずに家を出てしまいました。申し訳ありません」

「いや、こちらこそあのまま放って出てしまい、申し訳なかった。時間はあるか?」


 だめ。帰らないとだめだ! 心はそう叫んでいた。


「ちょっと、話そう」


 私は心の弱い人間だ。理性と欲望の戦いは欲望の圧勝だった。私は彼について行ってしまった。



 彼は重要な話があるからと妓生キーセンの同席を断ってしまったので、私たちは妓楼の一室で二人きりになってしまった。向かい合って座る陽明君ヤンミョングン様のお顔を久しぶりにゆっくり見た。整った男らしい眉、綺麗な二重瞼とぷっくりした涙袋の目。スッと通った高い鼻。形のいい唇。


 存在自体が、輝いてキラキラしている。


 ため息をついてしまった。


「どうしたのだ」


 見とれていたなんて言えない。


「もう会わないつもりでした」


 本当は会いたかったなんて言えない。


「相変わらずの美少年だな」

「今日はあの日のようには飲みませんから」


 突っぱねてしまった。本当は甘えたいのに。


「コムンゴを弾いてくれないか?」


 それなら悪くない。


「何を弾きましょうか?」

「そうだな。この前、私の背中の上で歌っていた歌がいい」

「あ、あれは……」


 酔って歌った星空のディスタンス。恥ずかしくて穴があったら入りたい。それに、テンポが速くて弾けない……いいことを思いついた。ここに来る前にバンドでやっていた曲なら、弾き語りできる。


「即興だからうまくできるかどうかわかりませんけど」


 バンドではレベッカやマリーンを主にやっていたけど、一番好きな曲を演奏したかった。


「『ムーンライトセレナーデ』という曲を」


 父がよく聞いていたグレンミラーのレコードの中で、特にこの曲が大好きだった。私にとっては憧れの「大人の曲」だ。大学でバンドをはじめてから、フランクシナトラが歌っていることを知り、女性ボーカル用にキーを直し、バンド用にアレンジをして演奏したら、その意外性もあり、とても好評だった。


「この歌詞はどういう意味だ?」


 英語の歌詞だから、うまく説明できない。それに、あまりに今の私の気持ちと重なりすぎている。


「うまく言えないのですが……セレナーデというのは、夜、窓の下で恋人を思って歌う歌なんです。この曲は、夏の夜、月の光の下で、愛の歌を歌っています」

「月の夜、愛する人に会いたくて我慢できなかったのかな。夜は堂々と訪問できないから、外で歌って気づくのを待っているのだろうね」

「そう。そんな感じです」

「私のようだ。実は何度か姫の家の前まで行ったことがある。歌えばよかったかな」

「私は歌が聞こえても逢引きには応じません」


 また冷たく突き放してしまった。でも、泣きたいくらいうれしかった。


「私はこんなに姫と逢引きしたいのに?」


 今私はユンシクとして生きているのに、すっかり女性モードになっていた。誰かに見られたら大変だ。でも……。陽明君様の綺麗な瞳で見つめられると抑制が効かなくなる。


 正面に座っていた陽明君様が席を移動して私の隣に来た。一気に緊張感が走り、心臓が強く打ち始めた。陽明君様が私を抱き寄せキスをしようとしたが、お互いがかぶっている黒笠フンニプがコツンとぶつかってしまい、唇にふれることができなかった。


「男同士ですから、そのようなことはおやめください」


 私は正気に戻った。


「それなら良い考えがある」


 陽明君様は英月ヨンウォルを呼んだ。


「英月は信用できるからね」


 過去、何があったのかわからないが、彼は英月をとても信頼していた。


「……というわけで、この者に、衣装を貸してやってほしい」

「姫様、それでよろしいのでしょうか? 高貴なお姫様が、妓生の衣装でもよろしいのですか?」


 別に気にしない。綺麗な衣装を着たい! 本当は女でいたい! 心の中では叫んでいたけれど、私はただ黙ってうなずいた。


「それではこちらへ」


 英月について仕度部屋へ行った。






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