第17話 君のそばから

 最初は豊富なボキャブラリーから選ばれた言葉が僕に向かって放たれていた。けれど、かれこれもう数分も続くと底を突くようだ。


「ばか。ハルのばか」


 さっきからこれしか言わなくなっている。ばかだのあほだの小学生でも思いつくような、語彙力が著しく損なわれた言葉しか言わなくなってきた。

 罵倒されているのに、僕を必死に罵倒しようとする日奈の姿すらも可愛く思えてしまうのは、僕がおかしいのだろうか。

 言葉を探し、けれど結局安易な言葉に落ち着いてしまう。そこが愛らしく愛おしい。

 これは僕の勝手な想像だけれど、日奈は僕に振られたあの日から変わったのだと思う。

 一生懸命勉強し、時間を惜しむことなく運動にあて、美容にも気を配った。全ては僕に認めてもらうため。もしかしたら振ったことを後悔させるためかもしれない。悔しいから、逆にこの気持ちを味わってもらうためだったのかもしれない。はたまた他にもたくさんの理由があって、最大の要因として一つに絞ることはできないかもしれない。

 そんな努力をした彼女が、今僕の前で小学生のように僕を罵っている。

 けれど疲れてきたのだろう。彼女から発せられる言葉は段々と尻すぼみしている。

 そしてついに、彼女の口から何も発せられなくなった。


「日奈」


 一呼吸おいてから、話しかける。

 一歩、踏み出す。


「答えを、聞かせてほしい」


 もう一歩、距離を詰める。

 ――日奈まで、あと一歩。


「僕は日奈が好きだ。小学生……いや、初めて会った時から」


 僕にとって日奈は特別だった。

 幼稚園で初めて会ったとき、他のどんな友達よりも、日奈と遊ぶことを優先した。ずっと日奈と居たかった。昔のことだから詳しくは思い出せないけど、一つだけ確かなのは、いつも日奈の隣には僕が居た。僕の隣には日奈が居た。

 雛鳥のように僕の後をついてきて、親鳥のように僕を先導する日奈の姿が、今でもはっきりと思い出せる。

 僕は、一目惚れをしたんだ。人生初の恋は一目惚れ。そう珍しい話ではないと思う。

 どこかで〝初恋は実らない〟と聞いた時も、一切信じなかった。僕と日奈が付き合って、結婚して、子供に恵まれて、幸せな家庭を築くことに、一切の疑いの気持ちもなかった。

 なのに、それは夢のまた夢へと去ってしまった。誰でもない、僕のせいで。

 それから数年。突然やってきたチャンスに、僕は全てを賭ける。

 あの日壊した幸せを、今日取り戻す。僕が壊したのだから、僕が直す。


「日奈――僕と、付き合ってください」


 僕と日奈の間にはもうほとんど距離がない。どちらかが一歩踏み出せば、手を伸ばさなくても相手に触れることができる。

 日奈は一瞬息を詰まらせると、


「私はもう、頭悪くない?」


 そう問うてきた。


「もちろん」


 即答する。今では僕よりも頭がいいのだ。そんな彼女に、頭が悪いだなんて言えるわけがない。


「私はもう、運動ができない子じゃない?」

「ああ」


 全ての競技において普通以上の成績を叩き出す彼女を、運動ができないなんて言えるわけがない。


「私はもう、ブスじゃない?」

「当たり前でしょ」


 学校で一番可愛いと評判なのに、誰がブスだなんて言えよう。


「日奈はすごいよ。僕よりも、ずっと」

「うん……」

「あの頃とは比べ物にならないくらい成長した」

「うん……うん……」

「そんな日奈は僕にとってとても魅力的で、掛け替えのない存在なんだ」

「……うん」

「だから日奈。僕と――」

「うんっ!」


 一歩、踏み出した。

 僕の胸に飛び込んでくる日奈を受け止める。急なことだったのでバランスを崩して倒れそうになるが、すんでところで踏み堪える。


「私も、ハルのことが好き!」

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