第三章 月光夜曲~ムーンライトセレナーデ

第73話 昭和60年、成人式

 昭和60年1月15日。私、神田詩織かんだしおりは成人式の会場にいた。市の体育館で、母が選んだご自慢の振袖を着て、久しぶりに会った高校時代の親友、由美子と並んで座り、ステージを見下ろしていた。


 晴れの日なのに、少しも喜びを感じないのは、バンドのメンバーと喧嘩をしたからだ。私はそのころはまだ珍しかった女の子だけのバンドでベースを弾いていた。


 もともと人に気を遣うのが苦手な私に友人はほとんどいない。いつも不機嫌に見える私の無表情が人に誤解を与えるのも原因の一つだ。私には音楽だけが救いなのに、そのメンバーと、昨日喧嘩してしまったのだ。最悪な気分だった。私は、私なんか大嫌いだ!


 市長のあいさつが終わらない。


(長い……)


 私は気分が悪くなっていた。着付けの予約が朝7時で早かった上に振袖の帯がきついから、もう我慢の限界だった。着付けのうまい先生が風邪を引いたとかで、若いスタッフが着せてくれたが、まだ不慣れなのかもしれない。昨日、ついついオールナイトニッポンを聞いてしまったのも悪かった。中島みゆきだからしょうがない。


 視界がぼやけて揺れている……。体を支えきれなくなって、隣に座っている由美子にもたれかかった。



 ***



 私は気を失ったらしい。気が付いた時は、ピンク色で綺麗な花柄の絹の布団に寝かされていた。部屋の中の雰囲気が独特なので、しばらく部屋の中をキョロキョロと見まわしてみたが、東洋の骨とう品のような見たこともないものが置かれ、箪笥も、屏風も、とても高級なものだと私でもわかった。


 係の人らしき女性が、私に話しかけた。着物風の合わせなのに、ドレスのように裾が広い衣服を着て、変な形の黒い帽子をかぶっていた。


「お目覚めになりましたか? 私はコ・シアンと申します。姫様のお身体を診察させていただきました医女でございます」


(姫様? くすぐったい。コ・シアンって、韓国の人? イジョ? イジョって何だろう?)


「姫様、もう一度、脈を診させていただきます」


(あ、医者の「イ」で、イジョかな?)


「コ・シアンさん、ここはどこですか?」


「王宮でございます」


(王宮って、マリーアントワネットがいるみたいな? どういうこと? そういえば、私、気分が悪くなったんだった)


「私、どうしたのでしょうか?」

「姫様は、宴の席で倒れていらっしゃったのです。それで、ここに運ばれてきました」


(宴って、成人式は式典だから、まだお酒の席には行ってないけど)


 市の企画にしては上出来だが、無意味に演出が細かいと思った。しかし、それが演出でないという事が、時間とともにわかることとなる。


 私は、身体が回復したので、早く家に帰りたかったが、コ・シアンはさっき部屋を出て行って、まだ帰っていない。楽な服に着替えさせてもらっているので百万円の振袖を返してもらわなくてはいけない。私は部屋の扉を開けた。廊下は、緑や赤の華やかな色合いの装飾が施され、おそらく韓国の建築と思われる美しい作りだった。


「姫様、まだお休みになっていてください!」


 廊下にいた女官が制止するのを振り切って外に出ると、更に驚いた。こんなに広い敷地の建物は、私の身近には存在しない。目の前にある中庭の植木は見事に手入れされ、視界に入る建物はすべて文化財級の本物に見える。本当に王宮に見えるのだ。


「コ・シアンさん!」


 私は叫んでしまった。一体何が起きたのだろう。わけが分からない。怖くなって元の部屋に戻った。声が聞こえたのか、誰かが呼びに行ったのか、コ・シアンが慌てて戻ってきた。


「姫様、どうなさいましたか?」

「ここはどこなのですか! 私はどうすればいいのかわかりません!」

「それについてはご指示がありましたから、御心配には及びません」


 コ・シアンは落ち着いていた。


 その時、扉の外に控える女官の声がした。


陽明君ヤンミョングン様がお越しでございます」

「ご案内してください」


 コ・シアンが答えると、扉が開き、背の高い男性が入ってきた。


「お目覚めになりましたか?」

「陽明君様」


 コ・シアンがいきなりかしこまって頭を下げ、脇によけた。


 入ってきたのはとても品の良い、三十代くらいと思われる男性で、顔立ちがすっきり整っており、立ち姿がとてもきれいだった。平安時代の装束に似た着物に黒いかぶり物をかぶっていたが、えんじ色の上衣の丈は足首近くまでのロング丈でスリットが入っており、ズボンはスリムで、とてもかっこいい衣装だ。


「姫、気分はいかがですか?」


 男性に免疫のない私には心臓に悪い。こんないい男に「姫」なんて言われたら誰でもドキドキするだろう。


「私……わからなくて」

「と、申しますと?」


 陽明君というその男性は、包み込むようなまなざしで私を見た。私はまともに顔を見ることができず目を伏せた。






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