第74話 陽明君様
「なぜここにいるのかわからなくて」
「記憶がないのですか?」
記憶がないのとは少し違う気がする。さっきまでの成人式は市長の話が長いと思ったことまで鮮明に覚えているのだから。
「それもよくわかりません。ここはどこなのでしょうか?」
「姫は倭国から来られたので、長旅でお疲れになったのでしょう。あなたは倭国の姫君であると、世子様からお聞きしています。今日行われた、王様のお誕生日をお祝いする宴に招待されていたようですが」
身に覚えがない。まさか、「時をかける少女」になったとか? 高校の時、原田知世に似ていると言われたことがあるけれど、まさか自分が時をかけるとは、にわかに信じがたい。
「そうでしょうか? よくわかりません」
「私は陽明君。王様の長男です。世子さまから、姫はしばらくこの国の生活を体験するためにここへ来られていると伺っております」
「まあ、あなたは未来の王様ですね。私ったらなんて無礼なことを」
「私は側室の子なので、未来の王様ではありません。王妃の息子である弟が世継ぎなのです」
「そのような決まりがあるのですか」
「どうか、お気になさらず。この国では世継ぎ争いにならぬよう、側室の息子は政治にも関わらず、何もしないでのんきに暮らすよう定められているので、私はとても暇なのです。ゆえに、あなたは私に何の気も使う必要はありません」
「そうなのですか……」
男性が出世する未来もなくのんきに遊び暮らすのはさぞ苦しいことなのではないかと気の毒に思った。
「私は世子さまから姫の留学の期間が満了するまでの生活の支援を仰せつかっています。御不自由のないよう、お世話させていただきますので、気軽にお申し付けください」
私は自分がどこにいるのか知りたかった。
「ここは何という都市でしょうか。思い出せなくて」
「
「ああ、そうでした。私ったら度忘れしてしまいました」
嘘をつくのは心苦しかったが、非常事態だ。漢陽といえば、韓国のソウルの昔の名前。私は大学受験の時、共通一次は世界史で受けたので、得意科目だった。本当に昔の世界に、それも朝鮮に来てしまったようだ。自分の力ではどうすることもできない。倭国の姫になりきるしかなかった。
お屋敷はとても広く、いくつもの部屋があり、私の部屋は、母屋から最も遠い離れの部屋だった。置いてあるものすべてが文化財のようで、傷でもつけてしまったらと思うと緊張して落ち着かなかった。
ここまで私を案内し、説明をしてくれた年配の使用人の女性が、後ろからついてきた18歳くらいの少女を紹介してくれた。
「今日からこの者が姫様のお世話をさせて頂きます」
「ポンスンと申します。よろしくお願いいたします」
この子が私専属の使用人として、ずっとそばにいてくれるようだ。本当にお姫様生活が始まる。本来、他人に気を遣いながら生活するなんて、勘弁してほしいのだが、ここでは頼るしか道がない。
「ポンスンさん、よろしくお願いします」
「私に敬語はお使いにならないでください。それから名前も呼び捨てで結構です」
「わかりました。では、ポンスン、敬語はやめるわ」
ポンスンの方が年下だし、主従関係であるから、案外気が楽かもしれない。
部屋の奥にはつやのある生地で作られた長い座布団と、背もたれのようなものと、四角いひじ掛けらしきもののセットが置かれていたので、聞いてみた。
「あれは、座るところ?」
「はい。どうぞ、お使いください」
座るのがもったいないような、なめらかで光沢のある生地だった。私はこのセットを「ソファ」と呼び、この上でこの屋敷での多くの時間を過ごすことになった。
その夜、陽明君様が私の部屋を訪れた。
「姫、この部屋はお気に召していただけたでしょうか?」
庶民なのでこんな豪華な部屋は落ち着かないとは言えないし、居候の身なのでわがままは言えない。
「快適です。ありがとうございます」
「本当に? あまりそうは見えませんよ」
私は昔から笑うのが苦手で、愛想笑いができない。
「あまりに立派なお部屋なので、びっくりしていたのです」
「どうか何も気にせずおくつろぎください。必要なものがあれば、ポンスンに言えば何でも用意できます」
その時の陽明君様の笑顔が、少年隊のニッキよりもずっと、何十倍も素敵で、思わず周りを見回してしまった。間違いなく私しかいない。二重瞼で、涙袋がきれいで、鼻が高くて歯並びがいいこの人の笑顔を、私が独占してしまっていることが不思議で言葉も出なかった。
「明日から午後は週に何度か王宮に通うことになります。案内は王宮から迎えに来た護衛の者にさせますので、ご安心ください」
美しい顔に慣れてくると、声の美しさに気がついた。しかも、この人は王子様である。そして、まっすぐに私を見るきれいな目の力に陥落した。
(かっこいい)
私はすっかり陽明君様のファンになってしまった。
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