第8話 仕事に打ち込む

「おい、起きてるか?」

「あ、ユンシクさん!」


 ホミンの顔を見て、ユンシクが言った。


「さては、現実の恐ろしさを感じてるな。わかるよ。俺も最初はそうだったからな。帰りたくて泣いていたよ」


 意外だった。ポーカーフェイスのユンシクでも泣いたのだ。


「ユンシクさん、1人で放り出されて、本当に大変だったでしょう? よく耐えてこられましたね」

「俺はね、ラッキーだったんだよ。いい人に拾われた。こうして安全な住まいを与えてもらったし、精神的にも支えてもらえたから」

「そうなんですか」

「でもあの頃は両親に会いたくて淋しかったよ。お前もそうじゃないか?」


 一人になれたらどんなにいいだろうと思っていたが、本当に一人になってしまった。ここへ来る前は毎日両親とけんかしていた。帰りが遅いと言われては反抗し、ひとり暮らしをしたいと言うと反対され、そのたびに言い争いになって、心底ウザいと思っていたのだ。しかし、父と母の心配ぶりが目に浮かぶ。警察に届けただろうか。杏奈が一人っ子のせいか、人一倍過保護な親だ。母なんか正気でいられるのだろうか。



「飯ができてるよ。食べたら仕事を教えてやるよ」

「ありがとうございます」


 ぐっすり眠ったおかげで頭痛もなくなり、ホミンの身体は元気になっていた。ユンシクの話から、すぐには帰れそうにないと分かったのだから、気持ちを切り替えて、今を生きるしかない。いや、まだ夢の中にいるという希望も捨てていない。何とかなるだろうといつものように前向きに考えることにした。


 朝食は質素なものだったが、美味しかった。しかし、心の方は下り坂で、家が恋しかった。今まで、親の描いた人生を強制されて、ウザいと思っていたけど、こうなってみると、会いたい。いつか帰れることを信じるしかないが、二年は長いと絶望的な気持ちになった。一人になりたいなんて、ただのわがままだった。今、ユンシクがいなかったら、自分がどうなっていたか、考えるとゾッとした。


 数日たってもホミンの目は覚めず杏奈には戻れなかった。どうやらここが現実のようだとあきらめの気持ちになってきた。ここはスマホもパソコンもなくて何の楽しみもなかったから、仕事に打ち込むのが一番だった。仕事さえしていれば、その時間は無心になれる。手始めに、ユンシクが書いた小説に挿絵を描いてみた。筆は扱いにくいが、すぐに慣れたし、ユンシクがとても喜んでくれたのでうれしかった。ここへ来て初めて見たユンシクの笑顔だ。


 更に日が経つと、ホミンはやっと現実を受け止められるようになっていた。まだ外には出られなかったが、仕事も軌道に乗り始めた。ラブストーリーに添えられたホミンの美しい挿絵は大人気で、外から帰ってきたユンシクが飛んできて、「今日もよく売れたよ」と、ほめてくれた。絵を描く事が大好きなホミンは、毎日の仕事を楽しみ、男としての振る舞いも板についてきた。そんなホミンを見てユンシクは満足げに微笑んだ。


「おい、ホミン、お前、少年に見えるようになってきたな。立派な男だ。よく努力した」

「ユンシク師匠に教えてもらったからですよ」

「そろそろ、外に出てみるか? 家の中ばかりじゃ、退屈だもんな」

「いいんですか?」

「今日は取引先にお前を紹介しよう」


その日の午前中は二人であいさつ回りをすることになった。




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