第68話 元の世界へ

 武術の師匠として紹介されたチェ・ユンソンはすごい人だった。さすが、本物は違う。実践で鍛えた人だから、現代とは比べ物にならない。俺は特に仕事もなかったので、毎日通って指南を受けた。最初は筋肉痛との戦いだったが、今では随分自由に体を動かせるようになってきた。もう一度、アクションを生かした仕事をしたいと心の底から思っている。


 武術に夢中になっていたので、河原に行くのはしばらく休んでいたが、チェ師匠が所用で三日ほど出かけるという事だったので、久しぶりに行くことにした。今度はユンシクに同行を頼んだ。


「旦那、なんだか顔つきが変わりましたね」

「俺なりに努力しているからな」

「かっこよくて、ホミンがびっくりしますよ」

「そんなにかっこいいか?」


 お世辞を言えるのか、こいつ。


「かっこいいですよ。本当に。お世辞じゃありません」


 まじめなユンシクに言われると、そうなのかなと顔が緩む。


「ところで旦那、王宮のコネですけど……」


 ユンシクはとてもいいにくそうに切り出した。


「まさか、まだ連絡が来ないのか? 本人が直接言う約束なんだが」

「何もありません」


 あの野郎、ヘタレにもほどがある。


「まあ、待っていればそのうち連絡があるよ。信頼できる人だから。もし連絡がなかったら、ソン・ジシュク様を頼ればいい」


 世子様が自分で自分の正体を明かすまで、俺から世子様がソン・ジシュク様だとは言えない。


 俺たちは河原に着くまでホミンの思い出話をした。


「ホミンがこっちの世界に来た日、俺がせっかく助けたのに、逃げちまったから、心配したんだ。探しても探しても見つからないから本当に心配したよ。お前の家にいたんじゃあ見つからないはずだよなあ。あの日の夜、大変だったんだよ。わかっていたらさっさと帰っていたのに」

「何かあったんですか?」

「夕方から探しまわっていたから、行燈を持っていなくて、日が落ちて月が出ていなかったもんだから真っ暗で、家に帰るのが大変だったんだ」

「夢中で探していたんですね」

「まあ、そういうことだな。今思えば一目ぼれってやつだったかもしれないな」


 ホミンの思い出という共通の話題があるから、近寄りがたいと思っていたユンシクと、意外にたくさん話すことができた。そうこうしているうちに河原についた。


「さあ、ジンの旦那。あっちに帰る前に最後の一言、お願いします」

「なんだ? 変な感じがするな。遺言みたいだ。それに、本当に帰れなかったら恥ずかしいじゃないか」

「信じなくてどうするんですか。帰れるものも帰れません。さあ、思い残すことがないように本気でお願いします」


 ユンシクが力強く言った。


「よし。じゃあ、まず、ユンシク、ありがとうな。ホミンの世話も、あいつがいなくなってからの俺のことも。全部感謝しているよ」

「こちらこそ、旦那、ありがとうございます。ホミンを見つけたら、よろしく言ってください」

「おう。それから、ソン様をよろしく頼むよ」

「え? よろしくと言われても、こっちが世話になっているのに」

「ま、いいか。困ったことがあったら、ソン様に相談すれば大丈夫だよ。後はインスに、俺がいなくなったことを伝えて、手紙を配ってもらってくれ。そう言えばわかるから」

「承知しました。お任せください」

「それから、お前宛の手紙に、これまで検証して積み重ねたことについて細かく書いてある。お前が帰るときの参考にしてくれ」

「ありがとうございます」


 ユンシクが微笑んでいる。


「お前も早く帰れよ」

「旦那が帰れたら、きっと帰れます」

「そうだな。ユンシク、本当にありがとう。じゃあな」


 そう言って、俺は俺がこの世界に現れたところに歩を進めた。ユンシクが手を振っている。俺も手を振って、一歩、二歩、そして……。


 気が付くと、俺はアスファルトの上に倒れていた。ネオンの看板に彩られたビルが立ち並び、ビルに切り取られた狭い空には星なんか一つも見えなかった。元の世界だ! 街にあふれている人工的な光が滲んで見えた。






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