第84話 陽明君様! 助けて! 

 叫びたくても声にならない。私は寝具の上に押し倒され、口をおさえられていた。男の身体で押さえつけられた身体は、手や足をどんなに動かしても、精いっぱい暴れても、男から離れることが出来なかった。女の力では男の力には勝てないことを嫌というほど知った。それでも、このまま汚されるくらいなら死んだ方がマシだ。誰か来るまでの時間を稼げればと必死で声を出し、暴れ続けていた。その時、チェ先生の言葉がひらめいた。


「小指です」


 剣の稽古の初期のころ、体力のない私に最低限の護身術を教えてくれていたのだ。


 私は片手は抑え込まれていたが、自由が利く方の手で、私の口を押えている男の小指をつかみ、おもいっきり反らせてやった。


「……っ!!!!」


 一瞬、男が手を離したので大声を出した。


「助けてーーーー!」


 小指の痛みとその声にひるんだすきに、私は思いきり蹴りを入れて逃げた。剣の稽古をしていてよかった。身の軽さが少しは身についている。

 私の声を聞きつけ、使用人が数人やってきて男を取り押さえたところに、騒ぎを聞きつけた陽明君ヤンミョングン様が駆け付けた。


 良かった。着衣が乱れていないのは幸いだ。まだ私はきれいなままだと信じてもらえる。


 私はポンスンに連れられて別の部屋へ行ったが、身体に残る男の感触が気持ち悪くて吐きそうだった。そして、離れたその部屋まで、大変な剣幕で尋問する陽明君様の声が聞こえた。


「そなた、何の目的で!!!!」


 今まで見たことのない形相だったと、後で使用人から聞いた。なかなか口を割らないその男に執拗なまでに聞き続け、ついに黒幕が誰か、口を割らせたらしい。その後、陽明君様は私のところに来てくれた。


「姫、すまなかった」


 陽明君様は私の顔を見るなり、強く抱きしめた。


「けがはなかったか? 大丈夫か?」


 まだ恐怖がおさまらず、不安に押しつぶされそうな私を、強く抱きしめてくれた。


「本当に申し訳ない」


 彼が私に謝罪している。私は悟った。黒幕はたぶん奥様だ。


「その男、放免してあげてください」

「姫、何を言っているのだ? そなたをこんな目に合わせたのに?」


 妻子ある人を好きになってしまった。拒絶すればよかったのに、受け入れたのは私だ。今夜のことが公になれば、陽明君様だってただではいられないだろう。私は倭国の姫としてここにいる。私は陽明君様の胸を両手で押して、体を離した。


「はい。このことは内密に処理していただけないでしょうか? 未遂とはいえ、寝室に暴漢が入ったと聞いた人は、私が傷物になったと思うでしょう。ですから、誰にも分らないように処理していただけないでしょうか」


 本当は怖かった。またこんな目にあうかもしれない。でも、陽明君様のこれからを思うと、それを通すしかなかった


「私をこの家から追い出してください」

「それはできない。姫のことは世子様のご命令なのだ」

「それでは世子様にお願いしてくださいませんか」


 納得しない陽明君様としばらく押し問答が続いた。


「姫がそこまで言うならそうしよう」


 ついにそう言わせることができた。


「お帰りください。どうか、奥様の元へ。これ以上悲しませてはいけません」


 私は無理やり陽明君様を帰らせた。


 下手をすると国交問題に発展するとわかっていながらここまでのことをさせてしまったのはなぜなのか。後でポンスンが使用人仲間から仕入れてきた情報によると、奥様は倭館に苦情を申し立てたそうだ。しかし、私の情報などあるはずもなく、偽物とバレてしまったらしい。それで、陽明君様が私をかこっていると勝手に思い込んで嫉妬に狂い、私に一番むごい仕返しを企てたのではないかと使用人の間では話しているのだそうだ。



***



 私の新しい行き先が決まるまでここにいるようにという世子様からの伝言をポンスンがもらってきた。そのかわり陽明君様は、奥様の静養のため、御家族で空気のいい自然豊かなところへ旅立たれたらしい。それが正解だと思う。おかげで、遠慮なくこの屋敷で暮らすこともできる。


 いつものように、王宮からの迎えがやってきた。まだ、倭国の姫のフリをして甘えていてもいいのか世子様がどこまでご存知なのか不安だったが、成り行きを見守るしかなかった。王宮の「図書館」につくと、ソン先生が待っていた。


「陽明君様から姫のことを頼まれました。私が屋敷を用意しますので、おいでください」

「ソン様は私が何者かをご存知なのでしょうか?」

「陽明君様より伺っています。でも、ご心配なさらないでください。私がきちんとお世話させていただきます」

「それならば尚更です。せっかくのご厚意ですが、もう人のお世話になって生きるのはつらいです。自分で働いて自立する方法を教えていただけないでしょうか」

「自立ですか。奴婢ならともかく、ここでは身分の高い女性が働くことはありません。陽明君様の命令ですから、それなりの生活をしていただかなくては困ります」


 女性であるために辱められそうになり、女性であるために働くことができない。もう、恋なんかしない。それなら。


「私、男として生きていきます!」

「本気ですか?」

「はい。一生懸命働きます!」


 ソン先生は、私の字がきれいなので、本を作る仕事をすすめてくれた。なじみの本屋を紹介してくれたので、本の作り方を学ぶこともできた。住む家も、着る服も、当面の食料も、なにもかも用意してくださったので、本当にありがたかった。私は陽明君様がつけてくださったユンシクという名前を名乗ることにした。






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