第4話 逃走

 黒い虫がいた。杏奈は虫が大の苦手だ。さらに、ヘビでも出てこようものなら、死にたくなるかもしれない。

 

(一人で生きていきたいって思ってたら、本当に一人になっちゃった……。どうしよう。とにかく、夢から覚めるまでは快適に過ごしたい! もう一度ジンに会いたい!)


 杏奈は夢だと思って疑わなかった。それにしても、リアルに暑い。飲み物もないのに、汗が容赦なく滴り、背中に衣がべたっとくっついていた。せっかくここまで来たけれど、やはり、人に助けてもらうしか方法はないと思い、来た道を少し引き返して、農家を訪ねることにした。無人島で過ごす番組のようなサバイバルは、杏奈には到底無理だ。


 最初に目についた粗末な藁ぶき屋根の家で、お水をもらおうと声をかけた。


「あの……すみません……」


 髪がぼさぼさで、貧しい身なりの男が作業をしていた。


「お前、そんな恰好で俺に色目を使っても、うちなんかには何もないよ。俺たちは今日食っていくだけで精いっぱいなんだ。帰ってくれ」


 妻らしき女が家の中から出てきた。


「ちょっと、あんた! そんな恰好で色目使って、人の夫に何すんだよ! さっさと帰りな! 二度と来るんじゃないよ!」


 色目……。そんなつもりはこれっぽっちもない。むしろ、お断りだ。しかし、足を出していることがマイナスに働く。


 厄介になるにはある程度の財力がある方がいいと悟り、杏奈はその粗末な家を後にしてもう少しましな家を探した。しかし、欲深い商人や両班だと、妓楼や塩田に売られて奴婢にされかねない。大きな家の使用人なら、今の杏奈に同情して、食べ物を分けてくれるかもしれないと考えた。ふと、見渡すと、眺めのよさそうな少し高いところに、上品であまり大きすぎない屋敷があった。


(あそこなら、使用人がいるかな?)


 杏奈はその屋敷に近づいて、中を覗こうとしたが、塀が高くて中を見ることができなかった。


(誰か帰ってきたところで、声をかけるしかないかな……)


 そう思っていると、後ろから肩をたたかれた。


「おい、お前、困っているだろう」


 ひっ! と心臓が縮みあがり、思わず振り返ると、切れ長の目ですらりとした細身の、杏奈と同年代とみられる男が立っていた。水色の衣を着ている。そこそこの家の息子だろう。


 杏奈はなんと答えるべきか迷っていた。すると、その男が無表情のままで言った。


「その服装から見て、お前、未来から来たな」


 杏奈は目を見開き、男を見た。男の表情は変わらない。


「驚いたか?」


 更に男は小声でこう言った。


「実は俺も未来から来たんだ」

「え? あなたも?」

「まあな」

「一体どうなっているんでしょうか?」

「ここが朝鮮王朝時代だという事はわかっている」


(やっぱり「漢陽ハニャンの華」の時代にいるんだ……)


 この時、夢と信じて疑わない杏奈は、まだ軽く考えていた。


「お前、行くところがないんだろ。困っているなら俺のところへ来るか?」

「いいんですか? ありがとうございます!」







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