第85話 本を売る

「新しい事業を始めようと思うのだが、雇われてくれるかい? 本を売ったり、貸したりする事業だ。もちろん、新しい本も作る。ここの家賃込みで、給金をはらうよ」


 ソン先生の申し出は、現代人の私にとって、安心できる話だった。私は快く受け入れた。


「条件がある。絶対に私が住んでいる屋敷を探さないこと。近づいてはならない。連絡はこちらからする。秘密の商売だから、誰にも知られてはならないのだ」

「承知しました」

「月に一度、帳簿を確認しに来るから、その日は時間を空けておいてくれるかい?」

「はい。お知らせいただきましたら、空けておきます」

「それから、これはユンシクのためだけど、私やチェ・ユンソンを先生と呼ぶのはやめるように」

「でも、先生は先生ですから」

「女だとばれるきっかけは作らない方がいい。私たちを先生と呼んだのは姫だけだ。誰に聞かれるかわからないから」

「承知しました。それでは、ソン様でよろしいでしょうか?」

「まあ、いいだろう」



 その後、事業は順調に軌道に乗った。私は営業は苦手だったが、ソン様が珍しい本をたくさん仕入れてくれたおかげで、品ぞろえがいいと評判になった。好きな仕事だったので、とにかく軌道に乗せようとがむしゃらだった。しかし、心に余裕ができてくると、いらないことを考えてしまう。


「淋しい」


 ソン様がつけてくださった使用人も、自分で生活できるようになったので、返してしまった。今はこの家に一人暮らしで、日が沈んだらさっさと寝て、夜明けとともに起きる。以前は考えられないほど健康的な生活をしている。戸締りが厳重にできるのもありがたい。しかし、得意先を回った後、家に帰って休んでいると、陽明君ヤンミョングン様との思い出が浮かんでくるのを止められなかった。


「私って、本当にだめ。もうあきらめるって決めたのに」


 美しい思い出ばかりだ。


「あ……」


 その時、陽明君様に毎日聞かせて差し上げたお話を思い出した。これを本にしてはどうだろう。中途半端だった最後の方ももっと膨らませて。そう思うと、次々にお話が降ってきて、書くのが楽しくてしょうがなかった。氷姫のお話を書き上げたころ、ソン様が帳簿のチェックに現れた。


「あの……ソン様、これを読んでいただけないでしょうか? 私が書きました」

「すごいな、自分で作ったのか?」

「はい。もし、差し支えなければ、この本を売りたいのです」


 ソン様は原稿を持って帰って読んでくださり、翌日には使いの者をよこしてすぐに製本するようにと言ってくださった。その本は女性の間で評判になり、人を雇わないと手書きの製本では要望にまにあわないくらいだった。その本のことは真珠楼にも伝わり、5冊の注文が入った。私はせめてコピー機があればいいのにと無駄な事を思いながら、何日も必死に書き、ある日の夕方やっと出来上がった本を持って真珠楼を訪ねた。


 ここは陽明君様と来た思い出の場所。あの日は飲みすぎて酔ってしまった。思い出に浸ると、じんわりと胸のあたりが熱くなってくる。いけない。仕事! 気を取り直し、中へ入って行った。


「ユンシク様、よくいらっしゃいました」


 英月ヨンウォルが迎えてくれた。覚えていてくれたようだ。仕度部屋に案内されると、支度を終えた妓生キーセンたちが黄色い声を上げて群がってきた。


「待ってたのよ! 早く読みたいわ」

「あら、あなた、いい男ねえ」

「ほんと。ちょっと遊んでいかない?」


 姐さんたちの勢いに圧倒されそうになったが、冷静に代金をもらった。


「まあ、この冷静さがたまんないわねえ!」

「また来てね」


 私は本を渡すと、真珠楼を辞した。


 支度部屋を出ると、まだ日は暮れていなかったが、提灯の火がともされていた。背の高い男性が門を入ろうとしているのが見える。誰とも違うオーラを発している、美しい男性。鼓動が跳ねた。


(陽明君様!)


 あのまま会えなくなったので、お礼も言えずに家を出た。ここで声をかけるべきか。立ち止まってしまった私の方を彼が見てしまった。どんどん近づいて来る。






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