第二章 ジン

第47話 ジンとして生きる

 俺は2018年の初夏、バーで酒を飲んでいた。浴びるように飲んでいたところまでは覚えている。そして気がついたらこの世界にいた。ここは16世紀半ば、李氏朝鮮の時代、俺が出演したドラマ「漢陽ハニャンの華」の舞台だ。俺は俳優だから、初めはドラマの撮影の夢を見ているのかと思ったが、違っていた。時間が経つにつれ、ここは確かに俺の現実だとわかってきたのだ。何もかもドラマそっくりだったので、俺はドラマで演じた役名「ジン」を名乗り、ジンの人生を歩むことにした。


 俺は俳優として、そこそこ売れていたのに、こっちでは誰も俺のことを知らない。それどころか、身元を保証してくれる人も、住む家もなく、食べる金さえ一円も持っていなかった。ゼロからの出発がこれほどまで辛いものだとは、元の世界にいた時は知りもしなかった。仕事が減ろうが、ギャラが少なかろうが、支えてくれる人がいて住む家があるだけ数百倍ましだと思う。


 最初にこの世界に放り出されたのは河原だった。しばらくあたりをさまよったがどうしようもなくて、その日は橋の下で夜を明かした。ホームレス生活の始まりだった。


 食べるために、魚を捕まえようとしたり、木の実を探したりもしたが、都会育ちの俺にはなかなかうまくいかなかった。散々迷った末、畑の物をちょっと拝借してしまった。それは屈辱的でもあり、みじめで辛いことだった。しかし、そうでもしないと食べ物にありつけなかったのだ。あの時のことは思い出したくない。


 橋の下で寝起きしていると、数日後、なわばりに侵入したとゴロツキに囲まれてしまった。もう終わりかと思うと、思わぬ力が出るものだ。迫真の演技でドラマ「漢陽の華」のゴロツキのボス、ジンを演じきってやった。すると、その迫力と、身に着けていた武道のおかげか、奴らに勝ってしまった。それをきっかけに、そいつらを子分にし、その辺のゴロツキを脅したり、けんかに勝ったりして、いつの間にか、本当に俺がそのあたり一帯のボスになっていた。演技のために磨いた武道をそんなことに使うなんて本当に俺は最低な奴だ。


 俺は向こうの世界から履いてきたジーンズをそのまま履いていたが、着たきりだったせいで古くなり、意図せずにダメージデニムになっていた。そんな姿で河原を歩いていたある日、川を下る船から大きな声が聞こえてきた。


「そこの者! 止まれ! 聞きたいことがある! 世子セジャ様のご命令だ! 決して悪いようにはせぬ!」


 世子様が舟遊びをしていたのだ。悪いようにはせぬだと? まあ、世子に会えるなんて一生ないことだろうから、顔でも拝んでやるかと、その場にとどまった。


 やがて家来が降りてきて、俺を世子の乗る船に案内した。


「世子様に失礼のないように。あまり近づくなよ」

「わかってるよ。そんなこと」


 ああ、わかってる。身分が違いすぎて反吐が出らあ。どうせ、汚いの、臭うのと思っているんだろう。


 世子はいかにもいい人という感じの穏やかな人だった。少し離れてひざまずき、挨拶をした。


「世子様に拝謁を許されましたこと、恐悦至極に存じます」


 俺のその言葉を聞いて周りがざわついた。こんな言葉、俺はドラマの撮影で嫌になるほど聞いているが、本物のゴロツキが知っているはずもない言葉だからだろう。世子が口を開いた。


「皆、席をはずせ。この者と二人だけで話がしたい」

「世子様、危険でございます。せめて、チェ・ユンソンだけでもこの場に!」

「いや、大丈夫だ。二人にしてほしい」


 世子よ、なぜそんなに俺を信じられるんだ? ゴロツキだぞ。俺は驚いた。皆が部屋を出ると、世子はいきなり俺にこう言った。


「そのジーンズ、おしゃれですね。未来の世界から来たのですか?」

「世子様? 今なんと? なぜ私に敬語を?」

「私もそうだからです。あなたの方が年上だ。私には隠さなくていいですよ」


 驚いた。この人も未来から来たのか。しかも世子だ。


「はい。私も未来から参りました」

「あなたはあの河原で暮らしているのですか?」

「はい」

「それは大変ですね。どうでしょう。一つ私に力を貸してもらえないでしょうか。もちろん、家を提供するし、食べることにも不自由はさせません」


 そんなに簡単にこんなおいしい話を信じていいものか少し迷ったが、ジーンズを知っているなら、向こうから来たとみていいだろう。仲間と思いたい。


「あなたはなぜ世子なのですか?」

「いい質問ですね。私は自分のベッドでインフルエンザで苦しんでいたはずなのですが、目覚めたら、世子の寝床にいて、私は世子と呼ばれていたのです」

「何も知らない世界に来たのに、世子になってまつりごとなどはどのように?」

「記憶喪失を装い、無能であることを強調したら、難なくクリアでした。そもそも本物の世子が病弱で、何でもできる人ではなくて、何度も死にかけていたから、もしかすると死んだタイミングで私と入れ替わったのではないかと思っているのです」

「そうでしたか。承知しました。私でお役に立てるなら」

「それでは、よろしく頼みます。これからは周りの目があるので、世子としてゴロツキのあなたと接します。敬語は使いませんが、あなたの命を守るためには仕方ありません。お許しください」

「承知いたしました。ありがとうございます。世子様」


 こうして俺は世子の命令に従って働くことになった。あいつは人前では無能を装っていたが、本当は頭の切れるやつだ。俺はあることを調べる潜入捜査のために、商団で働くことになった。






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