第4話【立ち消えたもの】

 月の眩さもあって夜は薄青いまま明るい。修司は、この凪いだひとときに、瞳のそばで空気が弾けるのを感じた。引かれるようにして涼香の方に視線を送る。彼女の顔も、はっきりと見て取れた。

「——どうしました。シュウちゃん」

 彼女の視線は自身のスマートフォンに向けられている。指で画面をさらりとなぞっていた。

「私。いつ、大手を振って街に出られるんですかね」

「早く、コロナが収束しないとな」

 涼香は「ほんとですよぉ」とため息まじり不満を漏らす。

「高校生活三年間は部活ばかりだったのに。その部活もコロナのせいで晴れ舞台もなく引退なんて、ひどくないです?」

 その高校も今は休校状態で、部活活動も実質休止。体を持て余していた。

「ねぇ。向こうに遊びに行っていいですか?」

「向こう?」

「シュウちゃんの住んでいる街ですよ」

 少し考えこみ、

「やめておいた方がいい」

 と言った。十代の子が好みそうな場所は、軒並み休業中なのもある。

「シュウちゃんのボルダリングジムがあるじゃないですか。壁登るやつ」

「閉めてる」

「……そっか」

 修司はじっと、上を見つめていた。

 涼香はスマートフォンを手元に置き、そんな彼を見つめ、

「遠かったですね。五輪」

「ああ。届かなかったな」

 修司の抱えていた蟠りが、今ここで吐き出された。

 不思議と吐き捨てるような気分はない。ただ、腹に力が入らなかった。

 帰郷する前から数えて何日になるのか。もうずっと、垂壁もルーフも触っていない。ホールドを掴んでマメだらけの固い手も、幾分か柔らかくなった。履き慣れたシューズは、「向こう」に置いたまま。


 スポーツクライミング。

 十代で始めた登山が続き、天然の岩場からジムのルーフまで、ボルダリングにのめり込んだ。興味から始まり、好きで続き、のめり込む。

 そうして気がつくと、修司はアジア大会に出場するクライマーになっていた。


 涼香は、修司に肩を寄せて空を見上げる。

「今年の東京オリンピックで初めて五輪種目になって、予選にも出れたのに。延期なんてさ」

「その予選で敗退したんだ。延期は関係ないよ」

「でも——」

「もう、関係ないんだ」

 出場のチャンスを知ったときの、突きあげられるような喜び。それを味わっているからこそ、今の状況は空しい。目標にしていた五輪そのものが立ち消え、未曾有の外出自粛騒ぎ。真っ当に敗退したことで自分に溜まった悔しさや渇望を、次は何に向ければいいのか。そのやり場が全く見出せないでいた。

「辞めちゃうの——?」

 その言葉が、突き刺さる。

「あんなに好きだったじゃないですか」

 眼前の木がさわさわと鳴る。夏夜の風に揺すられていた。

 修司は、軽く息を吐き、心のなかで呟く。


 ——今も、好きなのは変わってないんだ。

 ただ、その言葉は喉元で止めた。


 仕事と、趣味と、生きがいと。日々のトレーニングや大会に向けた準備。呼吸する間もないほど慌ただしかった日々が、こちらに戻るとウソのようだ。

「もう。それに馴染んでしまってもいいのか」

 もまた、自分から離れてしまったことだし——。

「ダメですよ。シュウちゃん」

「涼香ちゃん……?」

 涼香が、両手で修司の頬に触れる。

「向こうに、私を連れてってください。壁、ふたりで登りましょ」

 それから、彼女の白く柔らかい手が、自分の胸骨を優しく打った。その温かみが、自分のなかに入ってくる。

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