第44話 帰宅
杏奈は帰りの電車の中でこれまで起こったことを一つ一つたどっていた。
なぜか「
(ジン兄貴はドラマみたいに荒い人ではなくて優しかったし、素敵だったな。
テレビで見ていた頃とは比べ物にならないくらい会いたくて胸がしめつけられた。
(まだ気持ちを伝えていない。ただ一言「あなたが好き」と伝えたい。こんなタイミングで終わるなんて)
ジンも自分の気持ちを言葉では言わなかった。
(そういえば、私が
ひとりの女性ではなく妓生として、性の対象として見ていたとしたら……それだけは嫌だった。でも、川で「抱きたい」と言っていた。
ホミンはプルプルと首を振った。
(もう一度ジン兄貴に会いたい! 身体が回復するまでお世話をしたい!)
そんなことを考えているうちに電車は駅に着いた。そこから自転車で10分。久しぶりに帰る家はとてもなつかしく、何とも言えない安心感で、思わずハ~っと息を吐いた。
「ただいま」
「お帰り」
いつもは母の顔なんか見ずに自分の部屋へ行くのに、母の顔が見たかった。すると母は笑顔で杏奈を迎えてくれた。母にとってはいつも通り、何も変わっていないはずだ。毎日知らん顔して行ってしまう娘の背中を、やり場のない笑顔で見ていたのかもしれない。杏奈は部屋に入らず、リビングに行きたくなった。
「ただいま」
リビングに入り声をかけると、テレビを見ていた父が振り返った。
「おかえり。めずらしいな」
その顔はとても嬉しそうだった。小学生のころ、父が会社から帰ってきてお帰りなさいと迎えた時の父の顔を思い出した。
翌日、大学のホームページを開いたら、1コマ目の授業が休講になっていたので、杏奈は待ちきれなくて、約束より少し早い時間に京都御所に向かった。詩織には、待ち合わせ場所を大学ではなく御所に変えたいとメールを送った。
御門を入ると、そこだけ別世界のように静かな空間だった。杏奈は約束の時間まで御苑を散策することにした。冬の冷たい大気の中で冴える木々の緑と、広くて白い砂利道。そして、何百年もそこで人々を見てきたであろう古い建物が、杏奈を見下ろしていた。
砂利道を踏みしめると、靴底を超えて足裏に痛みが走る。平日のせいか、ほとんど人がいなかった。以前友達と訪れた時とまったく印象が違う。それは、実は御苑だけではない。こっちの世界に帰ってから、当たり前だと思っていた身の回りのもの、何もかもが新鮮で、それらを与えられていることを本当にありがたいと思った。その中でも特にここ、御苑は心が洗われるようだった。
(私はなぜあんな体験をしたのかな……)
今、こんな気持ちになれることだけでもプラスだと思う。「普通」でいられることが何と幸せなことか。でも、苦しい。ジンへの思いは簡単に忘れられそうにない。
(そういえばユンシク師匠は、
安易に向こうの世界での恋を忘れて幸せになってほしいなどと考えたことを申し訳なく思った。しかし、詩織のつぶやきにはよく夫の話が出てきた。
ユリ『今日は結婚記念日。主人と思い出のレストランに行きました』
ユリ『主人が手作りピザを焼いてくれました。うまし!』
ユリ『頭痛で横になっていたら、主人がお茶碗を洗ってくれました。素敵な旦那様です』
幸せがあふれ出て、いつもおすそ分けしてもらっていた。彼女は今、幸せになっていると考えて間違いないだろう。
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