第45話 京都御所

 杏奈は砂利の上をしばらく歩き、御所の近くまで来た。御所の入り口から中の見学を終えたと思われる2~3組の観光客が出てくるのが見え、そのうちの一組が杏奈の方に向かって歩いてきた。背の高い男性の二人組だ。そのうちの一人は、ひときわ目立つ、スタイルのいいモデルのような男性で、カジュアルなジャケットとパンツに、ウールのロングコートを羽織った姿は他の人と違うオーラを感じた。そして、その顔を見て、杏奈は息が止まるかと思った。


「兄貴⁈」


 彼は連れの男性と韓国語でしゃべっていた。


(いや、ジン兄貴がいるはずはない。今ここにいるとしたら、あれはユ・テハさんだ!)


 ユ・テハ。「漢陽ハニャンの華」でジンを演じ、好評だった韓国の俳優だ。杏奈は、韓流時代劇「漢陽の華」のジンが好き、つまり、ユ・テハの大ファンだ。彼が出演した作品は端役の作品まですべてチェックしていた。突然の「推し」との遭遇に、緊張してきた。


(写真撮っても大丈夫かな? 握手とか無理かな? サインもらえるかな?)


 あっという間に彼らが近づいてきた。


(どうしよう! 速い!)


 杏奈は携帯を取り出すのがやっとだった。顔を上げると、もう一人は通り過ぎようとしているのに、彼だけが杏奈の2メートルほど先で立ち止まっているのに気付いた。


(ユ・テハさん!)


 彼はじっと杏奈を見ていた。そして、連れの男性が杏奈の横を通り過ぎた後、ゆっくりと杏奈に近づいてきた。


(え? 私?)


 杏奈はキョロキョロ周りを見たが、誰もいない。どうも自分の方を見ている。どうしていいかわからず、立ち尽くしていると、彼は杏奈の目の前に立った。そして、突然杏奈の頭をポンポン、クシャっとなでてこう言った。


「ホミン、久しぶりだな」


 少し韓国語なまりの日本語。


(兄貴?)


 この感じ、この感触! いつも会うたびにこうしてくれた! 兄貴だ! しかし、声が違う。日本語の吹き替えではなく、ユ・テハ本人の声だ。


「兄貴……ですか?」

「そうだ。俺だよ。やっと会えた」

「本当に? 本当に兄貴なんですか?」

「ああそうだ。お前、俺の家から帰るとき突然消えたから必死で探したよ」

「兄貴!」


なかなか吞み込めないホミンの頭を、ジンはポンポン、クシャッとなでた。


「もう一度聞こう。ホミン、お前、女だな?」

「は、はい。そうです。だましていてごめんなさい」

「俺は1年も待った。もう我慢しない」


 彼は杏奈を強く抱きしめた。杏奈はしばらくどうしていいかわからなかったが、彼が杏奈をなかなか離さなかったので、思い切って彼の背中に手を回した。


 このぬくもりを求めていたのだ。この世界に戻ってからのえぐられるような胸の痛みは、この人に会いたかったからなのだ。もう、人目など気にならなかった。今ここで二人の思いを結び合えることの方が大切だった。彼の「1年」という時間を取り戻すかのように、長い長い抱擁だった。



「俺の本当の名前はユ・テハ。韓国の俳優だ。俺もこっちの世界の人間だ」

「……」


 杏奈は胸がいっぱいで何と言っていいかわからなかった。


「お前にずっと言いたかったことがある」


 ユ・テハの瞳はあふれる思いをかくさなかった。


「ホミン、お前が好きだ」


(聞けた。兄貴の言葉。良かった)


「兄貴、私もあなたが好きです」


 ユ・テハが苦笑いした。


「おい、兄貴って、その呼び方、なんだか変な気分にならないか? お前の本当の名前は?」

「高橋 杏奈。杏奈です」

「タカハシ アンナ……アンナ、サランヘヨ……サランハンダ」

「ユ・テハさん……私もサランヘヨ」


 ユ・テハは杏奈の言葉を聞き、激しく唇を重ねた。杏奈の手は彼の背中の男らしさを感じていた。胸が厚くて、肩幅が広くて、鍛えられたがっしりとした体だった。ふたりは溶けてしまいそうな幸福感に身をゆだねた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る