第75話 留学生として

 翌日の午後、輿とともに迎えの護衛の男性が来て、私は王宮に連れて行かれた。高い塀に囲まれた王宮の門は兵が守っており、通行証がある者しか通れないらしく、迎えの護衛の男性がなにか木の札を出して見せると、番をしていた兵が私たちを通してくれた。


 案内されたのは、本がたくさん置いてある建物だった。本と言っても、紙を糸で綴じたようなものだ。


「ここでお待ちください。先生をお呼びしてきます」


 私は椅子に座って、きょろきょろ周りを見ていた。誰もいない静かな部屋だ。


 護衛の者が部屋を出て行って少しすると、ピンク色の衣を着た、私とそれほど年が変わらない感じの男性が入ってきた。背が高くもなく低くもない、人のよさそうな人だった。


「初めまして。私は姫の担当教官のソン・ジシュクと申します。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 私は丁寧にお辞儀をした。


 その日は紙と筆を与えられ、指示された本の書き写しをすることから始めた。本を開くと、漢文だったが、驚いたことに、文字の横に日本語の訳が浮き出して見えた。


「なにこれ?」

「どうかされましたか?」


 ソン先生がにっこり笑っていた。目が線になって弧を描いている。男なのにピンクが似合う人だ。


「いえ、何でもありません!」


 言えるわけがない。偽の姫であると嘘をついているうえに、頭がおかしいとわかったら、追い出されるかもしれない。私は、とにかく不思議な現象を受け入れることにした。


 慣れてくると、字幕のおかげで本の内容が分かって楽しくなり、書道が大嫌いで筆などほとんど使ったことがなかったのに、書き進むにつれ手になじんできた。


「姫はきれいな字を書かれますね」


 ソン先生がほめてくれた。私が書いているのは「小学ソハク」という、子供が学ぶ本らしい。


「姫、留学中、学びたいことを聞いてこいと世子様に言われたのですが、何を学びたいですか?」


 ソン先生に尋ねられ、しばらく考えた。インドア派の私としては、あまり運動をしたくはないが、万が一、偽物とバレた時、自分の身は自分で守りたい。


「剣か、護身術を習いたいです」

「わかりました。ではそのようにお伝えします」



 ***



 陽明君ヤンミョングン様のお屋敷では、やることがなく、暇を持て余した。王宮に行くのは行き帰りの時間を合わせても、2~3時間くらいのものだ。身の回りのことはすべてポンスンがやってくれるし、ポンスンと話をしたくても、あまり会話ができない。おそらく、私のせいだ。


 私は自分ではわからないのだが、表情が変わらないらしい。中学のころ、女子は言葉を選んで、「神田さんはクールよね」と言っていたが、男子には「能面」とからかわれた。気軽に話しかけてくる人はあまりいないうえに、こっちが人見知りだから、限られた友達としか話せなかった。


「ポンスン、掃除を手伝いたいんだけど」

「そんなことをさせてしまっては私が陽明君様に叱られます。勘弁してください」

「じゃあ、外を散歩してもいいかな」

「申し訳ありませんが、それは許されておりません。姫に何かあったら国家間の問題になると陽明君様がおっしゃっていますので」


 国家間の問題が起きて未来が変わってしまったらたまらない。


「暇でしょうがないの。何かやることないかな」

「姫様、何か習い事をされてはいかがでしょう」


 朝鮮の文化を吸収して帰るなら、倭国の姫として間違いではない。


「音楽がやりたいな。楽器を習いたいわ」

「承知しました。陽明君様にお伝えいたします」


 ポンスンが部屋を出てしばらくして、陽明君様を連れて来た。扉を開けて入ってくるとき、すらりとした体にウエストがきゅっと締まったえんじ色の衣がよく似合っていて、思わず見入ってしまった。


「音楽がやりたいそうですね」


 育ちがいい感じの優しい物言い。


「はい。私、幼いころから楽器に親しんできたんです」


 実際、ピアノと電子オルガンを習い、中学から吹奏楽部でフルートを吹き、今は友達とバンドを組んでベースギターを担当している。いや、今ではなく、過去形になるのだろうか。ライブハウスで大音響で演奏する快感、もう味わえないのかと思うと寂しい。


「我が家にあるのは琴と太鼓くらいだが、琴をやってみるか?」

「はい! ぜひやらせてください!」


 陽明君様は使用人にカヤグムとコムンゴという二種類の琴を運ばせた。






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