第8話 棗御芳は……退職する。

 スノウになってから早くも3日が経った。その間、初日以降一度も外に出る事は無く、体が元に戻るという事もなかった。

 何度か霜月さんから電話がかかってきたが風邪で喉がやられていて電話に出られないとメールでやり取りして誤魔化した。風邪が酷いと言ってさらに追加で一日休みをもらったがそろそろ誤魔化すのも限界だろう。

 わかっていた事だが、もう今の仕事を続けることはできない。お世話になった霜月さんには本当に申し訳ないが退職の連絡を入れよう。


 そうと決めたからには早速動き出す。机の上のノートPCを起動する。そして、昨日のうちにダウンロードして調整まで済ませたアプリを起動した。

 起動したのはいわゆる変声アプリというやつで姿が変わる前の俺の声をイメージして調整した。自分の声なのでそっくりに調整できているかは不明だが多少の違和感程度なら風邪の後遺症という事で誤魔化せるはずだ。

 PCと携帯をケーブルで接続し、変声アプリを通して通話を行えるように慣れない設定を行う。


「これで、設定できたかな?」


 一度、サブで使っていた旧式の携帯に電話をかける。

 数秒のラグの後、サブの携帯が鳴ったので電話を取る。自分の声が混戦しないようにサブの携帯にはイヤホンを繋いで自分の声を聞こえ辛く、変換した声はしっかりと聞こえるようにした。


「あ~、あ~~~、マイクテスト、マイクテスト」

『あ~、あ~~~、マイクテスト、マイクテスト』


 少し遅れて発した声が男性のものとなって耳に入ってくる。変換前の声が入っているという事もない。変声アプリなど初めて使ったのでかなり手間取ったが、どうやらしっかりとその効果は表れているようだった。


 ……。


 本当にこれでいいのだろうかという弱気な気持ちが芽生える。18の時に霜月さんに拾われ就職してから、ずっと変わらず5年間も同じ職場で働いてきたのだ。当たり前だが辞職の電話などこれまでかけた事は無かった。正直、とても胃や心臓が痛い。


 ……そうして、連絡先の「霜月さん」のページと睨めっこしていると気がつけば15分が経過していた。

 長い時間をかけたがようやくほんの少し緊張が解けてきた気がする。人間の緊張はそう長く持つものでは無いのだ。15分もすれば気を張り続けてはいられなくなる。

 それでも完全に緊張が抜けたわけではないが、これ以上睨めっこしていると電話する気力すらなくなってしまうと判断した。


 俺は緊張で震える指で「発信」の文字をタップする。すると画面が暗転し「発信中……」と表示される。今の時刻は12時半。昼休憩の時間なので就業時間中は作業に没頭していることの多い霜月さんでも電話に出てくれるはずだ。


 ……。


『はい、霜月です』

「……。ぁ……」


 彼女の声を聴いた瞬間、頭が真っ白になった。消えたと思った緊張に意識が全て塗り潰される。


『……。どうしたの?棗くん、大丈夫?』

「お、お疲れ、様です。しも、つき、さん」


 何とか言葉をひねり出す。

 声は途切れ途切れ何とか紡がれた。


『お疲れ様です。その、本当に大丈夫?いつもより声は上吊っているし、随分しんどそうだけど……』

「……はい、……大丈夫、です」

『そう、それでどうしたの?本当に風邪辛そうだしもう数日休む?』

「……いえ、大丈夫です」

『本当に?まぁ、貴方が大丈夫っていうなら信じるけど……。職場に風邪を持ち込むくらいならしっかり休んで治してくれていいのよ?』

「……いえ、大丈夫です」

『そう……。それじゃあ、明日からまたよろしくね』

「……。いえ。すみません。それはできません」

『……ええっと?』

「私は会社を辞めようと思います。本当にごめんなさい」

『……え?なつめ、くん?』

「本当にごめんなさい。霜月さん。俺は……私はもう会社に行く事は出来ません。本当に、本当に、ごめんなさい」

『棗くん!?どういうこ――』


 それから何を話したかはほとんど覚えていない。ただ、ただ、霜月さんへの申し訳なさだけが溢れていた。












 ……気がつくと座椅子で眠っていた様だった。

 随分と長い時間眠っていたようで、窓から差し込む光はなく部屋は暗闇に包まれていた。とりあえず手探りでリモコンを探し部屋の明かりをつける。

 明かりが点いたので立ち上がりカーテンを閉めに行く。

 立ち上がると座椅子で寝てしまったからか凄く体がだるかった。


 カーテンを閉めに窓に近づくとそこに私の顔が映り込んだ。

 ……とても酷い顔だった。頬に手を当てる。その美しい容貌が逆に憔悴感を際立たせていた。

 私は酷い顔を少しでもマシにしようと洗面台で顔を洗う。


 何度も顔を洗って、気がつけば少しマシな顔になっていた。

 タオルで顔を拭き鏡を見る。

 そこには苦笑いに近い笑みを浮かべる自分が映っていた。


「はぁ……。何やってるんだか」


 起きてからの自分の行動を思い出して呆れたような声が出た。

 私はもう一度、タオルでしっかり顔を拭き鏡を見上げる。


 ……随分とマシな顔になったようで。


 鏡の中の自分は随分とふてぶてしい顔をしていた。スノウらしくは無いがみよしらしい顔だった。


「はぁ~、今日はがっつり酒でも飲むかぁ~」


 にやりと鏡の中のスノウが笑っていた。

 まったく、美人はどんな顔でも似合うから困る。


 俺は部屋に戻って、携帯と鍵と財布を取り家を出る。

 さぁて、今日は飲むぞ~。



「……ぇっ?」


 家の鍵を閉めて階段に向かおうとしたとき、見慣れた人物がそこにいた。

 思考が一瞬停止する。

 だが、停止したのは一瞬だけだった。

 俺は何事もなかったかのように彼女の――霜月さんの横を通り過ぎようとする。


「――ちょっと待って」


 何事もなく通り過ぎようとした俺の手は霜月さんに掴まれていた。


 自分勝手に振り切ったと思ったものはそう簡単には俺を逃がしてくれないのかもしれない。


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