第3話 素敵な夢

「しっかり水を飲め。」


 また、あの甘い声。


「あらやだ、ジン、ならず者のあんたらしくないねえ。今日はえらく優しいじゃないか」

「うるせえ! 初対面の女なんだから、当たり前じゃないか……おい、お前、もう一眠りするといい」


(ジンって呼ばれてる! 本当にジンなの? もうひと眠りするといいって……ああああ、かっこいい! いい夢! 明日この夢のことをつぶやこう)


 もっとジンの姿を見たかったが、あまりに頭痛がひどかったので目を閉じた。これは夢の中だし、もう一眠りしたらきっと頭痛も治ってジンと……そんなことを考えていたらいつの間にか眠っていた。




 家の外からおばさんと、インスと呼ばれていた小男の話し声が聞こえる。どのくらい眠ったのだろうか。夢の続きが楽しめそうだ。


「やっぱり、捕盗庁ポドチョン(警察業務を担当する部署)に届けた方がいいんじゃないかい? 服装が怪しいよ。あたしゃ、面倒に巻き込まれるのはごめんだよ。」

「でも、ジン兄貴はしばらく面倒を見てやってくれって言ってたよ。」

「そりゃ、アイツは何もしなくていいからね。」

「確かにあの子、服装は怪しいな、普通の人じゃない。」

「だろう? 届けようよ。」

「わかった! 兄貴に相談する! ひとっ走り行ってくるよ。」


 さっきまでいたはずのジンの声が聞こえない。帰ったのだろうか? いやに長い夢だ。捕盗庁と言っていた。このままここにいたら、捕まって牢屋に入れられるかもしれない。韓流時代劇では、捕盗庁に捕まった人は厳しく拷問されて、たとえ無実でも自白させられ、罰せられるのが常だ。そんなの、夢でもごめんだ。


「どうしよう! どうやったら逃げられるかな……」


 しばらく考えて、去年見た韓流時代劇ではトイレが別棟だったことを思い出した。


「そうか、トイレに行くふりをすればいいんだ! 」


 杏奈は今の話を聞いてしまったことがバレないよう、少しだけ時間をおいて外に出た。まだ体調は万全ではなかった。


「あの~、すみません、厠はどこでしょうか……。」


 ヨンジャが杏奈の方に振り返った。目が合った。


「漢陽の花」に出てくる食堂のおばさんのヨンジャに間違いない。ニコニコ笑っているが、作り笑いであることが、明らかに見て取れる。


「ああ、気がついたのかい? そこを出て左だよ。」

「ありがとうございます。」


 ヨンジャに怪しまれないように必要以上にフラフラした様子を装って厠に行った。なかなかの演技力、と自分をほめる余裕はあった。そして、厠の裏の塀を音を立てないようになんとか乗り越えると、すぐに走りだした。体力がおいつかず、走っていると言えるほどのスピードは出なかったが精いっぱい逃げた。


 よくできた夢だ。漢陽の街の様子は、ドラマで見るそのものだ。杏奈が疲れて歩を弱めていると、走っている時には気が付かなかったが行き交う人が変なものを見るようにジロジロ見ていた。杏奈はヨンジャが着せてくれた上衣に、下は膝丈のスカートをはいたまま素足だったのだ。この時代の女性は足なんか出していない。このままでは別の人に通報されかねないので、とにかく人目につかないところに行かなくてはならなかった。


 建物の陰に隠れながら、なんとか町はずれまで来た。人の往来は少ない。しかし、都会育ちの杏奈には、逆に寂しすぎて怖かった。


(どうしよう。喉も乾いたし、お腹もすいてきた。今日寝るところも探さないと)


 あたり一面、背の高い草が生い茂っていた。ここで、草を結んだら寝床が作れるかと、触ってみたら、指に痛みが走った。杏奈はそれがカヤであることすら知らなかった。綺麗な赤い線ができて、血が滲み始め、痛みと不安で涙がにじんできた。


「キャー!」







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