第66話 陽明君様とユンシク

 あの一件で、商団は取りつぶされ、俺は職を失っていた。正確に言うと、「世子セジャ様の隠密」として入り込んでいたわけだから、「世子様の隠密」の職はまだ解かれていない。だから、任務がないだけで、無職ではない。


 仕事がないので、毎日河原で挑戦してみたが、うまくいかなかった。その日に行う「向こうへ帰る実験のために揃っている条件」はユンシク宛の手紙に書き、毎日書き換えては引き出しにしまっていた。俺がいなくなったらインスがユンシクに渡してくれるはずだから、ユンシクが帰りたくなったときに、ちゃんと方法がわかるだろう。それ以外に、お世話になった商団の仲間や、インスたち弟分、それぞれにお礼の言葉をしたためた手紙も一緒に入れていた。ジンという俺らしくない気もするが、ユ・テハとしての俺はそうしたかった。


 俺、向こうの世界に帰れないのかな?


 諦めに近い思いと、帰りたい思いが、かわるがわる俺を苦しめた。


 その日も俺は酒を飲んでいた。そうしないと、一人でいることに耐えられなかった。ここで生きることをあの日までは楽しんでいたが、このままここで暮らして新しい女を探すなんてもう考えられない。


 その時、扉をたたく音がした。


「ジンの旦那」

「開いてるよ。入れ」



 ユンシクだった。久しぶりに顔を見たが、随分やつれていた。


「お前、大丈夫か? えらくやつれているじゃないか」

「色々あって……」


 もともと無表情な奴だったが、魂が抜けたようになり、余計に近寄りがたい空気を出していた。


「まあ上がれ」

「はい」


 そんなに力を落としていても、ユンシクは律義にお辞儀をして、靴をそろえて上がった。


「旦那、その後どうですか?」

「毎日帰るために河原に行っているが、何も変わらないなあ」

「そうですか。……実は、同じ場所から帰るという仮説が正しいとするなら、俺はもう帰れません」

「何があったんだ?」

「陽明君様が病で急にお亡くなりになったので、もう、王宮に入る伝手がありません」


 ユンシクがポロリと涙をこぼした。それをきっかけに涙が止まらなくなった。


「お亡くなりになったとは聞いていたが……。お前の王宮の伝手は陽明君様だったのか……。おい、そんなに泣くなよ。それは、帰れなくなったことを嘆いているのか? それとも、陽明君様が亡くなったことを悲しんでいるのか?」


この泣き方には何かあると思ったからそう言ったのだ。ユンシクはしばらく考えて言った。


「多分、後者です」


 ふむ。二人はそれなりの関係だったようだ。


「王宮の伝手なら大丈夫だ」

「ジンの旦那、誰かえらいお知り合いでも?」


 ユンシクは信じられないという顔をしていたが、世子様に頼めば大丈夫なはずだ。


「少し時間がかかるかもしれないが、俺からその方に話すから大丈夫だよ」

「本当に? 慰めているんじゃないですよね?」


 用心深い奴だ。


「大丈夫。絶対何とかしてくださる方だ」

「ありがとうございます。旦那」


ユンシクが手ぬぐいで鼻を拭いている。少し落ち着いたようだ。


「お前、向こうに帰りたくなさそうだったが、今は帰りたいのか?」

「はい。ここにいる意味はもうありません」

「じゃあ、真剣に考えないとな。あれから、同じ場所で何度かやってみたが、いまだに何も起こらない」

「考えたんですが、俺たちがここへ来た理由ってなんでしょう? そこに何かヒントがある気がするんです。意味なく起こっている事とは思えなくて」

「そうだなあ。もし意味があるならば、ホミンは帰るための条件を揃えたことになる」

「ホミンが達成しているとしたら、何でしょう?」


 また二人で考え込んだ。






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