第28話 梅花の秘密

 家に帰るとユンシクは絵を描いていた。左手は固定したままなので、とても描きづらそうだ。墨の香りがしっとりと部屋を満たしている。懐かしい、書道の授業の香りだ。ホミンは書道の時間は、洋服を汚さないかと心配したり、手に墨がつくことが嫌であまり好きではなかったが、ここへ来て、自分を表現する手段となり、墨と筆に慣れてしまうと、この墨の香りが大好きになった。


「師匠! ただいま帰りました」

「あ、お帰り~」


 ユンシクは後ろ向きのまま返事をした。ホミンはユンシクのそばまで来て後ろから絵をのぞきこむと、ユンシクは挿絵の人物の周りに花を描いていた。


「今日は梅の花ですね」

「うん」


 背中で答えた後、筆を置いたユンシクが向き直った。


「聞きたいことがあるんだろう?」

「バレバレですよね」

「昨日のことだろう?」

「ハイ!」


 ホミンは飛び跳ねそうなくらい元気に答えた。ユンシクはホミンのうれしそうな顔を見て、しょうがないなと少し面倒くさそうなそぶりを見せたが、内心はまんざらでもないのではないかと見て取れた。


「俺がこっちの世界に来た時、最初に会った人が陽明君ヤンミョングン様だったんだ。陽明君様は世継ぎではないが王様の息子だ。倭国の姫だと思われて、特別な待遇をしてくださった」

「王族からの特別待遇! それって、ラッキーですね!」

「そうだね。本当にそう思う。それで、いろいろあって、男装で生きることになって、この家を与えられたんだ」

「いろいろって、両思いになったってことですよね」

「まあ、それも含むね。これ、読む?」


 ユンシクに渡されたのは「月光夜曲」とタイトルが付けられた原稿だった。


「これは……?」

「ここに来てからのことを小説にしてみた。まだ途中だし、かなり脚色してあるけど、大筋は本当のことだ」

「うわぁ~」

「この時代には売ることが出来ない内容だけどね。大切な思い出を形に残したくて……。お前もジンのことを書いてはどうだ? 表現力も上がると思うよ。」

「そうですね。やってみようかな。ありがとうございます! これ、読ませていただきます!」


 ホミンはユンシクの原稿を持って、いそいそと行ってしまった。



 しばらく静かな時間が流れていたが、ユンシクが仕事道具をかたずけているところにパタパタとホミンがやってきた。


「師匠~!」


 興奮していた。


「どうしたんだ?」

「読ませていただきました。師匠、いろいろあったんですね……向こうに帰ったら、絶対世に出すべきです! とても良かったです! 早く一緒に向こうの世界へ帰りたいですね!」

「帰りたいような、帰りたくないような……」


 ユンシクは、あきらめたような表情で下を向いた。当然帰りたいだろうと思っていたホミンには意外だった。


「陽明君様がいらっしゃるからですか?」


 ユンシクが顔を上げて、弱々しく微笑んだ。


「妻子あるあの方の妻になれないことは変えようのない事実だ。でも元の世界に帰ることと、愛する人に二度と会えなくなることを天秤にかけてごらん。今の俺は、1か月に一度でも会える、こっちの生活の方を選びたい」

「そうですよね……」


 ユンシクのポーカーフェイスの裏に複雑な思いがあることを、あらためて知った。


 その日、ホミンは床についてもなかなか眠れなかった。


(僕はどうなのかな……帰りたくて仕方ない気持ちと兄貴に会いたくて仕方ない気持ち。でも、両想いではない。だから、帰りたい気持ちの方が大きいのかな……)


 ホミンは考えているうちに眠りについたようで、気付いたら朝になっていた。


 その日もホミンはジンが帰っていないかと商団をのぞいたが、ジンの姿はまだなかった。いつものようにヘリョンがお茶の準備に来たので、声をかけてみた。


「ヘリョンさん!」

「こんにちは。ホミンさん」


 この人の笑顔は人を安心させる。


「ジン兄貴はまだですか?」

「まだ帰っておられません。せっかく来ていただいたのに、残念です」

「そうですか。ちょっとお礼を言いたかっただけなので大丈夫です」


 たった2日が本当に長く感じられた。


(携帯電話があったらいいのにな……)


 会えないことがこんなにつらいとは思わなかった。向こうの世界では会えないのが当たり前の人だったのに。


(明日は約束の日。ジン兄貴は肖像画のお礼に川へ連れて行ってくれるって言った。本当だよね?)


 ホミンは不安になってきた。ジンは、約束では家に迎えに来てくれることになっていたが、ずいぶん前の約束だ。ちゃんと覚えていてくれるのだろうか……。


「ヘリョンさん、兄貴に明日よろしくお願いしますとお伝えください」

「ええ。お伝えしておくわ」


 とにかく、信じて待つしかなかった。

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