第65話 帰れない
俺がこっちへ持ってきた物は、ポケットに入っていた財布と携帯だけだった。タンスの奥深く隠していたそれらを出して、くるんでいた布を開いた。
久しぶりに財布の中を見た。何枚かのクレジットカード、韓国のお金、免許証。携帯はとっくに電池が切れていて電源は入らないが、手に持った重みが向こうでの生活の記憶を蘇らせた。俺はユ・テハという名前の俳優だったんだ。
帰りたい。あの日は人生がいやになって自暴自棄になっていたけれど、今はもう一度やり直したい。そして、あいつに会いたい。あいつの財布にあった学生証の大学をたずねたら、探し出せるかもしれない。
その時、インスがやってきた。
「兄貴~、気分はどうですか?」
俺が横になっていなかったので、インスはうれしそうな顔をした。
「兄貴! 元気になったんですね!」
可愛い奴だ。
「完全とは言わないが、やりたいことがあるから寝ちゃいられないんだ。ちょっと手伝ってくれないか?」
俺はインスと一緒に外に出た。久々の太陽の光がきつく感じられたが、そんなことはどうだってよかった。はやる心を抑えながら、船着き場へ向かった。正確には船着き場近くの河原だ。
「兄貴、船着き場へ行くんじゃあ……?」
「用があるのはこっちだ」
俺たちは河原へ降りた。ああ、いやだ。あの頃のことは思い出したくない。だからここへは近づかなかった。本当は記憶から消してしまいたい。
しばらく歩くと目的の場所にたどり着いた。
「インス、もし、俺に何かあったら、俺の家の箪笥の一番上の引き出しに入れてある手紙をそれぞれの宛名の人に渡してくれ」
「何言ってるんですか? 兄貴!」
「インス、今までありがとう。お前のことは大好きだ」
「ハハハ、こんなところまで来て、愛の告白ですか? 変ですよ、兄貴」
ホミンは向こうの世界から来た場所を通ろうとして、いなくなった。俺も同じことをしてみようと思った。
まず俺は、その場所を勢いよく通り抜けてみた。何も変わらない。歩いてみた。変わらない。角度を変えた。変わらない。何をやっても、何も変わらなかった。
「兄貴、何やってるんですか?」
何か違う条件が必要なのだろうか……。俺は考え込んでいた。
「兄貴、いい加減教えてくださいよ」
「いや、何でもない」
ホミンは夕方消えたから、夕方もう一度試してみようと思い、二人で河原をぶらぶらしたり、昔の仲間を訪ねたりして時間をつぶした。そして、また同じ場所で同じことを繰り返した。しかし、何も起こらなかった。
インスは怪訝な顔をしていたが、黙って付き合ってくれた。そんなあいつを見ていて、やはり、本当のことを言った方がいいと思った。
「すまない、インス。お前には本当のことをすべて話すよ」
この日は諦めて家に帰った。帰り道、インスに俺の正体を明かしたが、インスはなかなか信じてくれなかった。そもそも見たことのない未来を想像するのは難しいようだ。
昼間はインスといたから気がまぎれていたけれど、日が暮れて一人で家にいると、ホミンのことばかり思い出してしまう。俺は何もする気になれなくて、ごろりと横になった。ちくしょう。男っていうのは意外にメンタルが弱い生き物なんだ。
俺は起き上がり、扉を開けて外に出た。ホミンが消えた瞬間を思い出し、同じことをやってみた。ここを走って、こんな感じで……何も変わらねえ。
俺は空を見上げた。星がきれいだった。こっちの世界は降ってきそうなほどの星がある。
「今日は月が丸くないなあ」
俺はしばらく外を歩いていたが、また家の中に入り、酒を飲み始めた。飲んでも飲んでも気持ちよくならなかった。勝手に涙がこぼれたが、俺は泣き上戸なんかじゃない。勝手に涙が出るだけだ。
またそのまま眠ってしまった。
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