第41話 夕暮れの空の下

「ホミン」

「はい。兄貴、なんでしょう?」

「ありがとな。巻き込んで済まない」

「かまいません。お役に立ててうれしいです」

「あの帳簿に書かれていた両班ヤンバンたちに、義禁府ウィグムブの取り調べが始まるだろう。実は大変なお手柄なんだよ。お前のおかげで、この国が正しい方向に導かれる」

「兄貴と世子セジャ様が頑張ったからですよ。僕は言われたことをやっただけですから」


 その時、ジンがホミンの手を握った。ホミンの鼓動がトクンと跳ねた。


「しばらくこうしていてくれないか」


 ジンが目をつむってしまったのでホミンは何を言っていいかわからず、体を固まらせていた。手のひらが汗ばんで恥ずかしく感じたが、そのまま動かずに時の流れの中でじっとジンの顔を眺めていた。


 顔色が悪い。疲れは隠しきれなかった。唇の色も悪く、どれだけの苦痛に耐えたのかと思うと涙がにじんできた。その時、ジンが目を開けた。


「泣くな。大丈夫だ」


 そう言うとまた目をつむった。


(なんで、こんな目に合わなければいけないのだろう。なぜ、兄貴が? 世の中にはこんなにたくさんの人がいるのに、なぜ兄貴が?)


考えるほどに、悔しかった。その一方で、何事もなく平穏に健康に過ごせることがどれだけありがたいかを感じた。


(むこうの世界だったら、こんなむごいことはされないし、けがをしても、タクシーに乗れるし、医療も発達しているから、苦痛も緩和できる。話したかったら、すぐに電話もできるし、顔を見たかったら、ビデオ通話をすればいいのに)


 その時、扉を叩く音がした。


「コ・シアンです」


 ジンは慌ててホミンから手を離した。


「どうぞ」


 ホミンが扉を開けに行くと、コ・シアンは部屋に入るなり、深々とジンにお辞儀をした。


「この度は大変でしたね。足を見せていただけますか?」


 彼女は丁寧に足の状態を診た。


「骨折はしていないようですし、股関節も大丈夫でしょう。薬を塗っておきます。痛みはありますが、少し安静にしていれば、治ると思います」


 その言葉を聞いてホミンの表情が緩んだ。


「ほら見ろ。大丈夫だって言っただろ? 歩けないわけじゃないんだ」


 蒼白なジンのわずかな笑顔が、逆にホミンの胸を締め付けた。


「兄貴、わかりました。痛いの痛いの飛んでけ~! です」


 ホミンは笑顔を作る努力をした。シアンは、熱もでているから、それもあわせて薬剤を調合して後で届けると言って帰って行った。


「兄貴、今日ここに泊まっていいですか?」


 ジンの時間が一瞬止まった。


「男の一人暮らしの家に泊まるのか?」

「そんな体で、一人になんかできません。男同士なんだから構わないでしょう?」


 ホミンの澄んだ目がジンをとらえていた。ジンはホミンの強い思いを感じた。


「男同士か。よし。いいだろう。ただし、ユンシクが心配するから、明るいうちに帰って、許可をもらってからまた来い」

「ありがとうございます! 兄貴! じゃあ、今のうちに帰ってきますね! 夕食の食材も持ってきます!」


 笑顔になったホミンは、ウサギが跳ねるように家の入口の扉に走った。


「それでは、また後で!」


 ホミンが扉を開けようとした時。


「待て! ホミン!」


 ホミンの動きがピタリと止まり振り返ると、ジンが痛む足を引きずりながら入り口まで来た。


「気を付けて行ってくるんだぞ」


 そう言って、いつもしてくれるように、頭をポンポンと軽くたたいて、クシャクシャッとなでてくれた。


「はい!」


 ホミンの笑顔が元気に輝いた。手を振るジンに見送られ、ホミンはにっこりと笑って手を振ってから走り出した。ジンはその後姿を目で追った。走っていくホミンがジンの家の門を出ようとしたその時……。


 ホミンの姿がフッと消えてしまった。


「ホミン! どこだ?」


 ジンは痛みも忘れて転げるように家を出た。しかし、ホミンがいたはずのところには誰もいない。周りを見回しても、どこにもいなかった。


「ホミン! ホミン!」


 夕暮れの空の下に、蝉しぐれとジンの声だけが残された。






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